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 実際、昼四の刻とは言うが、朝という意味である。その時間帯のエイニャルンは比較的涼しい。太陽が天頂に近付くにつれて気温が上がり、揺らめく赤土の上に砂ぼこりが立ち、荒れ地は荒れ地らしい様相を呈する。その上にスピトが点々と生えているのは、こんな場所でも生命がちゃんと根付いている証だ。


 今日の講義は野外である。中等学舎が存在するのはエイニャルンの岩棚の上の台地であり、朝でも直射日光がさんさんと降り注ぐ荒れ地の上、それを遮るものは全くないと言っていい。一ヵ月ほど訓練を続けてきて、ようやっとラナは同じ講義を受ける生徒に追いつける程度の体力を獲得するに至った。帝都にいた時に働いていて、体力仕事であったということが幸いしたかもしれない、と彼女は思っている。


 さて、目の前には五機のサヴォラが停泊していた。胴体は光沢の抑えられた黒に塗り潰され、鈍く陽光を反射している。丸みのあるグランス鋼が、ごく薄いフェークライト鋼とシヴォライト鋼で二重に上塗りを施されており、歪んだ半球を描いて分厚く機体前方を囲んでいた。魔力噴出孔は帝都でよく見るシルディアナ帝国軍の機体よりも僅かに広いが、機体そのものは一回り小さい印象を受ける。全長は三メトラム程、幅は一メトラム程度だろうか。より軽く、より小型に、より出力を上げたのだろう、と推測出来る。その均整の取れた流線型は非常に美しく、ラナはあっという間に目を奪われた。


「これから実技教習を行っていく、常に危険が付き纏うこととなる上に、最悪死に至る可能性もあるので、必ず班に随行する各教授の指示に従うように……詳しいことは班分けの後に各教授から通達されるので、聞き漏らしのないようにすること」


 軽い前置きのみの話が終わるや否や、生徒達はざわざわと思い思いに話を始める。五機のサヴォラの前に立って話していたのは、騎士課程の時にラナを直接指導してくれている教官である。再受講の生徒達は彼女を含め二十人程度がゆるく集まって立っており、騎士課程の教官の他にあと四名がその周囲を衛兵のように取り囲んでいた。


「ラナ、ラナ・サナーレ」


 呼ばれて、ラナは、はっと顔を上げた。


 ざわめきの中でサヴォラの美しい流線型に見惚れていた彼女の名をよく通る声で呼んだのは例の教官だった。見ると、近くには既に生徒が数人集まっている。


「はい」


 先程呼ばれた姓、それがティルクとの確かな繋がりであることを違和感とともに噛み締めながら、ラナは急いで歩み寄った。おじから姓の話をされると同時に、母ティリアの姓についても初めて聞いたのだ……「竜の角」で母はずっと“ティリア”と呼ばれていたから、ラナ自身も自身に姓があるなどということはスピトレミアに来るまで知らなかった。その母の弟であるティルク・サナーレは今や彼女の家族である。ならば、ラナ・サナーレで間違いはないだろう……顔も覚えていない父の姓すら知らないが、覚えていないということは離縁したのだろう、それならば父か母、どちらかの姓のみを選んで受け継ぐこととなる、というのが、帝国の法である。本来ならば父と母両方の姓を継ぐのだ。


 何にせよ、今まで生きてきた中で姓など知らなかった彼女にとっては新鮮で温かな気持ちだった。


「よし、四人集まったな、アルデンス、スピシア、テネル、ラナ……移動しよう」


 普段は緊張を促す教官の明るい声が、今のラナには心地好く爽やかに感じられた。四機並んだサヴォラを正面から横目に見ながら歩く時、彼女はグランス鋼の向こう側で静かに興奮している半透明の双眸と出会った。よく知っている、自分の形だ。


 一番端に停泊させてある一機のすぐ近くまで寄ると、教官はこちらを振り返って一つ頷く。


「今日は、一人ずつ私に同乗して貰うことになっている」


 四人全員、横一列に乱れなく並び、はい、と同時に返事をした。全て騎士課程教育の賜物である。他の班でも同様のやり取りが為されていた。今日の服装は、普段各々が着用している異なった好みの色の胴着の上に、首を覆う丈の短い厚手の羽織だ。袖は肘までの長さで、竜皮の手袋との間に隙間が出来ないよう、丈夫な竜の筋繊維が縫い付けられていた。それを結んで風が通らないようにしているせいで、暑いことこの上ない。だからこそ、この訓練は朝に実施するのだが。


「アルデンス、一番だ」


「はい」


 教官がアルデンスを呼び、ラウァを手渡した。透明なグランス鋼に溶かしたシヴォライト鋼とフェークライト鋼を薄く塗布し、目の周辺を覆って保護する役目を一手に担っているのがそれだ。丈夫で弾力性のある竜角羊のなめし革のベルトで調節出来るようになっているので、装着の際も楽だ。操縦者が同乗者のラウァも管理し、搭乗時に手渡しする、というのは、己が預かる命に対して責任を取れ、ということを操縦者に戒める習わしである。同時に、受け取ったのであれば委ねよ、という、同乗者への戒めでもある。スピトレミアに来てからはまだ言われていなかったが、サヴォラ免許取得に向けてラナは既にこれを帝都の中等学舎において学んでおり、またしっかりと覚えていた。


「今日は飛行がどのようなものになるかを体験することが目的だ、故に諸君にはそれ以上は求めない……ところで、後部座席に同乗する際の注意点は、テネル」


「常時、操縦者の腰にしがみ付いておくこと、です」


「正解だ、手を離したら落ちるぞ」


 教官はにやりと笑った。その皮肉気な動作が思ったよりも若々しい。


「更に付け足すなら、この機体はスピトレミア最新型、その名も――」


風の翼フェーレ・エイルーダですか」


 いきなりの高い声。途中から言葉を掻っ攫ったのはスピシアだった。教授や教官という役職を持つ者は口を挟むことを嫌がるものだ、ラナはそう教えられてきたので吃驚して思わず隣にいた彼女を凝視してしまったが、その灰色の双眸がめいっぱいに見開かれて、更にきらきら輝いていることに気が付いた。


「……言おうとしていたことを取るものではないよ、スピシア」


 教官は気付いていたようで、苦笑しながら柔らかくスピシアを諫めた。


「すみません、メライダ教官……しかし、帝国の最新型の機体である風の蝶フェーレ・フィリよりも魔力噴出孔が十シメトラム程大きくなっているのに、機体そのものは風の蝶フェーレ・フィリよりも二十シメトラム程、全長も幅も減っているなど……画期的ではありませんか! それに、グランス鋼のこの美しい流線型……この曲面の加工、帝国機よりも曲がりが大きくなっていますが、これを製造出来る程の動力機械工場はそうそう出現していいものではありません、帝国機風の蝶フェーレ・フィリが千金であれば、スピトレミア機風の翼フェーレ・エイルーダは二千金、金貨二千枚です……いえ、それ以上はします、違いますか?」


「よく知っているな、その通りだ……この訓練はスピトレミア機風の翼フェーレ・エイルーダの試験飛行も兼ねている、風の翼フェーレ・エイルーダの後部座席には非常時の際の脱出装置が存在するので、その位置も確認して、万が一の時、私が叫んだ瞬間、使えるようにしておくことだ……尤も、脱出訓練は今日やるわけではないが、ね」


 スピシアのサヴォラに対する知識の豊富さには勿論のこと、教官の大らかさと柔軟さにも、ラナは驚いた。今日は最初から驚いてばかりだ、と彼女は思う。


「それでは、一番、行くぞ」


「はい」


 アルデンスが前に一歩踏み出す。ちらりとこちらを振り返って何か言いたそうな顔をしていたが、何も言わずにラウァを装着し、四機並んだ中の一番端のサヴォラに乗り込んだ。


 操縦者は全て騎士課程の教官である。地上に残るのはサヴォラ乗りを引退した教授で、四機の後ろに立っていた。同乗者も全て乗り込んだことを確認すると、その人は他の生徒達に退避を呼び掛ける。


「搭乗者以外、直ちに二十メトラム離れよ!」


 はい、という応答が、岩棚の上で生徒達と共に散っていった。走って二十メトラム程離れ、遠くから取り囲むように向き直る。ラナはその時を待った。


「操縦者、魔石動力、起動!」


「はっ!」


 ラナが以前別の機体に乗った時とは異なり、魔石動力起動の際の、ヴン、という音は聞こえない。帝国機風の蝶フェーレ・フィリのように、風の翼フェーレ・エイルーダは起動時に機体が美しく翠の光を纏って輝くこともない。その代わりに、魔力噴出孔が翠光を放ち始める。


「操縦者、竜翼展開!」


「はっ!」


 ラナは風の翼フェーレ・エイルーダに見惚れた。魔力噴出孔から一斉に風が解き放たれ、美しい翠の竜翼が拡がる。あっという間に無数の精霊達が集い、機体の流線型と戯れ、笑い声を散らして――


「操縦者、飛翔!」


 ――四機全てがスピトレミアの空へ一斉に舞い上がった。


 目が離せない。機体の前方へ向かって飛び出たサヴォラは朝の陽光に鈍く輝き、光溢れるくすんだ青空を、翠色の魔力を纏って飛んでいく。直後、四体の小さな風精霊が矢のように空を切って飛び、四機は二機ずつに分かれ、大きく円を描いてそれぞれ左右に旋回した。


 息を呑むのも忘れてラナは魅入っていた。彼女の身体が思い出すのだ、夢で見た、あの言い表しようのない高揚感が全身の隅々まで満ち満ちてゆく。頬を叩き掠めていく風の塊、髪は全て後ろへなびき、何処まで行っても落ちぬ体、やがて霞む大気の向こうに見えてくるのは、高い塔が幾つも建ち、魔石の力による動力環がぐるぐると光りながら揺らめく、帝都シルディアナの壮麗なる眺め――


「ねえ」


 話し掛けられて、ラナは我に返った。振り返ると、灰色の双眸がこちらを見ている。


「あなたも好きなの?」


 高い声。スピシアだ。


「……何が?」


「決まっているでしょ、サヴォラよ」


 その瞳は真剣そのものだ。相対して初めて、ラナは編み込んで結い上げられた相手の長い髪が暗い金色をしているということに気が付いた。小柄ですっきりした体型だ。


「あなた、帝都から来たのでしょう」


「……うん、そう」


「帝都は免許ひとつ取るのも簡単だって聞いたわ」


 確かにその通りだ。免許を取得する為には座学講義と実技講義の後に、取得試験を受ければそれで良い。スピトレミアのように騎士課程は必修ではない。ラナは頷いた。すると、相手はこのようなことを言うのだ。


「あなた、騎士としてなってないわ」


「……は?」


 スピシアが突然真剣な眼差しでそのようなことを口にするものだから、怒りや悲しみより先に、ラナは驚き、次いで呆れた。そして、何故初めて言葉を交わす相手にそのようなことを言われなければならないのかと彼女は思い、そのついでに自身が優秀な戦士ではないことも思い出す。


「だって、なってないじゃない、体力からして」


「……まあ、知っているけれど、それは」


「なのに、帝都から来て、よくサヴォラ乗りになろうと思ったわね」


 どうして、と、その目が如実に語っている。声色から悪意は伝わってこない、おそらく純粋な疑問なのだろうが、ラナは言われている内容を噛み締めてむっとした。自然と眉間に皺が寄る。何も知らないくせに、という怒りが湧き上がってきた。


「……それって、あなたに関係ある?」


 何も知らないくせに、とラナの中で誰かがはっきりと言った。欲しかったものを諦めて、親も亡くして、その後に生まれたささやかな幸せや望みさえ捨てて、己の命を守る為に帝都から出ざるを得なくなって、それでも、漠然としたままではあるが前に向かって進みたいという目標があることなど、スピシアは知らない筈だ。だから、感情的になっては負けだと彼女の中に存在する冷静な部分が言っていたが、止める術を知らない。


「ないわね」


 スピシアは何かを思い違えていた、とでも言いたげな表情を見せて、それからふいと顔を逸らした。相変わらず話し続けてはいるが。


「私は座学も実技も二回目よ、そこは好きだからいいけれど」


 それはラナにもわかる。先程のサヴォラについての話はまさに好きな者のそれであった。


「でもね、騎士課程は苦痛だったわ、これも二回目よ」


 ラナは返事をするかどうか迷った。サヴォラが天空から舞い降りてくるのが視界の端に映り、そちらに視線をやれば、また高い声が追いかけてくる。


「再受講って面倒なのよね」


「……何が言いたいの?」


「羨ましいの」


 ラナは振り返った。教官が彼女の名を呼んでいる。


「ラナ、次だ」


「はい」


 空へ至る風の道へ向き直った瞬間に、スピシアはどこか拗ねたように畳みかけてきた。


「あなたは騎士課程が面倒だなんて思ってないでしょう? そこなのよ」


 振り返らずにラナは駆けた。辺りを舞う風精霊が様々な声を拾っては繰り返し反芻し、エイニャルンの岩棚に立つ生徒達の他愛ない囁きを彼女の耳元まで届けてくる。その中に一つ、高い囁きが混じった。


「いってらっしゃい、束の間の空の旅へ」

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