15


 騎士課程の訓練は今日から装備付きで行われるようになった。


 具体的に何が増えたかというと、大きなものを挙げるのであれば、脚部装甲である。帝都脱出の際にティルクが装着していたようなものだ、基盤はフェークライト鋼で組まれており、腿にある魔石を供給する箇所は、シヴォライト鋼の塗装が施された蓋で塞がれている。ラナはあの時ティルクの脚部装甲をシヴォライト鋼製だと思ったが、今回の訓練が始まる際に間近で見たところ、単なる塗装であることが判明した。クレル板と呼ばれていることは帝都の中等学舎に通っていた時に、既に習っている。エイニャルンでも復習した、再履修だが。魔石工学専攻の者でなければ馴染みのない単語である為、この言葉を知らない者だって多数存在するだろう。


 脚部装甲は跳躍補助や走行補助となり、また、帝国兵との肉弾戦も想定してレファンティアングで出力を設定してある。想定の内には竜人族も入っている、飛行しながら魔石動力槍で突いてきたり投げてきたり、強力な鉤爪を有する脚やしなやかで強靭な腕の筋肉が突きや引っ掻きとなって猛烈な速度で襲ってくるのが、シルディアナという国に忠誠を誓う種族の特徴であり、強みだ。それを躱し、効果的に反撃する隙を作り出す為、速度切り替えが付いている。竜人族を想定して膝裏に付けられている速度切り替えを作動させると、通常の倍の速度で投入した風魔石が消費されるのだ。そのぶん、ブーツの底に取り付けられている風魔力噴出口からの出力も上がるので、空中で身体を捻った動きをすることが多くなり、平衡感覚や全身の筋肉を鍛えなければいけないのは勿論、体幹を鍛える訓練もこれから必要になるだろう。


 時刻は昼六の刻である。午前中はサヴォラ免許取得の為に、魔石動力を起動しない状態で円形の操縦桿や操縦席回りにある幹の位置や動かし方などを覚えた。後部座席付きの操縦席は手狭ではあったが、大柄な竜人族が二人乗りをしてもきつい、ということはなさそうだ。脱出装置の展開に改良が必要であることが判明した風の翼フェーレ・エイルーダではあるが、スピトレミア領主ネーレンディウス・アンデリー御自ら補助の下、改良中とのことである。


 ラナは脚部装甲を装着した自分の脚を見下ろした。厚手の羽織や手袋などという、サヴォラに乗った時と同じ服装でそれを付けているからか、暑さは増した。今日も腕輪は手袋の下である。いつも薄い靴下やブーツだけしか纏っていなかったから、当然のように足が重い。ざわざわと心の何処かが落ち着かなくて、しかし彼女は今、一つの希望を見出していた。


 本当の名前と本当の出自が、彼女をぐらつかせた。ずっと、ただの“ラナ”として生きてきたのに、それは本当の名前ではなかった。“サナーレ”や“キウィリウス”というものもついてきた。戸惑わない者などいるだろうか? だが、彼女は一つだけ、喜べる事実があることに気付いた。


 彼女は脚部装甲の腿部分にある魔石供給口へ支給された風魔石を嵌めながら思う。自身は、貴族の娘であったということだ。イークに堂々と会いに行ける、自身の立場を後ろめたく思う必要などないだろう。


 だがしかし、立場に甘んじて自身の目的を見失うのは本末転倒である。しかも、貴族であるのは血筋だけで、育ちは普通の市民だ。せめて以前から取得したいと思っていたサヴォラ免許くらいは取らなければならないし、中等学舎も卒業せねばならない。帝都と違って騎士課程があるのは難関であるが、強くなれるのだと考えれば、寧ろ願ったり叶ったりである。エイニャルンに来てから一月以上経っているが、その間に肉体を鍛えたおかげで、ラナの心も少しずつ強靭かつ前向きになってきていたらしい。地上だけでなく、水の中で身体を捻ったり何度も回ったりする訓練も、何度も行われた。因みに、彼女の腹筋は薄く割れるまでになっている。


 今日の訓練にはティルクも臨時の教官として招かれている。スピトレミア領主ネーレンディウス・アンデリーの護衛にしてサヴォラの乗り手でもあるおじは、非常に優秀な戦士でもあった。走行、跳躍を含めた脚部装甲の扱いと運動に関しては勿論、魔石動力弓の扱いにも長けている。身内だと甘くなるだろう、ということでラナが呼ばれた班の担当ではなかったが、時折視線が合うので、かなり彼女を気にしているようだ。心配でたまらないらしい。


 ラナのいる班の担当となったのは相変わらずオスティウス・メライダ教官だった。そこはもう察している、先日のスピトレミア領主とのやりとりで領主直々に指導の令が下っていた。アルデンスとは離れたが、スピシアは今日も一緒だ。あと二人は名前も知らない男子生徒だ。前回一緒だった者の名も、ラナは忘れていた。


「全員、装着と風魔石の充填は終わったか」


 教官の溌剌とした声が飛んできた。ラナはすぐさま立ち上がる。他の生徒も同じように立ち上がった。


「はい」


「よし、じゃあ早速、膝の外側にある起動釦を押してみろ……くれぐれも立ち止まるなよ」


 はて、立ち止まるなとはどういう意味だろうか、ラナはそう思いながら僅かに屈んで両膝の外側にある起動釦に手を触れ、押した――本当は屈んでいる時点で既に別の何かに負けていたのだ――その次の瞬間、視界がぐるりとひっくり返り、彼女は顔から地面に突っ込んだ。


「大丈夫か、ラナ」


 いささか焦った表情の教官に動力を切られながら抱き起こされ、ラナは途方にくれた。思い切りぶつけた額と鼻に触れれば、赤土がぽろぽろと落ちてくる。大きな怪我はないようだが、何が起こったのかわからなくて、衝撃と混乱で彼女は頭を抱えた。


「……今、何が起こったのでしょう、教官」


「……動力を入れた瞬間、噴出口から風が勢い良く吹き出した……屈んでいたから、前に転倒した、というわけだ」


 周囲から失笑が聞こえてくる。見れば、他の生徒達はその場で跳躍したり、少し離れた所を円形に回ったりしながら、ラナと教官を見ていた。懸命に励む者を笑うとは、と呟きながら、教官が周囲を睨みつけている。


 悔しい話である。自分と違って皆再履修の癖に、と彼女の心の中で炎の大精霊ヴァグールの姿をした誰かが囁き、闘争心に飛び火して、燃え上がった。


「大丈夫です、やります」


「ならば支えが必要だろう、手を貸しなさい」


 差し出される手はしなやかに強靭な筋肉を纏い、がっしりしている。憧憬と僅かな拒絶を心の内にそっと仕舞い込んで、ラナは微笑んで首を振った。


「どうしても一人で出来なかった時は、お願いします……私よりも」


 彼女は顔を上げた。視線の先で、一人の生徒が顔から地面に突っ込んでいる――綺麗に受け身を取ったが、手が土塗れだ。もう一度立ち上がって起動釦を押し、また派手に転倒した。結い上げられていた暗い金色の髪は乱れ、首元に垂れて汗で貼り付いている。スピシアだ、唇を噛み締めたその横顔は悔しそうに歪んでいた。身体を使った訓練が苦手と本人が言うだけあった。


「彼女の方が先かなって、まずは自分で色々やってみます」


 それから、教官がスピシアに声を掛けるまで見守った。振り返った小柄な彼女の顔が喜色で満ちたから、ラナも少し元気を貰って。もう一度挑戦してみることにした。


 先程は屈み方が悪かったのだろう。彼女は周囲の生徒を観察してみる。前傾姿勢を取るのではなく、真っ直ぐに腰を落とし、前後に足を開いた。利き足である左脚を前に、右足を後ろに。そうして魔石動力を起動した生徒が、ふわりと跳躍しておっかなびっくりといった表情を隠しもせずに、脚に風精霊を纏わせながら目の前を危なっかしい足取りで走っていく。


 ラナの利き足も左だ。彼女は同じ姿勢を取り、前に飛んでしまったらすぐに手を出せ、と言い聞かせながら、思い切って脚部装甲の動力を起動した。


 両足が地面を離れた。自身の背が突如伸びたような錯覚と、臓腑が浮く奇妙な感覚。


 高く跳んだ身体が自身のいた場所から進んでいる。ラナは驚いた。地面が迫ってくる、急いで右足を出すと、その裏はエイニャルンの赤土に覆われた岩盤を掠ることなく、己の身体は再び跳躍する。


 風の精霊が笑っている。跳ねる玉のようだ。


 下ばかり見ていると落ちてしまうような気がして、彼女は前を見ることにした。跳ねる生徒が沢山いて、衝突をしないように上手く避けあっている。流石は騎士課程の生徒達だ、などという考えに至る余裕が出てきた。一定間隔で蹴る足を交互に出していたラナだが、試しに身体を少しだけ捻って左脚で左側に地面を蹴るような真似をすると、真っ直ぐしか進んでいなかった身体が右に向かって跳んだ。少し面白くなって右脚で右側に地面を蹴ると、進みながらも左に向かう。


 楽しい。


 着地に失敗して一度手をついてしまったが、ラナの頬は自然と緩む。別の指導員に助け起こされた後、もう一度起動させて彼女は風精霊と共に跳び始めた。


 思っていたよりもずっと楽しい。


 蹴る力を弱めれば、跳躍は控えめになる。ティルクがこちらを見ているのに気付いて声を掛けて手を振れば、おじも微笑んで手を挙げてくれた。何だか嬉しくなって、彼女は足を出す速度を上げることにした、すると自分の身体が走り出し、みるみる加速していく。


 生徒の群れが風になって溶けて去っていった。


 これで出力を上げたらどうなるだろう? 好奇心には勝てない。他の生徒を巻き込まないように少し離れた所まで来てから、彼女は少しずつ重心を低くしていく。


 どういう風に足を動かせばいいのか、何とはなしに身体が理解していた。口から自然と笑い声が零れていく。円を描いて跳びながら少しずつ速度を緩め、彼女は感じた、ここだ。


 ラナは両足を揃え、跳躍の直前に出力を切り替えた。竜人族と戦うのではない。


 風と遊ぶのだ。


 臓腑が反転した。赤土の岩盤がいつもよりも下に見える。ラナは風精霊と一緒になって歓声を上げた。高く、高く跳んだ空の中、そうして、彼女は自然とその名を呼ぶ。


「フェーレス」


 翠光とともに現れた精霊王は相も変わらず親しげな笑みを湛え、ラナに向かって手を差し伸べる。しなやかな光の上に手を重ねれば、優しい風が身体を包んだ。身体を捻って足を大地へ向ければ、無数の精霊達がまるで二対の翼のように両足の装甲と遊び、彼女はそれに見惚れた。


 後ろへ向かって跳んだ。精霊王フェーレスが見守るように眺めているのを視界の端に捉えながら、ラナは魔石動力を止める。そのまま膝を抱えて数回転、寄ってきた無数の小さな風の腕をすり抜けて、赤土に足が激突する直前、動力の釦を押す。一陣の風が彼女を守る。もう一度後ろへ向かって跳び、今度はそのまま一回転。


 楽しくて仕方がない。風になって笑い声を上げた。フェーレス、と名を呼べば、彼の王は両手を取り、重力と踊っておいで、と微笑みながらそっとそこに口付けて、彼女を優しく投げる。その先には無数の風精霊達が待ち構えていて、翠光に身体を包まれ、力強くしなやかな精霊王の腕にふわりと抱き締められた。ひときわ美しく豪奢な翠色の髪が風に遊び、光を放つ。音も立てずにはためく衣は、誰の視界を塞ぐこともない。


 魔力放出もない。金属が裂ける音も聞こえない。サヴォラに乗っている時のような高揚こそなかったが、翠光はラナの心を満たした。


 そこは哀しみのない世界だった。


 風は謳う。行くあてがないのではない、古から今に至るまで、生きとし生けるもの全てを見てきた風だ。精霊になる前の無数の記憶を、精霊として顕現してからの無数の記憶を、風は己が抱くその見えぬ揺籠に内包していた。人の青年の姿を取るのは人の前であるからかもしれないが、その人間という種類の生き物の最も輝かしい瞬間を、切り取った永遠の中に閉じ込めて、ずっと世界を旅していくのだろう。彼女には見えないが、感じることは出来た。


 フェーレスの手は彼女と共に在る。体温はないが、そこに世界の息吹が宿っている。


 風を抱いて、風に抱かれて、彼女は共鳴した。


 彼女こそ風の翼フェーレ・エイルーダ




 やがて脚部装甲に嵌めた風魔石が尽きる時がくる。また今度、と言いたげな精霊王フェーレスの微笑みは、別れの挨拶だ。


 ラナは魔石動力を切った。フェーレスが彼女の左手を取り、まるで階段を降りるが如く優雅に、音もなく、二つの人型は地面へ垂直に降り立った。


 彼女は訓練を行っていたことを思い出した。声がして、振り返ると、駆けてくるのはメライダ教官とティルクだ。生徒達が夢でも見ているような顔をこちらへ向けている。


「フェーレス」


 ラナは風の精霊王に向き直った。すると、フェーレスはにっこり微笑んで、風の渦巻く両手で彼女の両頬を包む。そよ風の口付けを額に残して、旅に戻っていった。


「ありがとう」


 ラナは呟く。小さな精霊達が、風の別れの言葉を囁いていた。


 ――夢の向こうへ、行け。

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