11
初めてサヴォラに乗った時は、ラウァは手渡しではなく、半ば無理矢理装着させられたようなものだった。だが、今は違う。教官の手からしっかり受け取ったそれはラナが思っていたよりも重くて、至極あっさりと手に馴染んだ。
飛べるのだ。
「同乗は初めてではないな?」
彼女が後部座席に乗り込んでラウァを装着すると、教官が問うてくる。お互いにラウァ越しの為、目が濁って見える。決定形で訊いてきたのがとても気になったが、ラナに相手の表情は読み取れない。
「はい」
「なら、大丈夫だな」
何が大丈夫なのだろうとラナが思った瞬間、教授の指示が飛んできた。
「操縦者、魔石動力、起動!」
教官はそれに短く応えながら、操縦席の右脇に取り付けられた起動幹を押し上げ、振り返った。
「何、だからこそお前を二番目に呼んだのだ、燕になるぞ、しっかり掴まっていろ」
「操縦者、竜翼展開!」
無数の精霊達が一斉に産声を上げ、ラウァ越しの視界が翠の光で溢れる。ラナは気付いた、燕になるということは、飛んでいる最中に翼の形状を竜から砂漠燕へ変えるということだろうか?
「操縦者、飛翔!」
それが聞こえた瞬間、思わず教官の腰に回した腕に力を入れた。
身体ごと前方に引っ張られた。臓腑が浮く。落ち着かない気持ちが血と共に全身を駆け巡り、自身がサヴォラに同乗した経験があることをどうして教官は知っているのだろう、などという疑問が、風の精霊達の笑い声で引き剥がされて地上に落ちていく。
顔を上げる。腕の力を緩めて、ラウァ越しの世界を見た。
ラナは、飛んでいた。
くすんだ青い空と、頬を叩き掠めていく風の塊。髪は全て後ろへなびき、言い表しようのない高揚感が彼女の身体を満たす。
地平には赤い岩肌と土、その上にぽつぽつと点在するスピトを数えることが出来た。何処まで行っても彼女は落ちなかった。教官と共に、翠に光る竜翼を展開する
掠れた教授の声が前方から微かに聞こえる、彼女はそれに覚えがあった。ティルクだ、帝都から脱出する時に姿の見えないアーフェルズとやりとりしていたのは記憶に新しい、無線機だ。矢のように飛んでいた風精霊は無線機からの伝達だったのだ。
砂漠燕、という言葉が聞こえた。無線機だ。
「飛燕展開!」
叫び声と同時にラナは腕に力を入れ直す。瞬間、身体にかかる圧が増した。広い背中がティルクのそれと重なって見える。サヴォラ前方を覆う流線型のグランス鋼は叩きつけてくる風を逸らし、時折ピシピシという音を立てながら二人を守っていた。
スピトを数え切れない程見たような気がする。地平を掠め、美しい小型飛行機はエイニャルンを舞い踊った。ラナは自分が風の精霊になったような気がしている、声を出して笑い、風と戯れて遊ぶ。
臓腑が反転する。精霊達の笑い声が大きくなり、ラナも歓声を上げる。
――音が鳴るのは果たして大丈夫なのか?
ラナは自分が風精霊ではないことを思い出した。人間だ。
「ラナ!」
呼ばれた。声が焦りを含んでいる。彼女も叫び返した。
「はい!」
「左手で俺のベルトを掴め、右手を離せ!」
ラナは言うとおりにした。支えを半分失った恐れで右腕が上手く動かない。
「離しました!」
叫ぶ声が震えた。ピシピシという音が大きくなっている。恐怖で視界が混乱し、何処を飛んでいるのかわからない。
「右脇の太い幹だ、探れ!」
必死で
「ありました!」
「下げろ、もう持たん!」
迷う暇などなかった。どうなるか想像するのを諦めた。
ラナは握り込んだ幹を一ヵ月鍛えた腕で思い切り下げた。
「フェーレス!」
風の大精霊の名が口をついて出た。身体にかかっていた圧が全て消え、妙な浮遊感に包まれる。
投げ出された、と気付いたその時、左腕が掴んでいたものから剥がされた。
分厚い布のような何かが開き損ねたような音がする。
「くそっ」
教官が毒づくのも聞こえる。
その時、視界が翠光で一杯になった。誰かが彼女の名前を呼んでいる。
楽しそうな笑い声が響いてふと横を見れば、ひときわ美しく豪奢な翠色の髪を靡かせる精霊が、にっこりと親しげな笑みを浮かべた。宝飾を一切纏わず、衣は薄く柔らかく、力強くしなやかな若木の如し肢体は男のもので、大人になりきっていないその笑顔に、ラナは見惚れた。
左腕をしっかりと握られる。それから、彼女の腰を抱いたのは誰だろう?
「フェーレス」
彼女は呟いた。こっちに来い、と叫んだ教官の声が、ラナには遠い。何かから守ろうとしてくれているのだろうか、逞しい腕が包み込むように巻き付いてきた。
風の魔力放出で金属が裂かれる音が耳を貫き、彼女の身体を抱く腕に力が込められた。
誰かが夢の向こうで呼んでいる。
「ラレーナ」
誰かが夢の向こうで泣いている。
「アーフェルズは死んでしまったの?」
その涙を拭いたい一心で、生きているよ、と叫んだ瞬間、幼い声の主が顔を上げたような気がした――
目の前で、顎を上げて壇上の玉座から翠の双眸で此方を睥睨してくるのは、美しい金色の髪を短く整えた男である。その側には同じ色の双眸に同じ色の髪を長く伸ばした美しい女が立っていた。
記憶だ。
男の背後に迫る白壁には白竜が刻まれている。まるで、生きているかの如く。かなり古いものではあったが、欠けることもなく、美しく磨かれて光を放っていた。魔石ではなくただの白い石材だというから驚きである。
――その方、クライア・サナーレと申すか。
――如何にも、ミザリオス・シルダ様。
ミザリオス・シルダとは初代皇帝の名である。しかし、クライアは皇帝につけるべき敬称をつけて呼んでいない。
クライアの記憶だ。シルディアナが帝国になる前だろうか。
――そなたの師であるアウルス・フルウィオルスと、鍛冶組合頭のプラティウスより、そなたが腕利きの鍛冶師だと聞いた。
――お褒めに与り恐悦至極に存じます。
記憶の視界の中で、ミザリオス・シルダが狂気を孕んだような笑みを浮かべた。
――剣を打て。
アウルスもプラティウスもこの場にはいない。仲良くなった門番のアツェルもいない。ここに入れるわけもない。いつも自身を守ってくれた人は誰もいない。赤銅色の髪に空色の瞳をした青年の姿が脳裏を掠めて、消えた。アウルス。
彼女は一人で戦わなければいけない。
――クライア・サナーレ。
――はっ。
顔を上げれば、ミザリオスの狂った笑みが深くなった。その横で、同じ色をした女が、全てを諦め、哀れみを宿した目で此方を見つめている。
アウルスを、師を守りたいという意志は日増しに強くなってきていた。切欠は、クライア自身が庇われて師が腹部に大怪我を負ったあの事件だ。この人と共に生きたいと自覚したのも、今思えばその時だった。温かく見守り、導き、笑ってくれるその人の力になりたい。その為なら自身に降りかかる困難の一つや二つ、鎚で破壊出来るぐらいに、強くならなくてはいけない。
――最高の剣だ。
この想いは、目の前の狂気の笑みに勝たなくてはならない。
――シルディアナを統べる余に、最高の剣を与えよ。
この愛おしさは、困難に打ち勝たなくてはならない。
――その鋼が始原の森にあるとのことだ。
必ず生きて、生きて。
――行って参れ、そして、打て。
生きねばならない。気が付けばラナは唸るように返事をしていた。
――はっ!
彼女の心が覚悟で満ちると同時に、視界が色を取り戻した。
誰かが取り乱した表情で何事かを言っている。それがわかった瞬間、音も戻ってきた。
「ラナ、俺がわかるか!」
叫び声が聞こえて、ラナは我に返った。教官だ。平素の自称ではなくなっていることから、普段の様子とは遠くかけ離れた状態に違いない。スピトレミアの騎士階級の人々は帝都の貴族階級の人々と違う、などと彼女は思ったが、そもそも帝都において貴族階級の者との付き合いが殆どなかったことに気付いた。
そうして辿り着くのは、イークのこと。
「……メライダ教官?」
目の前で泣きそうな顔をしている男の名前を口にした瞬間、彼女はもう自分が浮いていないことに気付いた。ラウァはいつの間にか外されており、気道確保の為だろうか、首元まである羽織の前が開けられている。恐る恐る身体を起こしたが、何も支障はないようだった。
「夢を、見ていました」
混乱する記憶の中でやっと言うと、教官がじっと此方を覗き込んでくる。その双眸が砂のような色をしていることに初めて気付く。
見回すと、周囲には人だかりが出来ていた。ほっとした表情の教官が口元を引き締め、立てるか、と訊いてくる。はい、と頷いて立ち上がって、目の前に布のようなものが落ちているのに気が付いた。
「脱出装置が上手く作動すれば、もう少し綺麗な形で落ちる筈だった……本来ならば、後部座席の中に仕込まれた森林蛾の布が半球状に展開し、ゆっくり降りてくることが出来る、という設計だが……」
教官の眉間には皺が寄っている。いつの間にか目の前に来ていた教授も同じような厳しい表情をしていた。周囲の生徒達は皆が心配そうな顔だ。
「メライダ、背中の手当を、大量出血も有り得る故、抜かずに行け……全ての説明と報告は私が」
その言葉にはっとして、ラナは思わず振り返って教官の背を見た。なめし革の分厚い羽織を突き破って、フェークライト鋼の破片が幾つも突き刺さっている。彼女は息を呑んだ、そのはずみで、ひゅっという音が漏れる。
魔力放出からラナを守ったのだ。草食竜の草緑をしているなめし革は所々が暗褐色に染められ、血が滲んできているのがわかった。
「ありがとうございます、ケントゥリア教授」
「それから……君も診て貰いなさい、ラナ」
教授は厳しい表情をしてはいたが、優しい眼差しで彼女を見ている。責められていないということがわかったが、ラナは一言発するだけで精一杯だった。
「……はい」
「ついでにメライダを監視しておいてくれ、こやつは学舎の診療所ですら拒否するからな」
「それはないですよ、教授」
行こうか、と言ったその人の腕が背中に回される。二人はその場を後にした。
エイニャルンの岩棚の上に一陣の風が吹く。振り返った向こうでは、無事だった三機のサヴォラを前に、生徒と教授がやりとりをしていた。なかなか飛び立たない様子だ、今日の飛行は中止となるようだった。
「すまなかったな、ラナ」
と、教官がぽつりと言った。振り返るのをやめてその人を見上げれば、様々なことを悔いている表情が目に飛び込んでくる。
「……ラウァを受け取ったのは私です、その上、私は……メライダ教官に守って貰いました」
震える声でラナは返した。教官は首を振る。
「守るべき生徒であるお前を危険に晒したのは褒められるべき行為ではない、それに……」
背の痛みを今になって自覚してきたのだろうか、眉間に皺を寄せて何かに耐えるような顔をしてから、その人は歩みを止めた。
「それに、守られたのは此方だ、礼を言う……ラナ・サナーレに風の精霊王の加護と感謝を」
両手で三角形を作り、教官は砂色をした目を伏せる。灰褐色の短い髪が一房、ふわりと額にかかった。シルディアナ貴族式の感謝の印を結ばれて、ラナは戸惑って首を傾げる。
彼女は誰かを守った自覚がなかった。黙ったままでいると、顔を上げた教官と視線が合って、怪訝な表情をされた。
「どうかしたか?」
「私は、何か……したのですか?」
「精霊王を呼んだだろう?」
ラナは気付いた。風の精霊王フェーレス。
その顔をはっきりと見たのを覚えている。
「精霊王フェーレスを呼べるくらいに力のある風術士であるのならば、これ以上幸いなことはない……サヴォラ乗りには最適だ、その点で他の者よりは優れている、是非とも精進してくれ」
彼女のはっとした表情を見て、教官は微笑んだ。しかし、ラナ自身はそのような力など持ってはおらず、至って普通の人間である。小さい頃に試すも何も、帝国の行っている五歳検診で、属性保有なしという結果が出ているのだ。そして、その結果は検診を行っていた医者から直接聞かされたことでもあった。その時は泣き喚くぐらいがっかりしたのを覚えている、その後で、母の手に引かれながら、屋台で買って貰った竜角羊の焼肉の米粉包みと一緒に、家――「竜の角」だ――に帰ったのだ。
「私、何も使えません、メライダ教官……五歳検診でそう言われて」
彼女は首を振った。何か言いたげな教官の口が開く前に畳みかける。
「そんなことより教官、早く止血しましょう……私のせいで」
「ああ、そうだった……流石に、痛くなってきたな」
教官は、そう言った後に呻いて身体を丸めた。その広い背中、金属の刺さっていない部分に左手を伸ばし、撫でるように支えながら、ラナはそっと前へ押す。
その時、手首に当たるのは金属の感触。
一瞬、フェークライト鋼の破片が革の手袋を突き抜けたのかと思った。慌てて手首を見たが、穴など何処にもない。気のせいだと思って教官の背に再び手を添えてから、彼女は思い出した。
手袋だから見えないだろう、と思って、今日は腕輪を付けていたのだ。淡くぼんやりと翠に光る美しい母の形見を。
「……感謝する、ラナ」
そう言って微笑んだ教官の右腕がそっと彼女の背を支えてくれた。それを気にするように見せかけて、自分の左手に視線をやる。
手袋から微かに淡い翠の光が漏れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます