16
それから暫く、ラナは少し夢見心地のまま過ごした。
ラナがエイニャルンに来てから三ヶ月が経とうとしていた。完全に夢に浸っていたわけではない。連日のようにサヴォラ免許取得の為の実技演習や騎士課程の訓練があり、全力を出して集中しなければいけない状況は続いた。ついでに、二度目の精霊王呼び出しを行ったのも拙かったらしい、あの後彼女は、神妙な顔で腕組みをしたメライダ教官とティルクに「何か事故が起こったかと思って全身から血の気が引いたからやめなさい」及び「軽々しく精霊王を召喚するものではない、お前由来の力でもないのに何かあったらどうする」という有り難いお言葉を頂戴することになった。楽しかったから良かったとかいう問題ではないのは理屈では理解出来ていたので、ラナもしっかり反省した。
でも、後悔していないわけではない。
夢の向こうへ行け、という言葉がまだ心の中で何度も反響している。何かを訴えかけているように思えて仕方なかった。
サヴォラ免許を取ったらどうしよう、何をしよう、と考えることが増えた。エイニャルンで運送の仕事に就くのが無難だろうか、出来ればシルディアナ国内に限らず、他国へ行くことが可能な組合がいい。イークに会いたい、というのも勿論あったが、彼女はフェーレスとの邂逅で、外への憧れをぼんやりと抱くようになった。自身がどれだけ狭い世界で過ごしてきたのかを見せつけられたような気分になったのも事実だ、学舎へ通うという選択肢を得ることは出来ていたが、あまり色々なことが見えていなかったのだろう。
ふわりと意識の表層に上がってくるのは、民族文化研究課程専攻を修了し、ラ=レファンス魔法学院へ編入した友人の存在である。白石のような透き通る肌に薄金の髪を長く伸ばし、ひょろりと背が高かったのが印象に残っているが、顔ははっきりと覚えていないし、声はもうずっと前に忘れてしまった。その人は元気だろうか。ラナが中等学舎を辞め、彼が魔法学院へ進学するというのを「竜の角」で本人から聞いて以降、ふっつりと縁が切れてしまったけれど、彼女が宰相の娘だということを聞いたら驚くだろうか。自己紹介の時にユエルヴィールという姓を名乗っていたからこちらも姓で呼んでいたその人は、どことなくイークに雰囲気が似ていたような気がするが、特定のものに対して向ける熱意はあちらの方が大きかったような気がする。工学や術の話をラナが振ってもてんで理解出来ておらずその方面は駄目だったが、新しいものに触れて、また彼も変わっているだろう。
そんなことを考えながら彼女は長く息をつく。教官を後部座席に同乗させてのサヴォラ演習がたった今終わったところだ。
ずっと彼女を担当してきた教官の指示は細かくて的確で、操縦桿を握るラナは彼の存在に助けられてきたと言っても過言ではない。一度、砂漠燕の翼を拡げたまま
今日の飛行は、後ろに教官が同乗してはいたものの、助言の一切ない実技試験であった。試験は一人ずつ、進路と課題は決められている。彼女は、訓練所の端――エイニャルンの岩盤の端、断崖絶壁から飛び立ち、スピトの群生地を竜翼で越え、エイニャルンの谷を砂漠燕で五回転して抜けた後、領主の館の窓の外にある出庭の上で同乗者である教官を下ろし、着陸せずに蜜鳥に切り替わった翼でその場に待機してその人を待つ、という一連の課題をなんとかこなすことが出来た。芝生の植えてある出庭から領主の館に入った教官が領主ネーレンディウス・アンデリーに成績を伝え、そこで電子画なしの免許証が発行され、着陸後に合格した者は受け取ることが出来る。後日、学舎で自分の顔の電子画を撮影すれば、無事に魔石工学課程が修了となる。騎士課程はまだ訓練が残っているが、サヴォラ免許に関してはこれでひとまず終わりだ。
「まずはお疲れ様だ、ラナ」
息をついて落ち着いたラナに、教官はラウァを差し出した。管理するのは操縦者であるから何も間違ってはいないが、何だかくすぐったい気分である。命を背負うという信頼のやりとりをそういう風に思えるくらいの余裕があったのか、と気付くと同時に、引き締めなければいけない、と心に留めた。
「有難うございます、メライダ教官」
そう返すと、教官は明るく微笑んだ。
「お前は、通常課程の者と比べても稀に見る熱心な生徒だったと思う、私も、とても教え甲斐があったし、久方振りに教える側として良い刺激を貰った、本当に感謝している」
右手を取られて、その平に押し付けられたのは厚くて硬質な金属の感触だ。
「合格おめでとう、ラナ・サナーレ」
温度の高い手がそっと離れていった。彼女の右手の中に残ったのは掌に乗る大きさの板で、大陸共通語でラナの名前、性別、年齢や誕生日、免許発行日が刻まれている。電子画を埋め込むところが長方形の薄い凹みとなっていた。
「境遇にも困難にも負けないその心に、私は敬意を表し、誇りに思う……受け取りなさい、免許証だ……乗る時は常に携帯しておくように、それと、まだ騎士課程の講義は暫く続くから、これからも励んで欲しい、お前なら、必ず成し遂げられる筈だ」
きらりと免許証が陽の光に煌き、彼女の目を僅かに焼いた。
翼を手に入れた。一度諦めた道だった。それでも、機会を逃さなくてよかった、と彼女は強く、強く思うのだ。喪ったものが多くても、その中で得られたものだってある。教官の言葉が心の中に落ちて、すっと全身に染み渡っていく……それが何よりの信頼の証だった。ぎゅっと免許証を握り締めると、自然と口角が上がる。
「……ありがとうございます、オスティウス・メライダ教官」
噛み締めるように、目を閉じてラナは言った。以前、彼女を魔力放出から守ってくれたしなやかで力強い手が、勇気づけるように両肩を優しく叩くのがわかる。顔を上げると、教官の薄い色の双眸が眩しそうに細められた。
「いつでも力になろう、ラナ、出会えてよかった」
「……はい」
他の指導員よりも距離の近かったこの人だからこそ、ラナは懸命に食らい付いていくことが出来たと言ってもいい。
「どこへでも、好きなところへ、飛んでいきなさい」
オスティウス・メライダ教官は一つ頷くと、これからまた別の生徒の試験だ、と言って、
胸に抱いていた免許証を眺めた。ただの証明にしかならない板だが、硬いフェークライト鋼のくすんだ青緑がきらりと光る。印字された表から裏に返して見れば、スピトレミア領の紋章であるスピトの花と円を描く水流文様が刻まれていた。
ラナは、ここに来てよかったと心の底から思った。
「お、終わったか」
膝の上に大きく影が落ちて、声が降ってくる。見上げれば、目の前にアルデンスが立っていた。笑顔だ。
「うん、取れたよ」
ラナも笑顔で返した。
「俺もだ、やっと終わった、お前のおかげで魔石工学も何とか」
アルデンスが免許証を持った右手をひらひらと振る。同じフェークライト鋼、同じ色だ。彼のことだから順調に騎士課程も終えるのだろう。立っていると背の高さがよくわかる、彼の背丈は長椅子の屋根の軒先を越していた。魔法学院に進学した帝都の友人を何とはなしに思い出しながら、ラナは言った。
「それはよかった、後は楽だろうね」
「お前だってきっと楽だろうな、あんなに装甲慣れの早い奴なんて見たことないぞ、俺」
「……そうかなあ」
精霊王を呼んだ時点で慣れも何もないような気がしたが、彼女は余計なことは言わずに、黙っておくことにした。見上げた先で、アルデンスは教官と同じように目を細めている。
「まあ、良かったな、欲しかったんだろう?」
「うん」
「長かったな」
「……そうだね」
心の片隅に何かが引っかかった。色々教えて欲しいとは言われたが、アルデンスとはそんなに込み入った話をしたことは結局ないし、教えたのは結局魔石工学についてのことばかりだ。何か訊きたそうな、言いたそうな顔で彼が時々こちらを見ていることはラナも気付いていたが、何か探りを入れられているようで、結局それ以上距離は詰めなかったのだ。
なのに、何故、長かった、と断定したのだろう。ただの推測にしては自信がありすぎやしないか。尚も続くアルデンスの言葉は、まるで以前の彼女を知っているようではないか?
「これからは運送組合探しか?」
「……そうだね、スピトレミアだけじゃなくて、色んな国へ行くことがあればいいなって」
思えば、最初からやけに親しげではなかったか。
「そうか、世界は広いぞ、思っていたよりも、な」
先程から経済の動きについて解説していた凛鳴放送が、次の報道に移った。聞こえてくるのは未だに帝都を騒がせている自称“大怪盗”の話だ。ラナは囀る機械鳥の方を見る。
「――キウィリウス邸に残されていた大怪盗の痕跡の一つである予告状から残存魔力の検出が行われた結果、大怪盗は属性保有なしである、との事実が明らかになりました――」
キウィリウス、の名にラナはどきりとした。次いで彼女は思い出す、ティルクが平面映像機をくれた時に見たキウィリウス邸の映像の中にあった翠の蔓と花の文様を。“大怪盗”の言う“至宝”とは一体何だったのか?
「――同時に、重ねて捜索を行ったところ、現場には毛髪のような物体も残されており、帝都の動力研究所によると本日解析結果が出たとのことですが、薄い金色のそれは人型種族の成分を保有しておらず、何らかの偽装工作を施したものではないか、との疑いもありましたが、始原の森に存在する生物由来の高級鬘から落ちたものであるとの見解が、この度発表されました――」
「……早かったな」
ラナの上から、呟きが突如降ってきた。
「早かった、って?」
「ああ、成分特定だよ……始原の森の生物由来の鬘を使えるなんて、帝国の上級貴族ぐらいだ……大分絞られたな、そろそろ正体も割れるか」
アルデンスは、そこでにやりと笑った。
「まあ、帝都を洗っても無駄な気がするけどな」
「……知っているの?」
そう訊くと、彼はラナの隣にすとんと腰掛けて腕と脚を組んだ。どちらも長くて少し腹が立つが、どうでもいい理不尽な怒りは無駄である。
「いや……普通に考えて、上級貴族みたいなのがそんな目立つことするか? シヴォン共和国だったらもっと裕福な奴がゴロゴロいるし、高級鬘は流行っているからな、用意も簡単だ、忠義心よりも金と効率がお国の方針だから、適当に腕の立つ奴だって高額で雇えるだろう……レファントなら国土が大体森だから、始原の森にいる生物の亜種なんかも飽きる程いるぞ、国が研究施設みたいなものだから日々が新製品開発だ、そこかもしれん」
「……よくわかるね、そんなこと」
「少しの間遊学していたおかげだ、色々あって工学や訓練が必要になって、そのせいで再受講とか不名誉だけどな……俺はどっちかというと文化学派だしな」
「へえ、意外」
アルデンスは様々なことを学んできたらしい。遊学、などというぐらいだから、家は相当裕福なのだろう。彼はラナに向かって優しく微笑んだ。
「だけどな、面白かったぞ、ラナ……少しというか一年で、俺はこんなに沢山刺激を受けたことがなかった、お前も色々見て回った方がいいぞ、いい機会だしな」
その笑顔がかつての友人と重なって見えた。ユエルヴィールは元気だろうか、ラナはもう一度思う。凛鳴放送から流れてくる報道は、もう、ぼんやりとしていた。
「……そうだね、それもいいかも、何だか昔の友達を思い出した」
「へえ、どんな奴だった?」
「中等学舎の友達……、民族文化研究課程を専攻していて、すごく背が高くて細くて、長い髪が綺麗だったな、男だけど……伝説とか神話とか一杯教えてくれて、飽きなかった……元気かな、久しぶりに会いたいかも、今はレファントにいて、ユエルヴィールっていう名前、いや、姓でね――」
言いながらちらりと見たアルデンスが真顔になっていることに気付いて、ラナは思わず身体を引いた。
「……どうしたの?」
「いや」
口元に微かな笑みを浮かべて小さく首を振る彼は、明らかに何かを知っている顔だ。スピトレミアの人々は良くも悪くも素直である。
「まさか、ユエルヴィールと知り合い?」
「そうじゃないけどな、俺の前で他の男の話か、と思った」
何かを誤魔化すようにわざとらしく笑って、アルデンスは立ち上がった。ふと気付けば、陽光が紅に染まり始めている。機械鳥がちょうど、七の刻を囀った。
「俺はそろそろ行く、まだここにいるか?」
「うん」
ラナが頷くと、アルデンスはじゃあな、と言って、学舎の方へ去っていった。
彼女は今しがた言われたことを心の中で反芻した。俺の前で他の男の話。普通に考えて、色々なものが絡んだ嫉妬のように思えた。
「まさか、ね」
だが、ラナは気付かないふりが出来ない。彼の目には嫉妬も怒りも不満も全く宿っていなかったし、浮かべられた笑みは至極優しかった。スピトレミアの人々は素直なのだ。まだ彼女の知らない何かが沢山あるような気がして、不安を払うように空を見上げれば、視界の端に誰かが走っていくのが見える。
振り向いた先の背中は小柄で、髪の色はスピシアだった。
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