14
以前サフィルスやシーカとステラ宮へ忍んだ時のように取り調べ人の格好などする必要は、もうない。イークは今着ている皇帝の礼装のままで赴くことにした。空と水を足したような色の胴着には竜翼の骨格を逆さにした意匠とロウゼルとが金糸で縁取られ、首飾りとの繋ぎに金塗装を施した金属の竜頭があしらわれており、その双眸は光魔石だ。金輪の耳飾りは右と左それぞれに、細長い光魔石が三つ揺れている。腰には天馬の翼を模した金と光魔石の鎖で装飾が施されたロウゼル色の固い布帯、腰から踝までを覆う布はシルディアナ帝都のような薄い青。これまたロウゼル色をした袖も裾もイークの四肢の先しか出ないくらいに長い水色の羽織は薄く軽く、羽根のように優雅に舞った。
そして彼はその額に冠を抱く。頭の形には少し合わない平らな金属の輪には八方向にサヴォラの離発着する尖塔を思わせる棘がついており、その根元で光魔石が金の装飾に抱かれて輝いている。額側の光魔石は最も大きく、周囲を覆う金装飾には天馬を思わせる翼の意匠が組み込まれていた。竜を制し天馬を象徴とした遥か古代、数千年前から、シルダを名乗る者の家に伝わる伝統的なものだ。
この名こそが、シルディアナの元となっている。そして、イークライトは竜殺しの血を受け継いでいる。
時刻は昼の五刻に差し掛かろうとしていた。そろそろ腹の空き始める頃合いだ、などと考えながら、彼は竜騎士団長ガイウス・ギレーク将軍と近衛騎士団長レントゥス・アダマンティウス将軍を伴って、宮殿の西から東のはずれにあるステラ宮までの道のりを行く。先導するのは近衛騎士ハルフェイス・マルキアだ。
宮殿の東と西とを繋ぐような形で空中に建設された庭園を通る。空中庭園の中央には、巨大な円形の噴水が設置されていて、定刻になると術式で水が踊り出す仕組みになっている。水の中には翼を拡げた竜とそれに寄り添うシルディアナの建国者である賢王エーランザ・シルダの像が設置されている。竜の像は、イリス最後の悲劇の王ジアロディス・クロウを斃し、シルディアナ建国に携わったラライーナの英雄アミリア・シルダ=レフィエールの別の姿だという話だ。この二人は仲の良い血縁の姉妹であったことが今に伝わっている。
噴水の周囲にはロウゼルが植わっていて、エーランザとアミリアに向かって差し伸べられた枝を彩る深緑の葉の上には、雨粒が煌めいていた。雨季の水精霊が先程さあっと通っていったらしい、ふと空を見上げれば薄く曇っている。白亜の石材が雨上がりの優しい光に反射して眩しい。道を形成している薄い石畳を踏みしめるとその薄さがわかるだろう、音をよく聴けばよい。道ではないところには土が敷かれ、何処からか飛んできて植わった植物の種が芽吹き、双葉や尖り葉が太陽に向かって爽やかに挨拶をしていた。
ステラ宮はちょうど昼食の配膳が始まって慌ただしさに包まれていた。壁に彫られた白石の竜達は、アルビジアの葉やエルシエル・ハーブ、竜爪花が摘まれるのをじっと動かずに見ている。食事と同時に出される薬を調合する光術士が何人もせわしなく行き来していた。
近衛騎士団長と竜騎士団長の姿に気付いた一人の若者が、右手を自身の左肩に掛けて、その場に跪き、こうべを垂れた。
「ようこそおいで下さいました」
周囲の光術士達もそれに気付き、次々と膝を折って挨拶をする。レントゥスとガイウスが揃ってイークの方を見てきた。
「構わぬ、此方よりも、己が責を果たせ」
近衛騎士団長と竜騎士団長が一言も発さないことに気付いた若い術士が顔を上げ、次いで、その表情が驚愕に彩られる。まだ中等学舎を出て成人したばかりだろうと思われる、どこか仕事慣れしていない、懸命で幼い顔立ちだ。
「――もしや、陛下、シルディアナ帝国第五代皇帝、イークライト・シルダ陛下」
その囁きは思いの外ずっしりと重かった。イークは全てを跳ね返すべく、微笑んだ。
「上階へ参る、見舞いだ」
道のりは知っている。あらかじめハルフェイスに伝えておいたので抜かりはない。
螺旋階段を上っていく。以前も同じようなところですれ違った治癒術士が、何かに気付いたように目を輝かせ、次いで何処か嬉しそうな微笑みを浮かべて会釈を寄越してきた。イークも微笑み返すと、眉尻を下げてその場に跪く。あの時はきっと気付かれていたな、と皇帝は思うのだ。
取り調べ人の一団と行き合った。即座にレントゥスとガイウスが進み出て事情を話すと、一団の中からシーカの名が上がる。程なくして名を呼ばれた本人が気崩していない制服を着用して現れ、イークの前で他の取り調べ人と共に膝を折った。
レントゥスとガイウスが携帯していた植物紙二枚に勅令を連名で書きつけ、イークに確認を取ってきた。彼はその内容に対して頷き、皇帝の印として、植物紙二枚を自らの力で光魔石化させた。恐らく取り調べ人の頭まですぐに話が行くだろう。そして、あまり時間を置かずに、軍部から正式に捜索依頼が出される筈だ。二枚書かれた勅令それぞれをグランス鋼の薄くて丈夫な板で覆い、そのうち一枚はシーカに持たせ、もう一枚は近衛騎士団長の腕の中に納まった。
光精霊がこれでもかと生まれては集るので、更に目立つことこの上ない。行き交う治癒術士や光術士は必ず跪いて挨拶をくれる。その度に、イークは身も心も締め付けられるような気がした。
そうして気付く、彼は忍ぶ方が好きだったのだ。
時に、殆どの帝国民に名だけしか知られてはいないが、この身に付き纏う立場が邪魔だと感じる時がある。故にイークライトは“イーク”や“ライト”になって、帝都を自由に散策した。普段よりもサフィルスとの距離が近いのも嬉しかった。自身だって雑踏の中であっという間に紛れてしまうただの独りの人でしかない、と感じる、その時こそが至福だった。
彼はずっと“イーク”でいたかった。
だが、心の中で寂しくて泣いていた少年は、もう大人だ。
あの日と同じようにその一角に辿り着いた青年は、やってみなければわからぬ、などと大声を出すことなど、もうない。供も違う。彼は皇帝の姿をしている。光り輝く支配者の形をしている。背後に長く伸びていた影はそっと集めて、自らの内へ、喰らった。
「ギレーク」
「はっ」
イークライトがガイウスの名を呼べば、かの竜騎士団長は保護されているシルディアナ市民の方へと歩を進めた。帝国軍兵士によって被害を受けた彼らではあるが、この竜人への嫌悪などは見られず、寧ろ好意的である。
「ギレークどのが来てくれたからこそ自分は生きているのです」
このように言う者さえいた。竜人族はシルディアナの守護者ではあるが、同時に民の守護者でもあるのだ。ガイウスはその巨躯が威圧とならぬよう、床に膝をついて会話をしている。こういうところも、彼ら竜騎士が市民に慕われる所以だろう。
「時に、ヴォレノどの、痛みの加減は如何か?」
「ああ、もう随分よくなりましたよ、夜中に起きることもなくなったし、そろそろ左手だけでも出来る仕事をしながら酒が飲みたいですなあ」
「そうか、何よりだ……すまなかったな、軍の落ち度だ」
ガイウス・ギレークのみならず竜人族の長所でもあり短所でもあるのが、いっそ清々しいくらいのこの正直さである。愚直なまでのそれは侮られることもあるが、同時に人の心をつかんで離さない魅力でもあるのだ。ヴォレノと呼ばれた壮年の男は破顔した。
「いや、ギレークどのは悪くない! 竜騎士団と普通の騎士団とは別でしょう、あの時も今も竜騎士団の方々に助けて貰っています……反乱軍扱いされた自分達の為に、違うという証拠も持ってきて下すった……こういう軍人さんといつか酒を呑み交わしたいものですな、竜人族の皆さんはシルディアナの誇りだ、え、違いますかな?」
イークライトの予想していた以上に、それは陽気な声だった。
そして、周囲を見れば、保護されている人々は皆、多少の含みはあれど、微笑みを浮かべていた。
その微笑みはイークライトの心を焼いた。強い。鋼よりも強い意志がそこには存在している、それは前に進もうと、生きようとしている。或いは、己などいなくとも、人々は前へと進んでいく。進まずとも生きようとするだろう、最後の一人となっても、おそらく。
ガイウスもつられて優しい笑みを見せている。普段は畏怖さえ覚える様相をしている竜人族だが、目が細められて口角が上がると、どこまでも慈愛に溢れた美しい芸術品へと変貌を遂げるのだ。その微笑みには相手への想いが一途に込められていた。
「ヴォレノどのの新しい仕事が決まったら、私も休みをいただきましょう」
「是非とも「竜の角」を再興させて欲しいですな! ところでギレークどの」
と、ただその光景を惚けて見ていたイークライトの視線と、右腕を失くしたヴォレノの視線がかち合った。
「そこの綺麗なお方はどなたですかな、普通のお貴族様とは違うようで――」
イークライトは控えめに微笑んで見せた。止めようとする近衛騎士団長の腕をするりと躱し、彼は数歩進み出た。
「お初にお目に掛かる、イークライト・シルダと申す、宜しく頼む」
ヴォレノの目が真ん丸に見開かれた。
「イークライト・シルダ……皇帝陛下?」
囁いた声は掠れ、相手の笑顔が凍り付く。あまりの驚きに手を止めた治癒術士が膝を折って挨拶を寄越してきたのを切欠に、その場にいた騎士以外の者が次々とこうべを垂れた。
「よい、そのようにかしこまった挨拶をさせたかったわけではないのだ……これは慰問である、そなた達には苦労を掛けてしまった、この通りだ」
イークライトは迷わなかった。右手を左肩に、左手を右肩に置き、自身を抱くようにして膝を折り、跪く。秘されている筈の皇帝は、顔を上げた市民の目の前でこうべを垂れ、謝罪と哀悼の意を捧げた。
「へ、陛下が頭を下げなさる必要はありません、顔をお上げ下され、どうか」
「否、必要はあった、私の想いだ……何の糧にもなりはしないのが心苦しいが」
皇帝が顔を上げると、目の前には左腕を差し伸べるヴォレノの姿がある。市民が彼に触れるのを止めようと動きかけたレントゥスを目で制し、イークライトはその手を取った。
「……何かを喪っても笑うことの出来る、その強さを、私に貸してはくれまいか」
二人の周囲に市民が集まってくる。それぞれが柔らかな笑みを湛え、彼らを見上げたイークライトに向かって、優しく頷いた。
「陛下、陛下の御為ならば、幾らでも」
イークライトの姿を誰かと重ねたのかもしれない。働き始めた息子と同じくらいだ、と誰かが呟いたのが聞こえた。彼は雨季の終わりである一年の十二番目の月に十七歳を迎える、もしも貴族の子息であったならば、中央行政区にある高等学舎へ通っていただろう。陛下はお若くていらっしゃる、と言った者もいた。これが貴族であったならば何かを含んでいることは間違いなかったが、目線を合わせた相手がまるで己の子を見るような表情をしていたので、皇帝は何も言わずに黙って微笑んだ。
「そなたらにとっては辛い頼みとなるやもしれぬが、私にも深く関わってくることだ」
イークライトがそう言えば、市民達は真剣な目で見つめてくる。
「宰相キウィリウスのことは存じておるか?」
そう問えば、その場にいる者全てが、ええ、勿論、と頷く。
「その娘が私の花嫁候補となっていたのだが、反乱軍の一斉摘発の際に姿を消した……「竜の角」にいたことは突き止めたのだが」
言いながら、イークライトは思い出していた。短く雑に切られた美しい金髪、濁った蒼の双眸、身に纏うのは黒の長いローブ――サイアの姿がない。いや、以前ステラ宮に赴いた時は彼女が突然ふらりと現れたのだ、今日現れるかどうかはわからない――
「その者の名前は――」
「妙に下が騒がしかったけど、何?」
聞き覚えのある声に、イークライトは思わず振り返り、立ち上がった。
濁った瞳に少し光が戻っている。乱雑に切られた金髪は整えられて、綺麗な卵型の顔に寄り添うように短い。黒のローブは相変わらずであったが、立ち姿に生気が戻ってきている。
サイアだ。
「――そなた」
「あんた、あの時のお貴族様」
二人は同時に声を上げた。
「皇帝陛下の御前であるぞ、控えよ――」
ガイウスの言葉も中空で消えた。レントゥス・アダマンティウス近衛騎士団長は動かない、おそらくこの場は安全だと判断しているのだろう。サイアの表情が揺れている。そのまま彼女は竜騎士団長のところまでふらふらと歩いて行き、その面前で止まる。
「……あなた、あの時、私を助けてくれた竜騎士の」
「竜騎士隊長、ガイウス・ギレークである……息災であったか」
「……殴ったりしてごめんなさい、ガイウス様」
「構わぬ、仕方のないことであった、君も回復しているようで何よりだ」
ガイウスの愛情深い微笑みにサイアが見惚れているのをイークライトは見ていた。或いはこの「竜の角」の給仕であった者であるならば、と彼は考える。
「サイア、と申したな、そなた」
話し掛ければ、彼女は我に返ったような表情を見せて振り返る。
「ねえ、皇帝って、もしかして」
「私だ」
ひゅっ、と音を立てて息を呑んだサイアが、慌てて跪こうとしてよろけ、ガイウスに支えられる。イークライトはそれを手で制した。
「よい、楽にせよ」
「でも、私、それだったら陛下に向かってとんでもないことを――」
悲鳴を上げるサイアに向かって皇帝は首を振り、それを遮る。
「もう構わぬ、そのような細かいことに拘りはせぬし、あれは真実であった」
「……寛大なお心に感謝致します、皇帝陛下」
跪くというより崩れ落ちた彼女を支えんと、竜騎士団長も再び膝をつく。レントゥスが勅令の光魔石を捧げるように持ち直しながら進み出てきた。
「皇帝陛下の勅令である、協力せよ……婚約者候補である宰相キウィリウスの娘が、アルジョスタ・プレナの一斉摘発の夜まで「竜の角」にいたという情報が入ってきている」
サイアの眉が顰められた。
「……宰相様の娘?」
「そうだ」
イークライトは頷く。
「名は、ラレーナ・キウィリウスという」
「……聞いたことがありません、そんな名前」
「だが、よく知っている筈だ」
その場にいる市民全てが怪訝な表情を見せている。彼女の顔を知っており、尚且つ真実に行き当たったのはイークライト一人のみであった。
「そうだ、私が会った時は、ラナ、と呼ばれていたな……私が北商人居住区へ忍んでラナと出会い、「竜の角」に赴いたせいでアルジョスタ・プレナの巣窟となっていたそこは摘発され、そなたらは犠牲となったのだ」
嘘でしょう、と囁くサイアを支えるガイウスの目が、様々なことを問いたげに見つめてくる。ヴォレノの表情が凍り付いている。この瞬間もレントゥスは何を考えているのか隠すのが上手かった。市民達は茫然とその場に立ち尽くしている。
「全てに気付いた時、出会わなければよかったと何度思ったことか」
イークライトは微笑んだ。ステラ宮の大きなグランス鋼の窓から見上げる帝都の空は青灰色に濁っている。もう一雨来そうだ、水精霊達がふわふわと遊んでいた。真実に触れた時、引き起こした事の大きさに恐れおののき、消えてしまいたいと思った。彼がいなくても人は生きていくだろう、それは今日、確信した。
だがしかし、イークライト・シルダは皇帝である。国に対して責任を取らねばならない。
「……ラナは、寝るまでは一緒だった、でも、黒い装束の男が飛び込んできてからは、わからないのです、陛下……大きくて、目が、青かった」
と、イークライトが何かを言う前にサイアが話し始めた。その声は震えていたが、しかしそれはしっかりと彼の耳まで届いた。
「私が奥に逃げ込む前に、何処かへ消えたけれど」
「他に、特徴は覚えているか?」
イークライトは畳みかけた。ガイウスのがっしりした腕に支えられて、彼女は視線を宙に彷徨わせ、何かを必死に思い出している。
「あの日の前から「竜の角」に来ていたのです、一月ぐらい」
「他には?」
皇帝は思わず膝をついて寄った。サイアの双眸から濁りが消える。
「……編んで、結っていました、髪を、イオクス材みたいな色をしていて……ラナと同じ色」
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