13


 自身の迂闊さを呪ってどれだけ嘆いたとしても次の日というものは必ず来る。


 自身の未熟さに気付いてどれだけ後悔したとしても進めなければいけない物事から逃げることは不可能である。


 イークライト・シルダは立ち上がったまま、逡巡していた。


 目の前には近衛騎士団隊長であるレントゥス・アダマンティウス将軍と、竜騎士団隊長であるガイウス・ギレーク将軍が各々の右手を各々の左肩に掛け、立っていた。貴族の挨拶の状態を保持するということは指示を待つという姿勢を示してはいるが、弱冠十七歳の皇帝には、そのような指示など直ぐに出てこない。いや、出る時は出るのだろうが、正直な話、今の彼にとってはそこまで考えるのが難しいだけだ。


 ついでに、近衛騎士の板鎧や肩当て、ブーツ、手甲を身に纏うがっしりした体格の人間である近衛騎士団隊長と、その人間よりも頭一つ分大きく、手甲や肩当て、ブーツはないが、近衛騎士と同じ板鎧を纏い、更に漆黒の巨大な翼を体に巻き付けるようにして佇む竜人族の圧迫感たるや。両者とも、その装備はフェークライト鋼にシヴォライト鋼塗装を施したクレル板と呼ばれる合金を使用したものである。建材に使用されるフェークライト鋼は非常に丈夫で固く、その上からシヴォライト鋼を塗装してクレル板にすることによって術からも急所や腕を守ることが可能だ。だが、クレル板と正式名称で呼ぶ人は少なく、専ら塗装合金などと言われていたりする。そして、実務中の近衛騎士団には、ロウゼルによく似た威厳ある緋色に、竜とロウゼルの文様が金糸で施されたマントの着用が義務付けられている。対して、竜騎士団は威圧感を相手に与える為の漆黒だ。意匠は近衛騎士団のマントと変わらない。この金糸は光魔石化しており、ステラ宮の強力な光術士と協力して、遥か古来より光の力を受け継ぐ代々のシルダ家の者が力を注いだものだ。イークも術の力を通す作業をやったことがある、誰の目にもつかぬ場所で、ひっそりとだが。


 しかし、幾ら自身の力の宿るものを纏っていたところで――


「……座ってはくれぬか、アダマス、ギレーク」


 ――イークは、目の前にそびえ立つ二人が自分の何倍も大きいような気がして、恐ろしさを感じるのだ。皇帝たるもの、シルディアナ帝国を統べる存在が味方を恐れてどうする、という話ではあるのだが、秘された存在がこういう状況に慣れているわけなど、ないに決まっている。


 故に、着席を勧める、などという前代未聞の事態を招くわけで。レントゥスとガイウスの目が、揃って驚愕に大きく見開かれた。


「……しかし、陛下」


 暫しの沈黙の後、先に口を開いたのは、近衛騎士団長の方だ。壮年のレントゥスだが、筋肉と皺で引き締まった顎が閉じられていないところを見ると、相当驚いているようだ。入ってきた時は全てを射んとするような意志を湛えていた深い青の瞳も、狼のように逆立つ髪と同じ色をした力強い弓弦のような蜂蜜色の眉も、全て緩んでしまっている。おおよそ貴族らしくない、その立場にある筈なのに。


「構わぬ、我が意志は……今には、ない」


 相手も物事の通じる人であったことに安心感を覚え、イークは首を振った。


 今日の近衛の任はサフィルスではなく、ハルフェイスという三十を超えた困り眉の騎士だ。褐色の髪を短く刈り、近衛騎士団長と同じように緋色のマントと装備を身に付け、クレル板の長剣を帯びている。この近衛騎士は、イークが椅子を用意しろと言った時、困り眉を更に困ったように下げて、無言で正気かと問うてきた。そりゃあそうだ、全ての者がサフィルスのように、何か考えがおありですねなどと言いながら唯々諾々と頼みを実行してくれるわけではないことは理屈ではわかっている。だが、ランケイアの三男と他の近衛騎士とをどうしても比べてしまうのは、本当は自身が寂しがり屋だからだろうか、などという考えに行き当たって、イークは誰も知らぬ自らの心の中だけで、そっと驚いた。


 シルディアナ貴族は、その場にいる最も身分が高い者との会食の時以外、それよりも下の身分の者は、貴族であっても、宰相であっても、座ることを許されない。それを知るが故に、レントゥスもガイウスも戸惑いを隠せないまま、揃ってイークの言う通りに席に着いた。


「陛下……出過ぎた発言になることをお許し頂ければと思いますが、あまり、御自身の道がないかのようなお言葉は慎んで下さいませ」


 ガイウスの低い声が窘めるのに、彼は微苦笑で返す。


「そう思うか、ギレーク」


「ええ、陛下あっての国にございます」


 竜騎士団長は至極真面目にそう言った。はっきりとした忠誠を示す鋼のような美しい意志は、七百年前の種族の誕生以来ずっとシルディアナを守り続けてきたが故、ということもあるだろう。彼らはひたすらに、ただ穢れなく、政治形態が二転三転と移り変わる中で時代の要となったシルディアナの為政者を守ってきたことに関しては、大陸中のどの種族よりも誇りに思っている。


 その竜人族の目の前で自身を落とすような物言いをする羽目になろうとは。イークは目を伏せた、だが、事実だ。それを直視せずして、どのような道が拓けるのだろうか?


「そうだろうか、ギレーク……私のことなど、今は殆ど誰も見てはおらぬ……皇帝など最早、国の要ではない」


 目を上げた時に見えるのは、近衛騎士団長と竜騎士団長の怒りを堪えた険しい表情だ。これはまた良く効いたな、とイークは思う、特にガイウスに対しては。


「私が市民からどのように言われているか知っているだろう?」


 何もしない、出来ない。病故、市民の前に姿を見せたこともない、シルディアナ放送や凛鳴放送にも出ない。政治を執り行うのはイークライト・シルダではなく、宰相キウィリウスである。流れる噂は、顔の美醜の話や体調の話、好きな食べ物は何かといった話ばかりである。


 今度は、レントゥス・アダマンティウスが口を開いた。


「……下等学舎の無償化と、中等学舎の学費の減額修正を提案されたのは、陛下ではありませんか」


「それを執り行ったのはキウィリウスだ、その時は負担を掛けてしまったな……一年前の話か」


 彼は再び目を伏せた。一年前の話だ、イークは思い出す。ラナの顔が脳裏にちらついた、何処か気品のある顔立ちに浮かべる少し影のある微笑み。おそらく彼女が中等学舎をやめてすぐの頃に施行された法だ、だが、親を失った傷の癒えぬ身に、勉学や仕事などの負担を強いるようなことはしないのが、シルディアナである。そうあるべきだと彼は思っていた。


 それに、学舎に関する新法自体、彼女と何ら関係はない。これはイークが西街区へ忍んだ際に見たものが切欠だった。


「噴水の周りでな、白石を手に石畳を計算式で埋め尽くしていたのは、私とちょうど同じ年の子が三人だった……知りたいということを思いつく限り教えてやったら、とても喜んでいた、そうやって、私は思い付いただけだ」


 思いつくことと、それを実行に移すことは違う。


「先程の私の言葉の真意など今はよい、アダマス、ギレーク……其方らの仕事についてだ」


 イークはイークライトとして、顔を上げた。


「私の花嫁候補が消えた」


 近衛騎士団長と竜騎士団長は、揃って、存じております、と囁く。


「皇帝陛下におかれましては、気落ちすることも御座いましょうが――」


「身元を突き止めた」


 痛みを堪えるような表情でガイウスが言うのを、イークは遮った。縦に長い楕円を描く竜騎士団長の漆黒の瞳が、濃い灰色の光彩の中で煌く。首筋や顎、腕に細かく生えた鱗が僅かに逆立った……竜人族が興奮している証拠だ。


「――見つかったのですか」


「否、だが、何処に身を潜めていたのかはわかった」


 キウィリウス邸にあった織物と、ラナの腕輪。双方に施された淡緑の蔓と花、シルディアナ帝国東北部にあった小さな村に伝わる意匠。疫病によって村人ごと焼き払われ、地図から消えた――彼女と、その母の故郷。


 本当の名前はラレーナ。


 イークは微笑んだ。


「姿を消したというキウィリウスの娘は腕輪を嵌めている……蔓と花を象った非常に優美な意匠だ、先日訪問したキウィリウス邸に、同じ意匠の織物が存在していた……シルディアナ放送で流れた大怪盗とやらに関する映像にも、もしかしたら映っているやもしれぬ」


 今、皇帝の心を強く支配しているものは執着である。彼自身はそのことに気付いていたが、心のままに振る舞うことを止めなかった。政治を執り行おうとする者としては失格である。同時にイークは考えていた、これを建前として、己の真意を深く読みながら行動を起こすことの出来る者が有力者の中に一人でもいたのであれば、それは僥倖である。


 己の感情さえ利用する、国の為ならば。


「ギレーク、時にそなた、「竜の角」へ赴いたことがあるらしいな」


「はい、摘発の際に」


「やはりそなたが出るほど大規模であったか」


「あの酒場は帝都の本拠地であるという情報がありましたので」


 イークは長く息をついた。レントゥス・アダマンティウスがまさか、と呟く。


「そのまさかだ、アダマス」


「巻き込まれたと?」


「間違いない」


 ガイウス・ギレークの方は、眉から隆起した黒い角を震わせて絶句している。竜人族は感情が顔に出やすいから使い所を心得ておかなければ、とイークは思った。


「まさか、軍の者の手に掛かって……ステラ宮を調べさせましょう」


「そこにはいなかったぞ、ギレーク」


「……どうしてご存知なのですか、陛下?」


 レントゥスが、ぼろが出るからもうよせ、とでも言いたげな目をしてガイウスを見る。皇帝はそれをおかしく思いながら微笑んだ。


「自身が知っていることは必ず他人も知っているという前提で動け、というのは父上の教えだ……一斉摘発の際の死傷者に関しては宮殿に届けが出ている、死んだわけではないと私も考えているが、探すのに人を割き過ぎるわけにもいかぬ」


 イークライト・シルダはキウィリウス邸訪問後から今日までの数日間、塞ぎ込んではいたが、何も行動しなかったわけではない。サフィルスやシーカを使い、死亡届や出生届を洗ったり、ステラ宮に忍んで「竜の角」の他の生存者から話を聞いたりしていた。流石に六日に一度訪れる休日を返上させて働かせすぎたので、サフィルスには三日間の休日を与えた。その若い近衛騎士には婚約者もいるので、偶にはゆっくり過ごせという言伝も添えて。秘密裏に進めていた調査は徒労に終わった、こんなものは想定内だが。


 それに、とイークは付け足す。


「アルジョスタに捕らわれている可能性が最も高い」


 シルダ家が利用しようとするものに他の者が目をつけないなどということは有り得ないし、利用価値ならば明確に存在するだろう、何せキウィリウスの、帝国の政治に関するあらゆる権力を握っている宰相の娘である。市民育ちであるのは不幸か、或いは幸か。貴族育ちと違って価値観が市民であるということは、アルジョスタの目指すところの政権奪取、或いは政権打倒に、彼女の思想が傾きやすいと言える。それはそれで構わない――イーク自身が今の状態の帝政に疑問を持ち始めていた――のだが、アルジョスタのやり方が正しいかどうかは別だ。皇帝自身は、二番目プレナの名を持つ反乱軍に関しては様子見を決め込むことにしているが、どのような形で何を仕掛けてくるのかは、まだ予想しか出来ない。民や貴族への地道な周知から導かれる穏やかな帝国解体へ向かうのか、アルジョスタ・プレナの革命によるシルダ家及びキウィリウス家からの政権奪取か、血で血を争う内乱となるか。


 アーフェルズにもう一度会いたい、と、彼は思った。


「一斉摘発の際、「竜の角」にいた者達に訊きますか、陛下」


 ガイウスが提案してくる。イークはそうだな、と返しながら、何を訊けばいいか練り始めた。


「誰がいて、誰がいなくなったのか、事細かに思い出して貰う必要があるな……ギレーク、そなたはその場に駆けつけただろう」


 レントゥスが独り言のように囁き、竜人族の方を向いた。その通りだ。


「よし、ギレーク、ステラ宮へ行って参れ」


「……取り調べ人を使えば宜しいのでは、陛下?」


 目をぱちくりさせるガイウスの指摘は至極尤もである。イークはにやりとした。


「そなたが行くのがよいのだ……私も同行するぞ、今からだ」


「陛下まで、いや、しかし――」


 明らかに狼狽え始めるガイウスを見ていると飽きない、サフィルスより落ち着いていなくてどうするのか。否、ただ単に慣れていないだけだろう。イークは思わず笑い声を上げた。


「私はもうそのつもりだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る