7
休日だ。働く人々と同じ周期で、シルディアナの学舎のそれも四日に一度やってくる。
ティルクが食料や日用品を携えて、ラナの部屋を訪れている。今日は何と、女性が同伴していた。紹介を受けて、曰く、同僚らしい。名はエレミア、太陽色の薄金をした髪は真っ直ぐ背中に流れ、吊り気味の目は深い青だ。誰かに似ているような気がする、とラナは思ったが、誰なのかは思い出せない。
お茶を淹れてきますわね、という丁寧な一言を、もてなそうとして立ち上がりかけたラナの前に残して、エレミアは部屋に備え付けてある調理場へあっという間に入ってしまった。部屋の主がもてなさねばならない、というのが帝都流のもてなしなのだが、エイニャルンでは拘らないのだろうか、それともエレミアにお茶を淹れる時の拘りがあるのか。
「どうだ、エイニャルンの学舎は」
ティルクはそう訊いてきた。時折、ロウゼル茶を淹れているエレミアの方をちらちら窺っているのは、彼が色々な感情をその人に対して抱いているからではないか、とラナは思う。例えば、彼女自身がイークのことを考える時のような。それに思い当たった時、うっかり赤面して、体調が良くないのかと心配されたが、それに対しては首を振って誤魔化した。
「どこも悪くないよ、平気……学舎は、魔石工学は一通り全部終わらせていたから、大丈夫」
「帝都で、か」
「うん」
「騎士課程は上手くいっているか?」
ラナは頷く。エイニャルンに来て二十日が経過していた。教官直々の指導は大きい。それに加え、アルデンスという経験者による“訓練を流す”助言もあった。
赤毛の再受講生は剣使いの動きには相当慣れているようであったし、その上、素早い身のこなしについても心得ているようだ。教官の指導にアルデンスの力添えも加わり、彼女は何とか食らい付いていくことが出来ていた。
「うん、再受講に一人だけ混じったからかな、教官が直々に教えてくれる」
「それはいい、慣れたか?」
「今は、結構慣れたかも、うん」
魔石工学を先行していたおかげでラナは訓練のみに注力することが出来る。講義中の女子生徒との手合わせでは毎回負けていたが、容赦のない攻撃に耐える時間が少しずつ伸び、木剣をかわす回数もだんだん増えてきていた。
「そうか」
ティルクは安心したように微笑んだ。エレミアがカップを三つ、盆にのせて運んでくる。先程から鼻腔を擽るのはロウゼル茶の香りと小麦の焼き菓子に練り込まれた砂薔薇の香りだ。ロウゼルも砂薔薇も緊張を解して落ち着かせてくれるものである。
「ゆっくりお茶でもしながらお話し致しましょう、はい、どうぞ」
「有難うございます、エレミアさん」
「あら、そんなに丁寧でなくても宜しいのよ、エレミア、だけで構いませんわ」
エレミアの所作や言葉はとても優雅で、上流階級育ちの者特有の美しさが滲み出ている……取り立てて隠そうともしていない。もしかしたらこの人は何処かの貴族だったのだろうか、などと、ラナはぼんやり思った。
「困った奴などはいないか、ラナ」
「いないかな、今は」
「言い寄られて鬱陶しい、此方に危害を加えてくる、みたいなことがあれば、俺を呼ぶといい……そうすれば、エイニャルンの大体の奴が黙る」
そう言いながら心持ち背筋を伸ばして胸を張ったティルクに向かって、エレミアが笑う。
「それはちょっと過保護ではなくて、ティルク?」
「家族を悪意から守るのは当然のことだろう」
腕を組む動作が滑稽に思えて、ラナは思わず笑った。不服そうな視線が返ってくるが、全く怖くない。
「俺は真面目に言っているんだぞ」
「ううん、頼もしいなって、安心した」
被せてありがとう、と言うと、ティルクは柔らかく微笑んだ。苦労の窺える厳しい顔立ちではあるが、嬉しそうにしていると親しみを覚える。何より、共に過ごした時間が短かった筈のラナに対しても、彼は親切だ……彼女自身は微かな記憶しか持ち合わせていないのに。
酒場「竜の角」に住む前、自身は一体どのような生活をしていたのだろう、と、彼女が疑問に思って口を開こうとした時だ。転じて上機嫌になったおじが、何かを思い出したように手を打った。
「そうだ、ラナ」
「何?」
「良いものを持ってきた、ちょっと待っていろ」
ティルクが立ち上がって背を向け、扉を開け、そのまま部屋の外へ出て行く。開け放されたそれを閉めようとエレミアが立ち上がった時、声だけが飛んできた。
「その扉を閉めるなよ、エレミア、俺一人じゃ運ぶので精一杯だからな!」
何かの梱包がごそごそと擦れたり軽く落ちたりする音と悪態が混じって扉の中まで聞こえてくる。エレミアは肩を竦めて座り直した。
「わたくしの手助けもいらぬ癖に、苛々する程自信がおありのようですわね、ティルクは」
「……エレミアは、よくティルクを手伝うの?」
ラナが問えば、エレミアはおどけた表情をちらりと見せてから、咲き誇る花のような笑みを見せる。海色の双眸がきらりと悪戯っぽく煌めいた。
「頼られてばっかり、ですわ……今に見てごらんなさい」
まさにその瞬間だった。
「エレミア、すまん、角一つで構わんから手伝ってくれ」
「ほうら、ね」
呼ばれたその人はさっと立ち上がって行ってしまった。少し考えれば自分が立って手伝いに行くべきだった、とラナは気付いたが、時は既に遅く。ティルクとエレミアが机程もある大きさの梱包された荷物を運び込んできた……側面は薄い、本当に机だろうか?
ラナは立ち上がった。
「ごめんなさい、私が手伝えばよかった」
「いや、いいんだ、……貰う立場の奴に手伝わせてどうする、と思ったが、まあいい」
彼自身の掛け声でそっと土の床に下ろされたその荷物を軽く叩き、ティルクは頷く。
「よし、ラナ、梱包を解くのを手伝え、短剣を貸してやろう」
比較的狭い場所、それも人がいる状態での短剣の扱いは、まだ彼女にとっては難しい。梱包の紐はフェークライト鋼の至極細い繊維を織り込まれた形状記憶型の金属糸で、解けないような工夫がなされている。帝都でもまだ見たことがないような技術だ。
「金属紐は人の手では解けんからな、刃物しかあるまい」
そう言いながらフェークライト鋼の短剣を手に金属紐の切り方を解説するティルクに向かって、エレミアは豊かな胸を張ってみせるのだ。
「あら、ここに優秀な水使いがいることを忘れて貰っては困りますわよ、ティルク?」
艶やかな唇が〈水精霊の思し召しの下に我が手に力を与えたまえ〉と祝詞を唱えた。彼女が両手を胸の前で構えると、手と手の間に小さな水流が生まれ、渦の中に精霊が三体明滅する。そこからエレミアは更に〈我が掌のみにおいて疾く駆けよ〉と付け加えた。
「助かる、水の刃か」
「無詠唱で指の間だと刃の強度が足りませんわね……それ程の金属糸などを使う贈り物など、貴方は一体何を運んでおいでになったのかしら、ティルク?」
「開ければわかる」
エレミアの手の中では、小さくも激しい流れが右から左へと水の刃を形成している。彼女が手の構えをそのままにして腕を伸ばし、その水が金属紐を通過した瞬間、ぶつんと大きな音を立ててフェークライト鋼繊維が切れ、梱包が緩んだ。
「術って便利」
ラナは呟いた。自身も、何でもよいから術が使えれば良いのにと思ったことは何度もある。サヴォラに乗るのであれば風の力を持って生まれてくることが出来れば、と考えたこともあった。就職の間口も広い。魔石生産も出来る、そしてそれを職とすることで、働きに外へ出ずとも在宅職としてある程度生計を立てることも可能だ……非常に安価な給料ではあるが、何らかの属性が宿る者には帝国の生活保障も必ずついてくるので、行き倒れになることはない。「竜の角」にもよく来ていた、日雇いの属性なしの下層民に比べれば。
「あら、でも使えるからこそ不便なこともありますわ」
「就職の幅は広がるし、帝国の生活保障が貰えたりするのは羨ましいと思うけれど」
「ラナ、貴女は、術の力が目に見えて減るものではないことはご存知?」
ラナ自身は術が使えないので、首を傾げるしかない。エレミアが言うには、術使いしか知り得ない感覚だそうだ。梱包のことはティルクに放り投げて、その人は話を続けた。
「疲れますわよ、気力がごっそり持っていかれるような感覚かしら……まあ、今お見せしたような水の刃は造作もないことですわ」
「もっと大掛かりな術を使う時があったの?」
「ええ、水の刃を巨大化させて運用する、大量の水を呼ぶ……などをした暁には、それはもう、その後はそこから一歩も動きたくなくなる程度の気分には……術の使い過ぎで気絶した殿方を拝見したこともありますわ」
術は、基本的に本人の気力や集中力、それを鍛えることが出来た本人の生育環境次第である、と、エレミア。
「就職の間口が広くなりはするけれど、その人の力次第ってことなのね」
「そうですわね、中には術を使えない者と大差ない、という事例もございましてよ」
日雇いの仕事に就いている者の中にも、ひょっとしたらあまり術を使えない術使いという存在がいるかもしれない。そんなことをラナが考えた時には、ティルクが梱包の金属紐全てを短剣で断ち終えて、一番大きな面を覆う木の蓋を開けていた。
「開いたぞ、ラナ、見てみろ」
朗らかな声でおじが呼ぶ。木箱の中には、長辺が一メトラムもある平面映像機が入っていた。映像を映すグランス鋼の黒い板の部分は傷ひとつなく磨き上げられている。魔石動力と魔石供給口はグランス鋼の板の裏だろう。「竜の角」の壁にかけられていた平面映像機とは違って、下部には平らな場所に設置する為の足が付いていた。
「……平面映像機?」
「そうだ、帝都からの送魔動力配管の供給口に繋げてもいいけどな、スピトレミア産だからな、光魔石が一つあれば、シルディアナ放送が一刻ぶん見られるようになるぞ」
見てみるか、と得意げに言いながら、ティルクは一人で平面映像機を軽々と抱え上げ、棚の上にそれを置き、腰に付けている革の道具入れから光魔石を一個出して供給口の蓋を開け、投入した。
「設置するのに手間が必要ないものにしておいたぞ、足つきはいい、安定するからな」
平面映像機の裏に取り付けられた魔石動力がヴン、と音を立て、板が光を帯びた。そこに映るのはシルディアナ宮殿の一角、大人しい色合いのローブを羽織った女性が日報を読みあげていた――シルディアナ放送局、今日の報道だ。
「――帝都に現れた自称“大怪盗”は“今月の二十日目にキウィリウス家の至宝を頂戴する”などといった内容の予告状をキウィリウス家の客間に残しており、この二十日目の夜間は、アルジョスタの一斉摘発が行われた日にあたります――」
シルディアナ放送はまたしても『自称大怪盗』に関することを伝えている。
と、ティルクとエレミアが揃って大きな溜め息をついた。ラナが見れば、ティルクはあからさまに渋い表情をしている。エレミアは先程と変わらない。
「帝国軍は取り調べ人と協力して捜査にあたっており、摘発との関連性を調査するとともに、予告状からの残存術力の検出に努め――」
平面映像機の画面が宮殿の一角からキウィリウス家の客間に変わる。整えられた調度品は全て品のある美しい白を基調としており、金色の草木文様が布や金属、陶器の端で踊っている。中には皇族の象徴であるロウゼルと竜の紋をあしらわれた品すらもあった、これはシルダ家と縁の深い証だ。幾つかの品には、蔓をかたどった模様が波打つように淡い緑を描いている。金色を使わないところが、帝都らしくない。
予告状が残されていたのは、ちょうど淡緑の蔓模様が施された美しい壺の蓋の上だそうだ。
ふと、ラナは妙な既視感を覚えた。彼女は、蔓の模様に見覚えがある。
「……全く」
と、ティルクが吐き捨てるように言った。
その蒼穹を思わせる双眸は平面映像機を睨みつけている。光を放つ板の向こうに仇敵が存在しており、殺してやりたいとでも言いたげな表情だった。そして彼がちらりと視線をやるのは、ラナの手元だ。
彼女は思わず自身の手を見下ろした。そこには、今日も母の形見の腕輪が、ある。
そしてそれは、キウィリウス家の客間に存在する調度品と同じ、淡い緑の蔓模様を描いていた。
「……ねえ、ティルク」
「……どうした」
「母さんのこと、知っているよね」
ラナが顔を上げると、ティルクと目が合った。彼の表情は依然として硬いままである。先程の明るさをすっかり失くした声が、真っ直ぐに彼女を射抜いた。
「……何が聞きたい」
触れてはいけないものに触れてしまったような気がして、彼女は首を振る。
「……ううん、いい」
「……いいのか、俺は構わんぞ」
「また今度、にして」
ラナがそう言って微笑むと、ティルクの表情が少し緩んだ。気を使わなくていい、とおじは言うだろう、だが、彼女自身、家族にそんな表情をさせたいわけではない。
ティルクが何かを感じ取ったのだろう、微笑んだ。
「わかった、また今度、必ず言う」
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