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「どうぞ、お手に取って眺めて頂いても構いません……取り扱いはご存知ですかな?」
「何、引っ掛けて取り落とすなどはせぬ……シルディアナの意匠とは少し趣が違うようだな」
イークがそう尋ねれば、キウィリウスの笑みがまた深くなった。間違いなく何かがある、と彼は確信する。たった今、お前は知らないだろうと言われたことを、次の瞬間に知るのだ。
「かつてシルディアナ東北部にあった小さな村に伝わる意匠でございます、陛下」
「成程、その村の話を耳にしたことがある」
相手の腕が組み直された、まるで自身の大切なものを守るかのように。
「ご存知でしたか、陛下」
「疫病だった、とな」
アル・イー・シュリエの名はイークも知っていた。十三年前、疫病が発生したことにより村人ごと焼き払われたと聞いたのだ――それを言ったのはどこか苦しそうな表情の父……ファールハイト前皇帝であったことも覚えている。アーフェルズは死んでしまったのか、と泣きながら問うた時だ。その時は彼の安否をはぐらかされたように感じたが、今なら父の意図もわかる。ファールハイト帝は僅か四歳のイークに向かって教えてくれたのだ、大きな事件の裏に隠された何かがあることを。沢山の死体の積み重なるその一番下、見えない場所に、大切な誰かが葬られたことを。
もしかしたら“父”は何か大切なものを失っていたかもしれなかった、とイークは思う。もしかしたら、宮殿の一角の、死んでしまった女主人が大切なものであったのかもしれない。もしかしたら、逃げ出さねばならなかった者がいたのかもしれない。もしかしたら、あの時姿を消したアーフェルズは――
――アーフェルズは生きていたけれど。
触れた淡緑の蔓がしっとりとイークの手に馴染んだ瞬間、文様の絡まりと花の意匠に彼は既視感を覚えた。翠に光るこんな形の金属を見たことがあったかもしれない。
「……キウィリウス」
「如何致しましたかな、陛下」
イークは傍にいるキウィリウスの顔を見上げた。哀しみと疲労を隠そうとしている微笑みの向こうに、真っ直ぐな何かがちらついている。懸念でも何でもない、もっと純粋な気遣いだ。気遣われるような表情をしているかもしれないということに気付いたが、泡沫のように次々と浮かんでは消えていく様々な可能性と過去についての予測が、寄せてはかえす潮騒のように響き、どうしたらいいのか、わからない。
「……腹が減った」
直後、イークの腹が同意を示すかのように竜のような唸り声をあげ、控えていたサフィルスとキウィリウス邸の術士が危うく吹き出しかけて咳払いをしたのは言うまでもなかった。
「病弱な陛下におかれましては、お疲れになったとお見受け致します……つきましては、我が邸の食事で宜しければ、ご休憩と共に何か召し上がっていかれては如何かと」
などと宰相が言うものだから、イークは有り難く素直に乗ることにした。
腹が減ってしまっては、戦だけでなく取り繕いも思考も出来ない。イークは常日頃からそう思っている。キウィリウス邸の食堂は装飾のない落ち着いた白の壁が美しく、魔石の照明は火属性だ。会食用の丸い机の上に置かれたスプーンやフォークは欠けも曲がりも一切ないシヴォライト鋼製である。食材に含まれている属性の力を通す金属や木材だと食事中に思わぬ怪我をすることがあるので、贅を尽くすシルディアナ貴族の食事においては食器をシヴォライト鋼で揃えるのは常識だ。机も然り。
「しかし、そなたも知っているだろう、私が病弱であったのは生まれて数ヶ月までだぞ……隠すようなことなど、どうせもう、何もないではないか」
彼は開き直ることにした。大体知っているだろう、と付け加えれば、グナエウス・キウィリウスは幾分か崩れた笑みを眉間と口の端に浮かべる。
「そのようなお顔をなさるものではありませんぞ、何が見ているか」
「拗ねていると言いたいのか?」
「滅相もございません、陛下」
さて、イークはキウィリウスと共に食事を楽しむことにした。野菜や肉、甘味などの料理が決まった順番に出てくるシヴォン共和国と違って、シルディアナの貴族は料理の量で客を圧倒するのが好きである。彼の目の前に並んでいるのは、盾蟹の崩した身をふんだんに使った海鮮焼き飯、アスヴォン高原産の葡萄や珊瑚樹の実と一緒に煮込んだ虹魚、牛の尾の肉と野菜のスープ、オレイア樹の実から採れた油をたっぷり使った揚げ米麺、その上にかけるソースは半透明で、色とりどりの鐘胡椒の実と東部湿原の豚の肉が使われている。食後のシメはロウゼルの香りが際立つスピトのゼリー寄せ、伴をする酒は最高級のワインと、グラン・フィークス酒。見るだけでイークの口の中に唾がわいてきた。とても美味そうである。
こうやって食べきれない量を並べるのがもてなしであり、客が残した分はもてなす側の邸の者に下げ渡されるのである。丸い机は何も一つだけではない。イークが連れてきた近衛騎士と、宰相に同行していた騎士と術士の四人も、別の机を用意されており、同じ内容の料理を振る舞われることになっていた……ただし、量は控えめである。
「どうぞ、陛下から遠いものはお取り致しますぞ」
そしてイークは宰相のその言葉に甘えることにした。本来であればもてなしを受ける付きの者――ここだとサフィルスだ――が行うことだが、そこでもてなす側が手ずから料理を取り分けることを了承する、というのは、相手に対して信頼を示す行為である。当の近衛騎士は目線で取り分けを任せろと訴えてきたが、イークは敢えてキウィリウスの申し出を受けることにした。
「この焼き飯は本当に美味いな、キウィリウス……盾蟹の風味がよく米に染みていて、噛むごとに……こう、じわっと」
「もっとお召し上がりになられては如何ですかな、陛下」
「うむ、幾らでも入るぞ」
料理について言及する度に、キウィリウスは柔らかな笑みを浮かべて大皿を僅かばかり持ち上げてみせるから、皇帝にとってはたまらない。
「牛の尾の肉とはこんなにも味わい深いものであったか……」
「火魔石を贅沢に使って長時間煮込んだものになります故」
宰相はあまり食が進んでいないようだったが、その目の奥に、先程までちらついていた哀しみや疲労などは見当たらなかった。時折細められる目蓋の奥は優しく包み込むような深緑で、生きとし生けるもの全てを見守りながら始原の森に佇む巨木を思わせる。何処かで見たことがあるような気がした。
「米麺のぱりぱりした食感の後にゼリー寄せの歯応えと感触は堪らないな……風味もさっぱりとしていてそれでいて甘い、あと三つはいけそうだ」
「……陛下は大層な健啖家でいらっしゃる」
勧められるまま、思いのままに、スプーンとフォークをしゃぶり尽くす勢いでイークはその場の料理を平らげた。ふう、と息をついて食後のワインを楽しむ瞬間が最高に心地良い、酒精と葡萄の風味が鼻と喉に拡がった時、彼は何十年も生きてきた大人の男として存在しているような気持ちになるのだ。
「アスヴォン産の最高級、辛口だな、私は甘いよりも此方がより好みだ……香りと渋みの調和が奥行きを出している、何だか立体的な舌触りだ」
「仰る通り、シヴォン政府との会談の折に手土産として持ち帰ったものでございますぞ」
「通りで……これを味わった者は皆幸せになるだろうと思えるな、時に、キウィリウスは良い葡萄の育て方は分かるか?」
イークは酒のせいでいささか大胆な気分になっていた。
「私には想像もつかぬことではございますが、その方法を学ぶことは可能だと考えております、それを自国で活かすことも可能でしょう」
「ふむ、成程」
キウィリウスは国の建て直しと発展のことを常に考えているらしい。周辺国から様々な技術を取り入れて帝国内で展開することによって、雇用安定に向けての改善策を練っているようだ。
「私にも想像はつかぬが、良い葡萄はその土地のその農家でないと作ることが出来ぬ、と思うのだ、どうだろう?」
「シルディアナでは葡萄が実を結ばぬと?」
「実を結んでも酸っぱい葡萄であれば、それを誰が欲しがるだろう? 私は最適な者に任せて、後は財を惜しまず、投資しようと思う」
「財がなければどうするのです?」
宰相の目が、何だか面白そうなものを発見したとでも言いたげに光っている。
「働くしかなかろう……しかし、私なら人々に治癒を施すことも可能だろうが、市民のように身体を動かしたりして働いたことがない故か、精々足手纏いであろうなあ……良い葡萄への道は遠い」
「陛下には財がおありではないですかな?」
イークは思わず苦笑いを零した。
「否、私のものではない、帝国のものだ……そして、管理しているのも私ではない、そなたではないか、キウィリウス……その上、何もしていない私が小遣いまで頂戴しているのだ、後はどうせ知っているであろう」
サフィルスがちらりとこちらを向いたような気配がした。きっと非難がましい視線を向けたくて仕方がないに違いない、それだけは何となくイークもわかる。
キウィリウスが眉を上げて、おどけたような表情を見せた。
「葡萄の味もいつの間にか、何処で覚えられたのやら」
「宮殿だぞ?」
「最高級のものが集まる中で、最高級だ、と何故お分かりになるのです」
墓穴である。イークはあまり気にせず、微笑むに留めた。近衛騎士の吐く息がやけに大きく聞こえたような気がしたが、彼は気のせいだと信じたい。
いずれにせよ、愚という評価はつくかもしれないが、人としての印象は悪い方には取られていないだろう。自身の立場にとって利であるか害であるかよりも、イークはキウィリウスが時折素の表情を見せることを、何より嬉しいと感じた。乗せられているのは自分かもしれないが、心地よいという状態は誰もが求めるものである。
「とにかく、私はこの風味が気に入ったぞ、キウィリウス……それから、良き働きをしてくれた」
「陛下と同じ年月を重ねてきたワインだからこそ、お気に召したのやもしれませんな」
「ほう、まことか」
ふわりと浮いたような気分の中で、イークは嬉しくなった。口角が自然と上がる。
「それはいいことを聞いた」
その時、宰相の笑顔に影が差した。伏せられた瞳は誰の方も向いていない。
「……キウィリウス?」
呼べば、キウィリウスはふっと顔を上げて、寂しそうな笑顔を見せた。
「陛下と同じ年になる娘がいました」
イークは黙り込んだ。こういう時にどういう風に返したらよいのかわからない。わからないから、彼はラナに対してそうしたように、相手に触れようとして手を伸ばそうとした。だが、机のちょうど向こう側にいるその人は、遠い。
思わず上がってしまった手をぐっと握り込むと、喉の奥で柔らかく笑う声が、諦めた方角から聞こえてくる。
「……笑い事ではないだろう、キウィリウス」
「……いえ」
むっとして返せば、宰相は視界に入るもの全てを慈しむように目を細めた。
「食事の前は少しばかり部屋を冷やしすぎたように思いましたが、今はちょうどよい具合ですな」
「……だが、この机はちと大きすぎるな、私がまた来るまでに調整するとよい」
「そう致しましょう、陛下……お心遣いに感謝致します」
二人は互いに微笑み合った。
「はっきり申し上げますと、事情があって、妻が娘を連れて出て行ったのです、私も了承済みですよ……何ももう会えぬ、というわけではありません」
「ならば、よかった」
イークは安堵の息をついた。ついた時だった。
「その筈であったのですが」
キウィリウスの声が一瞬で平坦になる。
「……筈、とは」
「どうやら、先日のアルジョスタの摘発に巻き込まれたようで、行方が掴めません」
それからイークは思い出す、娘が消えたという話は今日サフィルスが持ってきた知らせだ。知っていた筈だった、何故今まで飛んでいたのだろうか? 相手方を探ることばかり考えてはいなかったか? 自分のことばかりで周囲の者のことを忘れてはいなかったか? それで、よくも皇帝としての力を取り戻そうと思ったものだ。自覚した瞬間、彼は、やけにはっきり聞こえてくる自身の鼓動の音を、苦しいと感じた。
捜させてはいるのですがね、という宰相の言葉が空虚に響いた。ワインの苦みがイークの舌の奥にしつこくこびり付いてくる。味など既にわからなくなっていた。
そうして、キウィリウスはこんなことを言うのだ。
「心優しい陛下に、私の娘を今こそ娶って頂きたかったと思いますな」
その声は皮肉という名の毒をほんの僅かに含んでいた。ほぼ本心であろうということだけは読み取れたが、イークは別のことに気付いてしまった。
痛みを堪えた笑顔が誰かと重なって見える。イークは同じ瞳の色を見たことがある、と明確に思い出した。まさか、とは口にしない。蔓の文様を見たことがある、細腕に光る鋼の腕輪は翠の色。彼は自分に向かって念ずる、声を出してはいけない。南街区、竜の角、深緑の目の少女。その代わりに唇が紡ぐのは別の言葉。
「……名は、何と?」
「ラレーナ、という名でした」
知ったところで、取り戻し方などこれっぽっちも知らないのだから。
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