17


 帝都を騒がせている大怪盗が予告状を投げて寄越したのはその翌日である。


 あろうことか、それは常時帝国軍所属の近衛騎士に見張られている筈の皇帝の居室の前であったというから始末に負えない話である。起きて、草色の胴着と膝上まである薄い白の靴下にイオクス材色の太腿が全部見えるズボンといった軽装に着替え、朝のシルディアナ放送を見ながら自分で作ったスピトと果実のゼリー寄せを食べていたラナは、爽やかな果肉を噛み潰しながらその内容に見入った。休日なので、シヴォン産のお茶を追加しながらのんびり朝食を取っていても誰も何も咎めないのがいいところである。


「――その日任務に当たっていた近衛兵の証言によりますと、予告状は突如空を切るようにして飛んできたとのことです」


 何を言っているのか一瞬理解出来なかったが、よく報道を聴いていれば分かった、文字通りらしかった。近衛兵でも察知することが出来なかったということなら、相当な手練れに違いない。ラナは近衛兵の強さなど知らなかったが、以前騎士課程の訓練の際に、学舎勤務の教師陣の中で最も若く溌剌としているメライダ教官でさえ、近衛兵の手練れには敵わないという話を聞いたことがある。尤も、それは装備なしの素の状態を想定した比較だというから、脚部装甲や武装によっては勝てるかもしれない、などと彼女は思った。


「――シルディアナ帝国調査局のシーカ・パラウス第五課班長によると、予告状には“キウィリウス家の至宝をお返しする”との文言が書かれていたとのことです」


 ラナの心臓が跳ねた。またキウィリウス家の話だ。自分のもう一つの家は一体何を持っているのだろう、以前からその疑問は抱いていたが、今、彼女の中でそれが膨れ上がっていく。


「――また、直ちに残存術力の解析を行うとのことですが、解析が完了するまでには一月を要する見込みです」


 映像機に映されている報道官は以前“大怪盗”に関することを伝えていたのと同じ若い女性で、今日も変わらずに淡々と報道を読みあげている。後頭部ですっきり纏めた長い髪には編み込みが入っていて、何処か帝都らしくない装いだ。編み込みはスピトレミアを中心とした帝国東部の文化である。


「――この予告状に対して、シルディアナ帝国第五代皇帝イークライト・シルダ陛下は、誠に遺憾であるが目的と狙いの見当もついたので同時に感謝もしている、とのお言葉を、音声はございませんが御自ら公表なされました」


 皇帝だ。顔も声も知らない。帝国の頂点に君臨しているにもかかわらず今まで何の動きもなかった存在が突然何らかの意志を表示したことに、報道官も声に乗る驚きを隠せていない。知らない世界が少しずつ近付いてきているような気がして、ラナは眉をひそめた。


 食べ終わった後に残った食器を調理台の隣にある水場で洗いながら、彼女は平面映像機の音だけを聴き取る。報道は大怪盗の話から次の話題へ移っていた。ラナがエイニャルンに来た七月の頭には、風が強く吹いて、大陸中央部に雨季が到来する。それから暫く経ったが、来月、つまり十一の月に皇帝家から重大な発表があるとのことだ。何でも、近衛や竜騎士が任に当たっているらしい。病弱ではなくなったのだろうか、或いは危篤なのだろうか。帝国民に愛されているかどうかさえ判別可能な状態にない皇帝だが、もし訃報であれば、シルディアナ帝国は一年間白を纏い、喪に服すだろう。


 白といえば、と、ラナは食器を洗い終えて思い出す。今日は領主主催の会食だった。


 昨晩ティルクからそれを聞かされた時、休日なのにゆっくり出来ないから色々と終わった昨日の夜にやって欲しかった、と思ったが、彼女は口に出さなかった。が、おじ自身も同じことを考えていたらしい。


「明日は一日休みだからお前と崖の商人居住区へ行こうかと思ったのに」


 それを聞いた時、ラナは思わず笑ってしまった。


 そして、今日はティルクのサヴォラをラナが練習がてら操縦して、商人居住区へ買い物である。会食の際の衣装探しだ。結局出掛けるのだからそれはそれで楽しみだった。今は昼三の刻、もうすぐ迎えに来る筈だ。


 などと考えて、胴着の上に羽織、腕輪の上から手袋を着け、サンダルから軽めのブーツに履き替えていたら、部屋の扉が叩かれた。開けるとそこには思った通り、ティルク。


「迎えに来たぞ」


「準備出来たよ」


「よし」


 ラナが笑顔で答えると、ティルクも明るい笑みを返してくれた。


「サヴォラの所まで行こう」


「すぐだよね?」


「俺の部屋の出庭にある、すぐだ」


「すぐだね」


 ティルクの部屋はラナの部屋のすぐ隣だ、すぐそこだった。エイニャルンでは、岩盤の中を通る洞窟の中が、人々が住む様々な大きさの部屋への入口となっている。暗いと思うなかれ、常時光魔石のランプがそこかしこに設置されているので、とても明るい。赤い岩盤の内部は剥き出しではあるが、その天井は美しい半円を描いており、部屋と部屋の境目には柱に似せた円柱状の出っ張りが存在していて、そこに施された水流文様が流麗で美しいのだ。


 初めて入ったティルクの部屋はラナの部屋以上に殺風景で物がなかった。寝台と衣装棚、食事用の椅子と机、平面映像機しかない。ただ、いずれの家具も丈夫で真っ直ぐな木目のイオクス材を用いてしっかり作られており、高級な物であるということだけはわかった。部屋の奥にはグランス鋼で作られた透明な扉があって、日光を遮る為の分厚い布が外界を覆うように吊るされ、垂れ下がっている。領主護衛の任を三交代で回しているので夜勤になる時があり、昼間に睡眠を取ることがある、と以前言っていたから、その為だろう。扉の向こうは出庭だ。垂れ下がった布を脇にずらすと、岩盤の上に盛られた土の上に芝が生い茂り、その上にティルクのサヴォラが鎮座していた。黒塗りだ。


風の蝶フェーレ・フィリ?」


「そうだ、風の翼フェーレ・エイルーダと操縦方法は同じだから心配するな」


 風の蝶フェーレ・フィリ風の翼フェーレ・エイルーダと比べると一回り機体は大きい。少し幅を取る上に燃費が良いのは風の翼フェーレ・エイルーダの方であるが、これはこれで完成された扱いやすい機体である。何より、スピトレミアでは十分に出回ったこともあって、金貨四百程度を貯めれば買うことが出来た。


 ラウァは操縦桿の近くの平らな面に二つとも置いてあった。シルディアナのサヴォラ乗りは操縦桿に引っ掛けるようなことを絶対にしない、万が一その重みや何らかの弾みでラウァが操縦桿を引いてそれが上がったり下がったりすれば、事故だ。ラナはラウァを二つとも取って、一つをティルクに渡した。手袋に包まれた大きな手が受け取ったのを確認してから、彼女はそれを装着する。伸縮性のある竜革がしっかり嵌まった。


「俺が後ろから指示する、その通りに行ってくれ」


「わかった」


「後、これだ、これを付けておけ」


 ティルクが黄色い布をどこからか取り出し、高く上がったサヴォラの尾部分、噴出口に掛からない位置にしっかりと括り付けた。


「初心者の証だ、この色の布を今の位置に括り付けるのが義務付けられている」


「スピトレミア以外でも?」


「帝国全体だ」


 ラナは頷いた。初心者が操縦するサヴォラから出来るだけ距離を置くことによって、熟練者が巻き込まれる事故を可能な限り防ごうとしているのだろう。サヴォラの事故は初心者が起こす確率が高い。


 そうして二人は無事に魔石動力を起動させ、竜翼を展開した風の蝶フェーレ・フィリでのんびりとエイニャルンの谷の中、北に向かって飛んだ。向かい風だが、魔力の翼を抱くサヴォラには関係のないことだ。


 ティルクの指示は端的且つ簡素にして的確であった。ひょっとしたら中等学舎の教官よりも不愛想かもしれないが、ラナは身内であるからあまり気にしない。それに、エイニャルンの谷は一本道であるから飛行するのは非常に簡単で、初心者にうってつけの練習場所だ。もっとも、竜翼ではなく砂漠燕の翼を展開していたら話は違っていただろうが。


 巨大な岩盤の上を歩いて行っても、目的地に行けない、などということはない。だが、サヴォラがあれば、一刻かかる道をその十分の一に短縮することが出来るのだ。とても便利である。谷の間に不純物を可能な限り取り除いた密度が高く強靭なフェークライト鋼の柱を立てて、橋を渡し、サヴォラの発着所を作ったり人が行き来する道を作ったりする必要はあったが。そして、フェークライト鋼の柱や足場、橋は、景観の統一の為に岩盤の赤さと同じ色の塗装を施されている。そういうわけで、エイニャルンの谷は不思議かつ統制のとれた様相を呈していた。


 ところで、目的地は商人居住区である。サヴォラの発着所は安全性を考慮して谷の底や中腹などではなく、岩盤の上と同じ高さに建設されている。そこから水無き谷の底まで魔石動力つきの昇降機が設置されているので、それで好きな階層まで降りていくことが可能だ。


 無事に着いた発着所は円形で、ラナの胸の高さくらいの位置までの柵が取り付けられており、風の蝶フェーレ・フィリが十機ほど並べて停められそうなぐらい広かった。中央にはこれまた柵付きで円形の昇降機が到着している。既にサヴォラは二、三機停められていて、商人居住区に客が入り始めているのだろう。停められている機体に習って、ラナは発着所に設置されている鎖と風の蝶フェーレ・フィリを繋ぎ、ティルクの所有物を誰かに持って行かれないように固定した。免許証が運転鍵となっており、操縦桿の奥にある複雑な魔石認証窓に翳せば動く仕様なので、免許証さえあればさらりと持っていくことも可能である。盗難防止の為、認証登録した者のみの搭乗及び操縦が可能になるように開発を行っているのが、スピトレミアの動力研究所だ。


「よし、行こうか」


 ラナの固定が問題ないことを確認したティルクが言った。先程の飛行に関しては何の感想もなかったので、大丈夫だったのだろう。


「ティルク、私、上手くやれた?」


 ラナは昇降機の柵を開けて乗り込みながら訊いた。すると、ティルクは行き先の階層を指定する釦を押しながら、笑顔を返してくれる。


「ああ、何も問題なかった」


「やった」


「敢えて言うとすれば、少し遅いが、丁寧なのはいいことだ、最初はそれくらいでいい」


 昇降機はヴン、という音を継続的にさせながら歩くよりも少しゆっくりと降りていく。柵の向こうに見えるエイニャルンの赤土と、少しくすんだ雲の多い青空が、雄大で美しい。二人はラウァをつけたままだ。ティルクは額に上げて、ラナは首元まで落として首飾りみたいに引っ掛けて。


「お前の衣装を買って俺の衣装を買って、もうサヴォラでそのまま行くか」


「それ、砂埃とか大丈夫?」


「……冗談だ、歩こう……このあたりから領主の館までは近い」


 ティルクはそんなことを言うが、顔を見るに、半ば本気だったに違いない、とラナは思った。おかしくて声を上げて笑えば、おじの息遣いが笑っている。


 風が羽織や髪を浚っていく。願わくは、ずっとこうあって欲しい、と彼女は思う。


 やがて昇降機はエイニャルンの岩盤の中腹で停止する。柵を開けて、向かうのは橋の上。谷の中であるから吹く風も強めだが、それが爽やかで心地好い。帝都の方角は雨季だが、エイニャルンは湿気があまりないので、むっとした空気もないのだ。


 衣装屋は橋のすぐ向かいに存在していた。儀礼用のドレスや涼しそうな長いローブ、サヴォラ用の羽織と胴着一式が、表の通りからよく見える、グランス鋼の窓で区切られた一角に展示されている。


 夜明け前の東の空のような群青色のドレスの裾に施された柄が水流文様とスピトの棘を華麗に組み合わせてあるのに、ラナは見惚れた。


「……それにするか?」


「ううん、まだ、一杯見てみないとわからない、ここ、多分きっと、全部、素敵だから」


 即決するかのように訊かれたが、彼女はドレスから目を離せず、グランス鋼に噛り付くようにして返した。長くなりそうだな、とティルクが至極面倒くさそうに呟いたが、気にしない。何せ誘ってきたのはおじだ。


 そういうわけで、ラナは疎らに客がいる店の中で、色々なドレスを見た。


 帝国の儀礼用のドレスは、胴着の丈をそのままぐっと足元まで伸ばしたような意匠である。鎖骨の少し下に金装飾に縁取られて様々な研磨を施された魔石が輝き、そこから伸びた金の帯を首の後ろで結んで固定する。女性用も男性用も胸の脇、腋の下を通って腰の上で両端を留め、上に飾りをつけて固定しておけば、ある程度は大丈夫だ。特に女性用に関しては胸部の補正も整っていて、非常に綺麗な体の線を演出するようになっている。昔は補正などなく、生まれ持った胸の形をそのままにするのは厳しかった女性達が何とかして詰め物や補正を施そうとしたという。女性用は腰から下にかけて、内側から二重、三重に重ねた薄い布が付けられている。その裾は花弁のようだ。男性用は、ドレスの下はゆったりしたズボンか、腰から下だけのローブを着用する。


 群青色のドレスも南の海のような色のドレスも素敵で目移りしたが、最終的に草緑色のドレスと薄紅色のドレスで、ラナは迷った。どちらも新作だというではないか。


「ねえ、ティルクはどっちがいいと思う?」


 ティルクは真剣に考え込み、悩んだ末にこんな答えを出した。


「……お前の目によく合うのは緑の方だな、髪にロウゼルでもつけるか?」


「それ、ロウゼルが主役になっちゃう」


「……取り敢えずどっちも試着してみろ、どっちも買ってやってもいいけどな」


「それもいいけど……流石に、どっちかでいいかな」


 ティルクの言葉にラナは揺れたが、耐えた。


 店員はとても親切で、試着の申し出にも嫌な顔ひとつせず、厚い布で仕切られた一角が沢山ある店の奥へ案内してくれた。そこは絨毯が敷いてあるので、ブーツを脱いでから入らなければならない。試着したいという客が多いのだろう、何度も布仕切りを開けたり閉めたりしたのが、そのほつれ具合から窺える。ラナはサヴォラの発着所でラウァや手袋などの装備を外しておけばよかったと少し後悔した。着脱が面倒なのだ。


 装備は勿論、丈の短いズボンや靴下はそのまま、羽織や胴着も脱いでいく。仕切りの中にある大きな鏡に自分の姿を認めた時、彼女は自分の身体がしっかり筋肉を纏っていることに気付いた。腹筋はしっかり割れ、腕は筋張り、何よりも姿勢が以前より真っ直ぐ伸びている。ドレスにはいささか似合わないかもしれない、などと思ったが、それでも強くなれたような気がして、ラナは嬉しくなった。


 草緑のドレスの方を手に取る。首の後ろで帯を結び、胸の位置を整え、腰の上で二箇所ほど腰を留める。留めた先で余っている左側の余った布は、左腰のあたりに付けられている金属の装飾留めに纏め、その上から飾りと帯を巻いてしまえば、処理は終わりだ。鏡の中を覗いてみる、悪くない。


「ティルク」


 呼びながら布を開いた。絨毯の領域の外、腕を組んで壁にもたれて待っていたおじがこちらを見て、その蒼い瞳が煌めいた。


「着てみたけど、どう?」


 裸足で絨毯の上に進み出て彼女がくるりと回ってみせると、ティルクは微笑む。


「言った通りだ、目の色によく合う、ぴったりだな」


 その時、少し離れた所の仕切りの布が揺れて、中から人が出てきた。ラナは思わずそちらを振り返った。それは男だ、こちらを見て目を瞠り、こんなことを言う。


「ラナか、見違えたな、綺麗だ」


「……アルデンス?」


 青灰色の儀礼用ドレスと濃い灰色のズボンを試着したアルデンスが、跳ねた赤毛のまま、そこに立っていた。

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