8

「……キウィリウスの娘が消えた、と?」


 難しい顔をして頷くサフィルスの前で、イークが思わず唸り声を漏らした。


 シルディアナ帝国内の現在の政治を取り仕切っているのは、皇帝ではなく宰相である。その娘との繋がりを得ることが出来れば、周囲の行動を探りながら己の意向を少しずつ通していくことが出来るだろう、と彼は考えていたが、そう甘くなかったらしい。


「シーカを動かしますか?」


 サフィルスの提案に、イークは首を振った。


「……いや、あやつに頼むとなれば、その部下にも事が伝わる、何かを察する者も必ずいるだろうな……妨害も有り得る、調査はなしだ、ステラ宮も例外ではない」


「……そうですか、では、私の知己に頼るのも控えておきましょう」


 サフィルスは皇帝の言わんとすることを即座に察した。近衛騎士はしかし、「竜の角」の給仕の女子の行方を追うことが出来なくなった上に婚約者の失踪を知らされた自身の主人が、思っていたよりも気落ちしている表情ではないことに気付いた――表に出していないだけかもしれないが。


「うむ……弱ったな、私が自分の足で行くしかあるまい」


 腕を組んで彼はそんなことを言った。イークライト自身、色々な格好をしてありとあらゆる場所に行くのは嫌いではない。寧ろ興味が尽きずに自ら突進していく性格であるが故にサフィルスは散々サヴォラごと振り回されてきたし、正体を何となく察してしまった人々に生温い目で見られたことも一回や二回どころではなかった。当の皇帝は、己が何であるかを上手く隠せていると思っているらしいが。


「……差し出がましいようですが、陛下の変装は危ういと私は思っております」


「なんだって」


「外見は隠せても育ちは隠せません」


 取って付けたように、高貴ですからね、と添えるサフィルスを軽く睨んで、イークは返した。


「そなただって動き辛いだろう、近衛というのも便利なようで不便であるな……三男とてランケイアの息子だろう、貴族のしがらみを持たぬ市民出身の側近や近衛など、おらぬし」


「市民出の兵卒であったなら、陛下と出会うこともなかったでしょうけれどね……で、今回は何処へ行かれるのです?」


「そなた、私のことが大好きだろう、サフィ」


 サフィルスに向かって皮肉を言ったつもりが、当の本人から真っ直ぐな答えを返されて、イークは呆れると同時に笑ってしまった。


「役目以上に、陛下の御力になりたいと常に考えております故」


「そうか、何よりだ……取り調べ人の服はまだ手放していないな?」


 近衛騎士は頷いた。


「ええ、陛下の部屋、衣装部屋に、私の分と合わせて残してあります……こうなると思っていましたからね」


 近い将来、この近衛騎士の若者によって皇帝の居室に取り置かれる服の量は相当な数になるであろうことが容易に予想出来る。それも皇帝本人の衣装などではなく、官僚や役人の制服である。衣装室にある服飾全てが何らかの財産として民衆に向けて公開される日が来るかもしれないし、そうなった暁には後世の人々からは制服、しかも男性のものに対して並々ならぬ情熱を示した奇特な皇帝である、などと評価されそうな気もするが、そのような己の評価に関することは自身の働きによって幾らでも変わるだろう、とイークはぼんやり考えた。自身が何の為に服を集めているのかまだ見失ってはいないし、結果として収集に繋がっているだけである。決してそういう趣味ではない。


 などと、余計なことにすぐ意識が行くのは彼の悪癖でもあるが、結果として広い視点を持つ切欠にもなるので、美点ともいえる。


「時にな、サフィ、私は大怪盗とやらを見てみたいのだ」


「……は?」




 突拍子もないことを言い出すのは権力者の常と言えるだろう。古今東西、全ての時代に存在した裕福な彼らは、皆が皆、戯れでそのようなことを言い出したとは限らないだろうが、本当に戯れである可能性だって存在する。ただ、半分は戯れであったとしても、為政者ならば、様々なものに意味を見出すぐらいのことは出来て当然だ。いずれにせよ、秘された皇帝の気晴らしに大怪盗の痕跡を追う、などというもっともな理由をぶら下げることは非常に簡単である。イークは真の目的をサフィルスやシーカにすら秘することにした。


「何、色々なところに忍ぶにあたって、その手口を少しでも見習いたいと思ったのだ」


「それに、たまには息抜きも必要であろう?」


 というように、適当なことを並べ立て、皇帝は近衛騎士にキウィリウス家への立ち入り許可を取り付けさせた。取り調べ人の服の所在については確認するだけで終わり、それは非公式の慰問という形で実現したのだ。寧ろ、此方の方が都合がいいとさえ言える。


 当のサフィルスはどこか気が抜けて安心したような表情をしていたが、真意は別のところにある。


 シルディアナ放送だ。彼はそれを見た。


 アルジョスタの摘発と、キウィリウス家の至宝の盗難。奇しくも同じ日にそれらは実行された。大怪盗は一斉摘発の際の混乱を狙ったのであろうと思われるが、イークは、それを偶然の一致としてはいけないような気がしていた。それに続いたラナの失踪と、キウィリウス家の一人娘の失踪。既に答えであるような気がしているが、確定事項ではなく、彼の予想の段階である。予想どころか、妄想と言っても差し支えない程度だ。


 キウィリウス家にその痕跡が残っているのではないか。痕跡はなくとも、何か思考の手助けになるものがありはしないか。どんな小さなことでも見逃したくはなかった。


 そして、これは政治的にも大きな意味を持つだろう。秘されているとはいえ、皇帝がキウィリウスの邸宅へ向かうのだ。娘の失踪によってその縁が切れるのか、はたまた娘の捜索の為に共闘することによって関係が深まるのか。グナエウス・キウィリウス本人の心中は分からないが、イークライト・シルダ第五代シルディアナ帝国皇帝が何かを考えている、ということぐらいは察しているだろう。経験の浅いイークと違って彼は長年シルディアナの政治に携わってきた宰相であるから、彼のような若者の考えることなどお見通しに違いない。何の為に来訪するのか、という見当も、おそらく既についているだろう。そのことを踏まえて行かねばならない。


 シルディアナ放送だ。キウィリウス家の間取りの中にあった蔓の模様が、彼の頭の隅にちらついて仕方がないのである。


「では、参ろうか」


 今回のキウィリウス邸への訪問は、非公式の慰問という扱いである。イークは鮮やかな色を身に付けるのを避けた。暗緑色の胴着に竜頭の留め具、彩度の低い薄緑の羽織はすとんと落ちる膝丈だ。普段宮殿にいる時に下半身に巻き付けている踝丈の装飾布の着用は避け、草臥れていない七分丈の枯れ草色をしたズボンと比較的新しく踵が擦り切れていない編み上げサンダルを、手持ちの中からサフィルスと共に相談して選んだ。布類は全て、大陸では最高級とされる森林蜘蛛絹で、裾には金糸で刺繍が施されている。


 今日の移動は個人竜車である。護衛はサフィルスの他に近衛騎士が後二人ついてきていた。サフィルスに向かって何とも言い表し難い視線を向けている二人は、貴族の子息らしく上手く私情を隠してはいるが、尻の筋肉が何処か居心地が悪そうに動いているようにイークには思えた。ランケイアの息子ばかりと付き合いすぎたかもしれない。そういう感覚の調整も行いたいところではあるが、如何せんサフィルス以外の近衛騎士にどう思われているかが分からない上に、イーク自身も信頼を預けられるという確固たる自信がなかった。そういうものは本来時間を掛けて築き上げていくものではあるが、若き皇帝にはその時間があまりない。秘されているが故に様々な関係性を作るのが難しかったというのも原因の一つではあったが、幾らでも動きようはあった筈だ。もっと早くに気付いていればよかったものを、などと思えど、過ぎてしまった時は戻せないので、これからの動きに全てかかっている。イークはキウィリウス邸への道すがら、ごとごと揺れる竜車に身を預けながら、そのようなことをずっと考えていた。


 本日の帝都シルディアナの天気はくすんだ空の晴れである。北街区、清廉な白の建材で外観を整えられているキウィリウス邸は薄青によく映えていた。


 シルディアナ人は屋外で出迎えをしない。シルディアナの人に限らず大陸中央部の人々は皆がそうだ。理由は単純で、外でやると暑さで倒れる者が出てくる為である。しんと静まり返った玄関を客が開けて中に入っていくのは普通であるし、これからもそうだろう。その代わり、一歩でも中に入れば、たちまち邸宅の主人や使いの者、荷物を預かる者、おつきの術士などが一斉にその右手を彼ら自身の左肩に掛ける挨拶をしてくれる。


 キウィリウス邸も例には漏れず、宰相グナエウス・キウィリウスその人が落ち着いた笑みを浮かべて右手を左肩に掛けながら頭を下げ、優雅な会釈をくれた。少し遅れてイークも同じように返す。


 イオクス材のような色の短い髪は後頭部へ向かって撫でつけられ、深緑の双眸は底を感じさせないが、消して昏きに沈んでいるわけではない。鼻筋は高く通っており、呼吸音の大きそうながっしりした小鼻の造りをしている。笑みを浮かべている大きな口元には年季の入った皺が刻まれていた。額や眼窩にも同じように皺が刻まれているが、決して年寄りというわけではなく、まだ四十代半ばである筈だ。成程、イークと同じ年齢の子がいてもおかしくない。召し物はイークと同じ森林蜘蛛絹の製であったが、色は目に鮮やかな若葉色を基調としており、金糸はキウィリウス家特有の優雅な草木や蔓の文様と、何故かスピトを描いていた。


「壁と屋根の用意に感謝する」


「セザーニアの加護を賜っております」


 挨拶は至極手短に。


「我が邸宅を案内致しましょう、陛下」


 キウィリウスとイークが横に並ぶと、その数歩前に一人ずつ近衛騎士と邸宅の術士が、すぐ後ろにサフィルスと邸宅の騎士が並んだ。護衛である。近衛の最後の一人と邸宅の使いの者は玄関に控えることとなっている。


 客を招くシルディアナ貴族は、邸宅を隅々まで必ず案内するのが古くからの習わしだ。イークの今日の狙いはこれだった。何度かイークも訪れたことがあるのだが、キウィリウス邸にある調度品は全て白い大理石を基調としたもので、純金の草木文様がその端を見事に彩っている。何度か来た時にも感じていたし、今日この日にも改めて感じるのだが、皇帝が一見して素晴らしいと断言したいのは、玄関にある竜の像とその台座だ。磨かれて光り輝いてはいるが、壮麗な肉食竜を模った彫刻は帝政期から此方、殆ど作られていない。あったとしても人の身長よりは小さく、目の前にある像のように写実的で精巧な彫りではない。


 まるで今にも動き出して語り掛けてきそうな、白い竜。宮殿の剣の間にも一体存在している。


「見事だな、帝政に入る前のものか?」


「仰る通り、ステラ宮に存在する彫刻と同じ技師が掘ったと伝わっております……陛下のご来訪が決まった折より、お気に召されるであろうと考えておりました」


 ばれている、とイークは気付いた。ステラ宮へ忍んだことが。


 キウィリウスは優雅な笑みを全く崩さない。今になって召し物に縁取られたスピトの文様が脅しだということがわかった若き皇帝は、既に相手の術中に嵌まっていたことを悟った。


 アーフェルズとの邂逅を見られていないと何故思っていた?


「しかし、そなたも災難であったな、キウィリウス……他ならぬ私にとってはこの白き竜の像こそ真に宝だと思えるが、大怪盗にとっては違ったらしい、奴は知識もなければ趣もない者に違いない」


 ならばその術中でどのように足掻くかである。イークが返すと、宰相の笑みが僅かに深くなった。口角には先程よりも力が入っている。


 白竜とはシルディアナの象徴である。黒い竜の指輪を受け取ってしまってはいたが、イークは自分が裏切り者ではないことを主張しておいた。帝国の正しい道を目指すという信念における点では、彼は何も間違ってはいない。


「お気遣いなく、イークライト・シルダ第五代シルディアナ帝国皇帝陛下……私事にございます故……客間にご案内致しましょう」


 この間。キウィリウスは、どうやら相当堪えているらしい。途端に腹の底から同情が湧いてきたが、頭の隅から警戒せよと語り掛けてくる声があったので、イークは目を細めるのみに留めた。


 客間は玄関のすぐ右側にある扉を開いた先に存在した。先日のシルディアナ放送に映されていた場所であるが、玄関の竜と同じ大理石の調度品が並んでおり、金色の草木文様が布や金属、陶器の端で踊っている。シルダ家から以前贈ったのであろう、ロウゼルと竜の紋をあしらった飾り盾や槍の柄なども白の陶器を邪魔しない高さで壁に掛けられており、並びの秀逸さも窺えた。


 その隙間を縫うように見える織物の縁に、おおよそ帝都らしくない文様を目にして、イークは声を上げることにした。


「この品は美しいな、触れてもよいか?」


 グナエウス・キウィリウスの瞳が大きく揺れる。イークが手を差し伸べたその縁には淡緑の蔓が波打っていた。

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