6


 端的に言うと、大丈夫ではなかった。


 持久力を鍛える為に半刻程走る、というのが騎士課程の最初の課題である。日常生活において走ることがあまりなかったラナは、他の騎士課程専攻の生徒達の後ろを、周回遅れで喘ぎながら走っていた。着替え用の部屋で上着を脱いで、上半身は胴着のみ、下半身は太腿を全て晒す短いズボン、装飾品は全て外すという規則があるため腕輪を外して保管、現在は軽装である。訓練を担当する教授曰く、訓練が進めば装備を背負って走ることになる、とのことであるが。


 開始してから四半刻、既に息は上がっている。残り時間はあと半分、足が痛い。一周早く前を走っている男子生徒の足や腕は太く引き締まっており、女子生徒はしなやかな筋肉で軽く追い越していく。おまけに屋外は直射日光がさんさんと降り注ぐ昼七の刻である。


 彼女は後悔していた。自分は何故アルデンスに向かって大丈夫だなどと啖呵を切ったのだろう。


 だが、ラナは頭を振って歯を食い縛った。ここで止まるわけにはいかない。


 強くなると決めたのは自分である。


 遅くても構わないから最後まで走り続けることが第一目標だ、速度はこれから徐々につけていけばよい。何処か他人事のように頭の隅で考えながら、既に飽きてしまったスピトレミアの荒涼とした景色に点在するスピトの数を数える……足は止めない。


 この程度で止まるわけにはいかない。


「おい、大丈夫か?」


 足音とともに声が向かってきた。ちらりと左を見やればアルデンスである。全く息が上がっておらず、本気で走っていないであろう、ゆるい表情と、有り難い筈の優しい気遣いが非常に腹立たしいことこの上ない。ラナは無視した。ここで苛立ちを出して体力を消費したくない。


「歩いても特に何も言われないぞ、騎士課程初心者だろ」


 だからこそ負けたくないのだ、と彼女は思うのだ。だが言葉にはしなかった。


「教授だって俺だって皆だって知っているからな、こうやって喋っていても大丈夫だから、もう少し気楽にいこうぜ」


 その喋る余裕がないのだから、物理的に返事は不可能である。


「なあ、ラナ」


「大丈夫」


 他人事のように、名前を呼ばれたな、などと思った。


 大丈夫、とは至極便利な言葉であるとラナは考える。帝都に暮らしていた頃は、此方の身体や精神の状態はどうであれ “一人にしておいてくれ”という意味合いを含むことも、時によってはあった。だがしかしスピトレミアでは違うらしい。大丈夫、という言葉は“助けてくれ”という意味合いを含んでいるようだ。現に、アルデンスはずっと彼女に並走する状態で話し掛けてくる。


 ラナは面倒な存在を引き離そうと、顎を引いて前傾姿勢を取ろうとした。


「おいおい、前のめりになるな、余計に疲れるぞ……腰から上を立てろ」


 余計に疲れる、というアルデンスの言葉が首筋に刺さった。


 言われた通りにするのは癪だったが、出来ることならば楽になりたいという欲求の方が強かった。腰から上を立てる、というのがよくわからなかったが、取り敢えず彼女は先程よりも身体を起こしてみる。走りながら、というのが非常に辛い。


「身体は真っ直ぐだ、疲れたなら肩を動かしたり腕をちょっと垂らしたりしろよ」


 その通りにやってみると、少し体が解れたような気がした。相変わらず息は上がったままで苦しいことに変わりはないが。


 誰かが横にいるという安心感が、ラナにはとても心強く思える。


 魔石動力の拡声装置から終了の合図が聞こえるまで、アルデンスはずっとラナの横を並走していた。終わった、と止まろうとした彼女を止めさせなかったのも彼である。


「急に止まるなよ、心臓も止まるぞ、ゆっくり速度を落とせ」


 思えば、有り難いことこの上ない助言の数々である。言われた通りにしている自分に少し腹を立てながらラナは徐々に速度を落とし、集合場所の少し手前で歩行に切り替えた。


「俺は訓練も二週目だからな、何でも訊いてくれ」


「……大丈夫、有り難う」


「お前、そればっかりだな」


 何処か笑いの混じる呆れた声に、ほんの少しだけラナの心は軽くなった。


「……普通に感謝しているから」


「普通に、って何だよ、帝都流の照れ隠しか?」


「……別にそういうわけじゃない」


 ちらりと見れば、何処か生温かい微笑みが返ってきた。




 今までさして運動をしてこなかった者が、再受講とはいえ騎士課程を受講するのは、非常に困難を伴うものである。


「打ち込めっ、左、右、上、下、はい右、下、上、もっと速く!」


「はいっ」


「しっかり握れ、右、上、左、ぶれている、下、左、下、上、もっと腕を鍛えろ」


 彼女の相手をするのは騎士課程の教官である。スピトレミアの騎士階級だろう、三十を半ば超えたぐらいの男は、細身ではあるがしなやかな筋肉を纏った素早い人である。何に目をつけたのかは分からないが、騎士課程の訓練初心者であるラナを何としてでも鍛え上げなければならない、という使命に燃えているようだった。


 その結果が、つきっきりの指導である。


 教官直々の手ほどきを受けるのは良い。だがしかし、再受講の生徒同士で打ち合いをしている中で手取り足取り教えを受けているという光景は、端的に言って非常に目立つ。


「お前は経験が皆無なだけあって遅れているが、姿勢や筋は悪くない、根性もある、後はひたすら栄養を取ること、身体を運動に慣らして筋肉を増やすことだ……戦う型を決めるのはそれからだな」


 ラナはしょっちゅう奇異の目で見られるようになった。彼女の存在自体が再受講の女子生徒の間に奇妙な絆を生んだらしく、噂好きの女達が固まって寄越してくる値踏みするような視線とかち合うことが増えた。最初は何だろうと思いながら首を傾げたりして反応を誘ってみたが、何事もなかったかのように逸らされるばかりで、話す機会はやってこない。ラナ自身も、相手に用がないのであれば特に仲良くなる気もなかったので、話し掛けたりはしなかった。騎士見習いだろうと何だろうと女は女である。


 日々の魔石工学の講義の方は何ら問題ない。何かと話し掛けてくるようになったアルデンスに教えることによって、ラナもより一層魔石動力について理解出来るようになった。


「動力が浮遊する力を生むのは、風魔石を導入した時のみだっていうことか?」


「そう、基本的には……火魔石や水魔石の場合だったら、魔石から生み出されて魔力の逃げ道から噴き出る火や水が推進力になって、動力が魔力の逃げ道と反対方向に進む」


 手元にあるのは、自学自習用に作成された掌大の動力である。学舎の学生研究室には実験用の小型動力が幾つも置いてあり、自由に手に取って実験することが可能だ。サヴォラのそれとは違って、小さな立方体の一つの面のみに二つの魔力噴出孔が接合されており、下部には爪の先程の車輪がある。


 全ての講義が終わった後のことだ。二人は、他の生徒がいない学生研究室の真ん中で立っている。訓練のせいで疲れてはいるが、ラナとしてはアルデンスに世話になっているのだから己も協力するのが筋である。


 ラナが小さな起動釦を押すと、床に置いた火魔石の小型動力は高い音を立ててすぐさま起動する。ポン、といういささか間抜けな音を残して、それは家庭や飲食店の厨房に出現する黒虫よろしく走り始めた。二つの噴出口からは勢いよく蒸気が吹き出している。


「やっぱり、実際に見るとわかりやすいな……黒虫みたいで気持ち悪いけど」


 アルデンスは走る小型動力を眺めながら嫌なものを思い出した表情でそう言った。


「黒虫? 見たら焼けばいいよ、黒虫退治筒あるでしょ? あれで巣ごといけるよ」


「それ、売っているのは帝都だけだろ……あるのは知っているけどさ」


「こっち、ないんだね」


 黒虫退治筒とは、その名の通り不快な黒虫退治に特化した魔石動力製品で、指と同じくらいの太さに成型したシヴォライト鋼製の筒の根元に魔石動力があり、そこに火魔石を嵌め込む、という造りになっている。ラナも竜の角にいる時はよく使っていた。帝都においては、皇帝家の援助を受けたガヴァルス魔石動力研究所が開発して製品化しているのだが、スピトレミアには入ってきていないらしい。


「使うにしても、帝都の建物の石床なら水魔石で薄く塗装してあるらしいからいいけどさ、エイニャルンは床が土だから駄目だな、乾き過ぎて割れる」


「水魔石塗装はかなりいいよ、汚れがすぐ落ちるから」


「土に水も駄目だな、少しずつ削れるだろ」


「あの、魔石だからそんなことはないけど……」


「……言ったよな、動力系のことに関しては、俺に期待するなってさ」


 ラナが補足すると、彼は顔をしかめ、拗ねたように明後日の方向へと視線をやるのだった。


「大体、エイニャルン含めスピトレミアで水魔石は貴重だからな、床に使うなんて無理だよ」


「魔石加工はまだ簡単だから、これだけでも色々覚えておけば、工学の方にも応用出来ると思うけれど」


「俺、覚えるのは苦手、今更だし」


 だとしたらアルデンスは何が得意なのだろう。ラナは半ば呆れながら、火魔石が放出していた炎の力が尽きて停止した魔石動力をさっと拾い上げた。


「覚えるのも慣れだよ、慣れ……訓練と一緒」


「そう言えば、十日で少しずつ慣れてきたよな、お前……何か剣か格闘でもやっていたのか? そんな風には見えないけれどな」


 彼女にそんな経験は一切なかったが、胸元を弄られている気分になった。


 新しい仕事を習慣づけることは得意である。今までやっていた運動といえば色々なものを手に乗せて厨房と客席をせわしなく行ったり来たりする程度であったが、若しかしたらグラスや食器を大量に重ねて運ぶ動きのせいで平衡感覚は鍛えられていたかもしれない、などと、手の中の魔石動力を指の上で色々な方向にくるくる回転させて弄びながら、ラナは思った。


 じっと此方を見つめるアルデンスを一瞥し、彼女は答える。


「……強いて言うなら、給仕?」


「何だ、それ、忙しい食堂でもやっていたのか?」


「そんなところ」


「そんなら、学舎なんて行っている暇ないよな」


 なるほどなあ、とアルデンスは納得したように頷きながらラナの方に近付いてきて、彼女の手の中の魔石動力をひょいと取り上げた。


「何で騎士課程に来て頑張ろうと思った?」


 澄んだ青の双眸が様々な感情を乗せて射抜いてくる。


「何でまたそんなことを訊くの」


「単純に気になったから」


 男女の間に色々存在する機微など全て超えて直接斬り込んでくるその声から、逃げることが出来ない。訓練で少しずつ慣らされてきた彼女の足は、その場から走り出すことを諦めていた。


 そっと包み込んでくれた柔らかなイークの声がとても恋しい、とラナは思った。今すぐ会いたい、途方もない何かを秘めた翠玉の瞳に見つめられたい、穏やかで美しく微笑んで欲しい。そうしたら、今まで話せなかった夢の話だって、きっと打ち明けることが出来る。


「……誰のことを考えている?」


「……別に、誰も」


「……まあ、いいや、そいつの為なのかなって思ったけれど」


 しかし、強くなると誓ったのは他ならぬ自分の為だ。


 焦がれるものの為ではない、相手の言う誰かの為ではない、大切なものを守る為に。


 だが、自分にとって大切なものとは何だ? ラナは自問する。唯一の家族であるティルクには、寧ろ、守られている。見出して救ってくれたアーフェルズはそもそも、庇護者である。竜の角の従業員達は、あの晩サイアを救った竜騎士の手で既に何処かで保護されているだろう。イークの所までは、辿り着けるかどうかわからない。


 シルディアナが、遠い。泣きたくなる程の距離だ。彼女はアルデンスを睨みつけた。


「……わかったような風に言わないで」


 だが、返ってくるのは、ラナの精一杯の強がりを粉砕する、炎のような声だ。相手の赤い髪が燃えているかのように感じられる距離で、相手は囁いた。


「じゃあ、お前のことを教えてくれよ」


 俺は何もわかっちゃいないみたいだからな、と付け加えて、アルデンスは微笑む。


「……何の為に?」


「俺の為に」


 ラナは思わず一歩引いた。


「何で?」


「頑張っている奴が好きだからな、そういう奴を見かける度に力になりたいって思う」


 ……少しはその心に頼ってもいいのかもしれない、と、彼女は感じる。


 イークがそっと寄り添う存在であるのなら、アルデンスは真正面から照らす光のようだ。それは決して比べられない個人の差であるということにラナが気付き始める、それ程に、目の前の青年が見せる好意は何よりも純粋で真っ直ぐなものに思えた。


 直視出来ない。彼女は俯いて、一言だけ答えた。


「……そう」

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