12
事実、昼九の刻と言うが、夕方である。この時間帯のエイニャルンは西日に照らされ、昼に太陽から受けた熱を放ち続ける赤い大地は、まるで燃え上がるかのように色づく。緑色をしたスピトも真っ赤になるから、本当に炎の化け物に焼かれているみたいだ、とラナは思うのだ。
その紅の光は屋内にも満ちていた。天井を覆う白いシヴォライト鋼や腰の高さから上を白く塗られた壁は美しく染め上げられ、先程点灯させたばかりの古式のランプの周囲のみが金色に光っている。ランプの住人である一体の光精霊が、シヴォライト鋼で塗装された金属装飾からいささかふざけた格好でぶら下がりながら、入ってきた部屋の主人と客人達が座るのをじっと見つめていた。
広い部屋である。腰掛けた椅子は重厚な色の濃いイオクス材だ、丸い机も、本棚も。ラナの部屋にあるものとよく似た文様が水流を模した湾曲を複雑に描き、彫刻としてその縁を親指の長さ程度の幅で彩っている。そっと指で撫でると、刃物で手ずから削られた痕の、柔らかい感触が手に馴染んだ。
「まずは、訓練、報告、共にご苦労だった……死者がいなくて安心したが、メライダ、君は大事ないのか」
部屋の主の視線は、その場に呼ばれたラナと教官に向いている。保護者だから当然だろうなどと言って同行してきたティルクの、左腕に装着されている魔石動力弓が音を立てるのが、微かに聞こえた。
ラナは綿で織られた碧色の胴着の上に、薄青に染められた踝丈のチュニックを着ていた。二の腕まで覆う袖と裾には風と水を象る文様が施されており、絹織物なので肌触りもよい。そして、左腕には母ティリアの形見を。上等な装いだ、よく似合っている、と、出がけにティルクが褒めてくれた。
彼女の目の前にいるのはネーレンディウス・アンデリーと名乗る人物である。横や後ろに流された短めの髪はくすんだ暗い金、その双眸は灰色。スピトレミアより東にあるヒューロア・ラライナの名家であった先祖の血を色濃く受け継いでいる、というらしいが、アンデリーなどという家名はその国にはない。何処かで見たことのある色だと気付いて、すぐに思い当たった。スピシアだ、顔立ち、特に鼻と眉とが、よく似ている。
「ええ、ネーレンディウス様……背に金属が刺さった程度で、光術士の治癒一度で回復致しました」
教官は闊達さを湛えた微笑みでもって、そう応えた。
敬称が付く故は、ネーレンディウス・アンデリーその人がスピトレミア領主であるからだ。その割に、今いる部屋はおおよそ領主の館らしくない広さである。数人が机や椅子と共にいるだけで一杯なのだ。そういえば、とラナは思い出す、ここに来るまでに通ってきた道は、岩肌が剥き出しになった通路や、壁掛けの布の裏、簡素な手摺りのみが設置されたエイニャルンの断崖絶壁だった。足が竦まない者がいるのなら見てみたい。
「ラナ、君は如何かな」
突如水を向けられてラナは狼狽した。貴族らしき青年――イークと会話をした経験はあるが、その時の彼は相手が平民らしいやり取りを求めていた。今は違う、領主という立場から、貴族が話し掛けてきている。
「はい、あの、光術士の方によれば、何も、問題はないとのこと、です」
腹のあたりで握る手に汗が滲んでくるのを感じながら放たれる矢のように言葉を紡げば、領主の表情が緩んだ。口元には優しい笑みが浮かんでいる。
「……もっと楽にしても構わないよ」
思わず彼女は目だけでティルクの方を見たが、おじは眉を上げるのみ。どうしろというのだろう、次に目に入った教官は先程から微笑みを崩さない。客であったならばともかく、ラナはこのような時の振る舞いを全く知らないのだ、同席している教授の方はそもそも彼女からの視線に気付かない。貴族に貴族の対応を目で訊いても仕方がない、これまた保護者だからと着いてきて気配を完全に殺しているアーフェルズに視線を送れば、いつもの美しい笑みが少しだけ深くなって、その人は首を傾げた。
ラナは諦めてネーレンディウスの方を向いた。
「……はい」
向いたはいいが、何故自身がここに呼ばれたのか、彼女は分からなかった。
「うん、その助言もいいけれどね、ネレン……オスティウス・メライダやトライコ・ケントゥリアからの報告が貴方にいったのは分かったけれども、ここに呼んだ理由をそろそろ話してあげないと、彼女の緊張も解けないのではないかな?」
彼女の気持ちを察したように口を開いたのはアーフェルズだ。ネレン、などと親しげに呼び掛け、教授や教官に敬称をつけていないのは、彼が特別だからなのだろうか、などと考えたところで、その人がアルジョスタ・プレナという反乱軍組織の指導者であることをラナは思い出した。同時に、だからわざわざ面倒な道を移動してこのような隠された部屋まで来たのだ、という考えに行きついて、一人合点した。
「ああ……メライダ、君が背中の怪我だけで済んだ理由も含まれるか」
「ええ、彼女が風の精霊王フェーレスを呼んだのです、それがなければ、少なくとも私の命はありませんでした」
領主の問いに対し、全身の骨が砕けて頭は潰れていたでしょう、などと教官は答える。
「ですが、彼女は五歳検診で属性適正なしとの診断が下りているようです」
「成程……ラナ、君に何か別の心当たりは?」
ラナは逡巡した。思わずティルクの方を見ると、彼は一つ頷いて口を開いた。
「アーフェルズとネーレンディウス様は従兄弟だ、何も心配はない、何でも話して大丈夫だ」
おじの言うことであれば大丈夫だろう。彼女は左腕を軽く上げた。
「私の腕輪なのですが」
一呼吸置いた瞬間、ネーレンディウスの目つきが鋭くなった。何かを知っている顔だ。
「何の鉱石なのでしょう、分からないのですが、光ります」
「それは、どこで?」
「母の形見です」
領主も、教官も教授も、揃ってティルクを見た。その人の空を思わせる双眸は何処にも焦点を結ばず、無表情になっている。ややあって、平坦な低い声が、その場に促された独り言をそっと紡いだ。
「ティリアは俺の姉だった、もう、死んでいます」
「……そうか、それは、残念だ」
「その腕輪はティリアが婚姻を結んでいた時期に相手から贈られたものです」
無表情から一転、ティルクは、まるで何かを懐かしむような表情になった。
「……とても嬉しそうだった、ちょうど自分が下等学舎に行き始めた頃でした……年の離れた姉ではありましたが、ティリアはいつも朗らかで、何一つ嫌な顔をせず、泥にまみれて遊ぶ自分の相手をしてくれる優しい姉でした、自らも泥にまみれたりすることもありましたが……婚姻を結んだ相手は、ティリアだけでなく自分にも帝都での生活を保障してくれるくらいの男だったから、その男がティリアを大事にしてくれると信じてやまなかったのです」
ティリア、と彼に呼ばれるその人は、ラナの知らない母だった。ですが、と続けるティルクの声が苛烈さを帯びる。
「裏切られた気分だった、ラナが生まれて四年、ちょうど自分が中等学舎の騎士課程へ進んだ時期に、疫病という理由で故郷の村が焼かれたのです……それについてはティリアの相手から聞いていたことでしたが、止められる立場にありながら、どうして」
双眸が蒼い炎のように燃えている。激昂を抑えようとしているそれは怒りと憎しみを宿し、悲しみと狂気を糧としていた。両の拳は固く握られ、震えている。
「どうして、精細な調査が出来ぬからと、早まってアル・イー・シュリエを焼くなどという決断を下したのか、人の身体を使うのはこの際仕方がないから原因を突き止めるべきだった、そう言って俺は詰め寄ったが、奴は首を振るばかりだった……ティリアにあの腕輪を贈るほど、辺境への便宜を図ると約束してくれたほど、ティリアとアル・イー・シュリエのことを愛していると信じていたのに」
アル・イー・シュリエという言葉に、ラナの心がざわついた。何度も夢で見た酒場の一角、目の前にいるのは波打つ砂色の髪をひとまとめにしている青年と、昔は珍しかったらしい黒髪を顎のあたりで切り揃えた絶世の美女。そう、その時代遅れな旅人のような恰好をした青年の耳は尖っていて、おそらくイェーリュフ族だ、その人の言葉。
――シルディアナの宰相の奥方がそこの出身だからこその所業だったのかもしれない、と私は思っていますが。
また今度必ず言う、と言ってくれた、その母についての話がここで今為されている。
そうしてラナは気付くのだ、自身は、自身こそが宰相の娘だったのか。それならば、腕輪の意匠と、シルディアナ放送に映っていたキウィリウス邸の装飾品の意匠が似通っていることにも、合点がいく。
「すまなかった、などと言っていたが……そんなことよりも、ティリアとラナが消えても、探そうとしなかったことの方が、腹が立った……疫病に罹患した人間ごと村を焼いた者の身内だから、と、学舎で散々な扱いを受けたことよりも、どうして、どうしてティリアを守らなかったのか、腕輪を贈っておきながら……俺は北街区から帝都中を探し回って、それでも見つからなくて、手掛かりなど初めからなくて、やっと見つけたと思ったら、もうティリアは死んでいた」
ラレーナ、と、彼女を愛おしそうに呼ぶ声が記憶の底から耳に木霊する。ラナは左腕を掲げた。淡く翠に光る腕輪はランプの光を呑み、花と蔓が優雅に目を焼いていく。気が付いたら口にしていた。
「わからなかった、そんなこと……でも、私、知っていた」
ネーレンディウスや教官の視線が彼女を向いた。
「夢で見たの」
「……お前もそうだったか、ラナ」
ティルクの声が柔らかくなっている。振り返ると、顔は険しいまま、その人は大きく一度だけ頷いた。
「アーフェルズから夜に引き継いだネーレンディウス様の護衛を、エレミアと交代する時に、俺も見た……今度は、皇帝だったな」
「そう、そうだった、名前はミザリオス・シルダ、って……」
「第一代か」
ネーレンディウスが言う。ラナとティルクは揃って頷いた。
「君達の事情は知っている……聴こう、他に誰が出てきた?」
「あと一人、ミザリオスにすごく、よく似ている女の人がいました、それ以外は誰も」
ラナは言う。目線を外した先、領主の胸元に、胴着と紐を繋ぐ金の飾りが水精霊の意匠を掘られているのを見た。
「強いて言うなら、クライアという名の女の視点からミザリオスとその女を見ていたと言えるでしょう」
ティルクが更に補足する。見ているものはおそらく同じだろうが、関連する情報についてはラナよりも知っていることが多いに違いない……夢に関しては、冷静さを取り戻した彼の方が話すのに適任だろう。彼女はそう考えて、おじの方を向いた。
「クライアは鍛冶師だったようで、ミザリオスから剣を打つようにという指示を受けていました……そうして、その為に、始原の森へ行けと」
「あの森へ? 生きて帰ったのか?」
「それは判断出来ませんが、おそらく無事だったかと思われます……続きも、いずれ遠くない未来に自分たちが見るかと」
ラナは思うのだ。どうして“クライア”という女の視点でいつも夢を見ているのだろう、と。どうして何かが起こる度に“クライア”の物語が進んでいくのだろう、と。心臓に幾つもの太い針を刺されているような気持ちだ。
疫病で焼かれた人達も、生きていれば、この夢を見たのだろうか?
ネーレンディウスは表情を変えない。
「君達が見ているものは同じなのか」
「おそらく」
「だとしたら……アーフェルズが言っていることも頷ける、君達の可能性について、だ……その腕輪は証拠になるだろう、そして、君達が見る夢……アル・イー・シュリエで何が起こったのかを解き明かすことが出来るかもしれない」
そうして、と、その人は続けた。
「それが決定打になるかもしれない」
その時、ラナの視界の端でアーフェルズが綺麗に微笑んだ。ネーレンディウスと従兄弟の関係にあるというのは先程ティルクが言っていたことだが、その微笑みを信用してもいいのだろうか、と彼女の中で誰かが囁く。領主との血縁があるから、アルジョスタも匿われているし、大丈夫だと言いたいのだろうか。ラナ自身はアルジョスタに与しているという意識などないのに?
父が、母とティルクの故郷を焼いた。彼女の心は荒れている。しかし、彼女は思う、ティルクが信じてやまなかったと言うぐらいの人が、家族の故郷を焼かざるを得なくなった時に何ら苦しくないなどという状況など、有り得るのだろうか?
ネーレンディウス・アンデリーは教授や教官と話し始めた。ラナの教育についてだ、中等学舎の再受講を終えた後は帝都に存在する高等学舎への進学か、或いはラ=レファンス魔法学院への留学を斡旋するか。能力があるのであれば必ずサヴォラ免許は発行するそうだ、騎士課程が上手くいくようであればもっと良い条件で様々な道が拓けるらしい。教授と教官はそれぞれ自身の左肩に右手を置く挨拶で、お任せください、と頭を下げている。
どうしてか、ラナは思い出すのだ。ラレーナ、と呼んだ父の声を。低くても朗らかで、溢れんばかりの愛を感じるその声を。
どうしてか、ラナはアーフェルズの言葉を思い出すのだ。多数を守る為に小数を切り捨てるというのは……忌々しい、憎いが、そうせざるを得ない状況を作り出した私が未熟だった、もっとやり様があったかもしれない、生きていれば――
どうしてか、ラナは思い出すのだ。アーフェルズは死んでしまったの?
あの子は誰だろう? 生きているけれど。
焼かれた人も、泣いているあの子を夢で見ていたのだろうか、生きていれば。
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