18
「おう、お前も会食の衣装準備か」
「アルデンスも来るの、というか、行けるの?」
「行けるも何も、ほら」
ラナが思わず訊くと、アルデンスは顎で向こうを示してみせる。その先には何と、スピシアと、護衛に当たっているらしいエレミアがちょうど店の中に入ってきたところだった。二人とも胴着に羽織、長めのズボンといった軽装で、エレミアは二人分のラウァをベルトに引っ掛けている。彼女らもサヴォラに乗ってきたのだということがわかった。
「領主様は、卒業見込みのある奴をお呼びだからな、そういう自由な労いの会食だ」
娘もそりゃ来るだろ、と呟き、彼は顎を掻く。ラナの視線に気付いたスピシアが木立の中で何かの気配を察知した兎のようにぴくりと震え、次いでエレミアも気付いて、笑顔になって近付いてきた。
「あら、ラナ、お元気?」
「元気だよ、エレミア、久し振り」
「ティルクはいつも通りですわね」
水を向けられたティルクは肩を竦める。その表情がどことなく柔らかいことにラナは気付いた。
「調子が変わったら拙いだろう……護衛か、エレミア?」
エレミアは誘うように腕を出し、スピシアが恐る恐るこちらに向かって歩いてくるのを受け止めるように微笑む。
「ええ……スピシア様、もうご存知かもしれませんけれども、ティルクの姪御のラナですわ」
「……知っているわ」
草食竜の子が鳴くような高くてか細い声が飛んできた。スピシアは緊張した表情で俯いている。完全に出先で出会ってしまったのが予想外だと、彼女はその小柄な身体の細かい動きで表現していた。手が所在なげにあっちこっちへ動いている。
「スピシアもドレスを選びに来たの?」
ラナが話し掛けても頷くのみである。見かねたのだろう、エレミアが微笑みながらスピシアの背中を勇気付けるように押して、ドレスが並べられている方へといざなった。
「わたくしと一緒に選びましょう、スピシア様」
二人は店の手前の方へ戻っていく。ラナはそれを見ながら、さっき見た群青色のドレスがよく似合いそうな二人だなあ、と思った。
ティルクやエレミア、アーフェルズは、普段から領主の護衛任務に当たっている。スピトレミアの騎士階級の中でも最高位だ。ティルクは今日が休日だということで、訊けば、今はアーフェルズが領主の側に、エレミアが娘の側に、それぞれ任に当たっているらしい。そして、彼自身は今晩から明日の朝までの夜勤につくとのことだ。つまりずっと起きていることになるが、大丈夫か、と問えば、慣れている、と返ってくるのみである。
「心配するな、アーフェルズよりは耐久力があるとネーレンディウス様は仰っていた」
「ティルクが一番強いの?」
「……ちょっと悔しいが、剣の腕はアーフェルズが上だな」
何となく視線を感じてラナが振り返ると、アルデンスが興味深そうにこちらを見ていた。彼女が首を傾げると、おどけたように肩を竦めてみせる。
「いや、お前もいいところのお嬢様だったのかと思って」
「まあ、俺達の仕事が仕事なだけだ、スピトレミアはあまり貴族と平民の垣根がないから気にすることでもないだろう」
「ティルクさんも気安い感じですよね」
アルデンスとティルクが互いの機嫌を窺うように話し掛けるのを見て、ラナは少し面白いと思った。
「畏まらなくてもいいぞ、ラナと話すなら俺が幾らでも相手をしてやる」
「……護衛だったか」
「何なら訓練でもするか?」
ティルクがにやりと笑った。他愛のない話を始めた男性陣を残し、ラナは淡紅のドレスを手に取る。彼女としてはこっちの方が気になっているのだ。
「こっちのドレスも着てみるから、待っていてね」
彼女はそう言ってから試着の仕切りの中に引っ込んだ。外からエレミアの声が聞こえてきたから、スピシアも何か気になったものを見つけたのだろうか。すぐ隣で布を引く音がしたから、きっと今から試着するのだろう。
ラナは淡紅のドレスに触れる。今着たままの翠のドレスもそうだが、大型の森林蛾の幼虫が蛹になる時に吐き出す糸を織られて作られているのが、手触りで判った。成人男性の肘の先をまるごと伸ばした程度の大きさを誇る森林蛾の幼虫であるが、その糸は大きさの割に細く繊細で、ほんのりと土属性を帯びているらしく、植物の根や花で染色すると相性が良く、非常に鮮やかな色に染まる。この店のドレスはくすみのない翠や淡紅、群青が美しい。発着所から最も近く、尚且つ入り易い場所に店舗を構えているだけあって、品質も良いものを揃えているようだ。
翠のドレスを丁寧に脱いでなるべく皺にならないように置き、ラナはズボンに通しているベルトを落とし、ついでに靴下も脱いだ。このまま歩いて行くのであれば、着てきたものを全て脱いでしまった方がいいだろう。袋などを持っていないことに気付いたが、良い場所で商売をしている店がそういうおまけをつけてくれないわけがない、と彼女は思い直し、開き直ることにした。
淡紅のドレスも翠のドレスと構造は同じで、ラナの身体にぴったりだった。
「着たよ」
広げた胴着に脱いだ服を全部包んで手に持ってから試着の仕切りを除けると、ティルクは勿論、まだそこで喋っていたアルデンス、スピシアについてきて試着を待っているらしいエレミアが、一斉に彼女の方を向いた。
「あら、素敵ですわ、ラナ」
「成程、さっきの色を花の添え物と言ったお前の気持ちがよくわかった、こっちはお前が主役だ」
「……へえ」
三者三様の反応である。ティルクが一番冷静だと思いつつ、ラナはくるりと回ってみせた。
「私もこっちの方が好きだなって思ったの」
「先程の色のものは目の色に合わせようとしたのかしら?」
「そう、だけど赤の方が好きだなって」
帝都にいた頃、ラナのお気に入りの外出着は腰帯のついた淡紅色のチュニックだった。イークに会った時もそれを着ていたから、忘れられない色だ。手元にないことに今更気付いて、甘酸っぱくて、同時に寂しい気持ちが湧き上がってくる。それでも好きだったことを思い出したのが嬉しくて、彼女は微笑んだ。
「こっちがいいな、この色、好きだから」
「……好きな方がいいだろう、折角だ、ついでに腕飾りと髪飾りと靴も揃えるか」
ティルクの口角が柔らかく上がっている。おじは店員を呼び、この格好に合う飾りや靴を一通り揃えて欲しいと言ってから、何かを思いついたようにラナをちらりと見る。
「――あと、化粧を薄く、頼んでも構わないか」
「承りました、専門の者がおりますので、暫しお待ちくださいませ」
化粧まで頼めるなんて、と彼女は思った。ラナは既に乾季の四の月で十七歳を迎えた成人ではあるが、何だかいきなり大人になったような気分だ。庇護されてばかりであったから実感が薄かったのかもしれない。やがて店員が腕飾りや髪飾り、靴を持ってきた時も、大人の女性として恥ずかしくないように、努めて大人しい動作で振る舞うように心掛けた。
両方の二の腕に嵌める腕輪はまるで一昔前の剣の柄のようだ。柔らかいシヴォライト鋼で成形されたそれは透かしの装飾が美しく、水流紋が火魔石を縁取るように施されている。イオクス材のような色のラナの髪はエイニャルンに来てから指の関節二本分程伸びていて、頭頂部から編み込みを施され、両耳の裏を通ったところで、ロウゼルの花を象った髪飾りを使って留めた。前髪は右眉の上で分けられ、額を出して、軽く上げて流される。この時点で鏡を見せて貰ったが、普段の自分と全く違う装いに、彼女の胸は高鳴った。
「これだけでこんなに変わるのね」
「大人びて見える、ティリアに似てきたな」
ティルクが鏡越しに頷いている。母――おじにとっては姉だ――の面影を見たのだろう、彼はどこか懐かしそうに目を細めた。
と、ラナが入っていた試着の仕切りの隣の布が揺れる。見れば、灰色のくりっとした双眸が隙間から覗いていた。
「あら、スピシア様、問題ございませんでしたか?」
「……うん」
相変わらず草食竜の子が鳴くような声である。仔竜よろしく恐る恐る布の隙間から出てきた小柄な身体は、ラナが店頭で魅入った群青のドレスを纏っていた。白い肌に、染め抜かれた夜明け前の色がよく映えて、恥ずかしそうに染まった頬や編み上げられた暗い金の髪が、まるで空を彩る暁光のようだ。
「わあ、綺麗」
思わずラナが口走ると、スピシアは更に顔を赤くして、泣きそうな顔になった。
「……変じゃない?」
「すごく似合っていて素敵、夜明けの女王みたい」
「……何それ」
ラナが言うと、スピシアは更に顔を赤くして、くすくす笑った。
中等学舎の再受講組が試着を終え、欲しいものを着たまま座って小物や化粧をするので、次は護衛達の番である。そして、どうやらエレミアもここで調達することが決まっていたらしい。護衛二人が席を外すのは拙いということで、男性故に準備が速いであろうティルクがさっさと入っていった。アルデンスが女ばかりの中に残されて、少し所在なさげに視線をうろうろさせている。
さっさと出てきたおじは、目の色に合わせた胴着と羽織に細身のズボンを身に付け、腰は幅広の帯できつめに締めていた。護衛であるから動き易さを優先したのだろう、それでも、広い肩幅とくびれた腰がはっきり見えることで、彼は十分に魅力的な一人の貴族男性としてそこに立っていた。
「……いい男ね、ティルク」
とは、エレミアの評である。おじは満更でもないといった表情でフンと鼻を鳴らした。耳が僅かに赤いので間違いなく照れている。
そんな風にティルクを褒めたエレミアの目の色は海のような深い青、髪は太陽のように光り輝く薄金だ。彼女は裾に水流紋ではなく、布全体に金糸で大きく草木文様の施された薄水色のドレスを選んだ。背中ではなく右足の上で裾を留めるもののようで、それが大胆な切れ込みとなって、太腿が足の付け根まで露わになっていた。首元は宝飾が施されているが、そこから菱型の穴が開いており、胸元が見える。恐ろしい程に妖艶なその佇まいに、その場にいた面々は揃って溜め息をついた。
「エレミアは凄いわ」
群青色のドレスの裾を弄りながら、化粧の為に用意された椅子へ座っているスピシアが言った。
「私もそう思う」
薄く頬紅を入れられながら、ラナも頷いた。同意してからふと振り返れば、おじが真顔でエレミアを見つめている。瞬きが少ない。
「いい女だと思わなくて、ティルク?」
エレミアは美しく微笑んだ。ティルク唇が僅かに開く、言葉を探しているのだろう。
「――言うまでもない、セザーニア」
「相手を精霊王に例えるっていうのはスピトレミアじゃよくある求愛の言葉だ」
水の大精霊の名を呟いて、ティルクはそっぽを向いた。アルデンスがラナの視界の端で意味ありげな笑みを浮かべ、彼女に向かってそっと囁いてきた。
一番に化粧を施されたラナは暇になった。暇になったといっても、ティルクが髪を解かれて梳かれ、会食用だから派手にしましょう、と店員に言われながら整髪料を付けられ、整えられていくのを見ているのは楽しい。その横ではアルデンスが無造作な赤毛を撫でつけられていて、落ち着かない表情をしている。
「……変じゃない?」
二番目に化粧を終えたスピシアがラナのすぐ隣にある椅子に座って、訊いてきた。決して変などということはない。きめ細かく白い肌には白粉など殆どいらないし、瞼に施された色はドレスの色と同じ美しい群青と金で、普段は小柄で可愛らしく見える顔が、華やか且つ怜悧な印象を与えている。
「すごく綺麗だよ、目元がきらきらして、きりっとして見える」
ラナは微笑んだ。すると、スピシアは頬を染めて明後日の方を向くのだ。
「……あなたも、背が高くてちょっと怖かったけど、可愛く見えるわ」
「そうかな、ありがとう……こういう店にも来るのね」
「……別に、仕立て人を呼んでもよかったのだけれど、お父様が会食のことを言い出すのが遅かったから、仕方なく来たのよ」
領主の傍にいる護衛が態々付くのは、流石領主の娘といったところだろうか。ラナが疑問に思っていたことを言うと、紅潮させた頬を、ぷう、と膨らませながらスピシアは呟いた。足をぶらぶらさせているのもどこか子供染みていて、それでも憎めなくて、何だかラナは妹が出来たような気分になった。訓練の時の言葉には驚いたが、領主の娘はスピトのような心の持ち主ではない。
「毎年やるけど、時期が定まらないの、忙しいから、お父様」
私もそうなるのかしら、などと言って、スピシアは膝の上に頬杖をついた。視線の先では前髪を上げられたアルデンスが苦笑いをしている。
「あなたはいいわね、羨ましい」
「そうでもないよ、色々捨てなきゃいけなかったから」
ラナは自分でそう答えたことに少し驚いた。それから、色々なことに思いを馳せる。「竜の角」のこと、イークのこと、サイアのこと、ナグラス、フローリシェ、常連客、母、まだ物心つかぬうちに離れてしまった父、何度も見るのに未だ掴めぬ夢、アーフェルズは死んでしまったの? 生きているけれど。彼女は左腕に嵌めている腕輪を撫でた。
「私にはわからないけど、それでも、前に進んでいるじゃない」
スピシアは領主の娘だ。だからこそ思い悩むこともあっただろうし、ましてや再受講など。だが、宰相の娘である筈のラナは、領主の娘の重圧すら知らない。知っておくべきものであった筈の何かを得られていない、と彼女はぼんやり思った。
「……きっと、沢山壁にぶち当たると思うなあ」
「あなたには、風があるでしょう」
ラナはこちらを向いたスピシアの視線と向き合う。初めて風の翼に乗った日と同じ、それは灰色に光る純粋な羨望だった。
だが、彼女は言わなかった。否、言えなかったのだ。腕輪のことも、母のことも、自分が何なのかも。まだ“ラナ”と“ラレーナ”が自分の中でゆらゆらと蜃気楼のように揺れている。スピトになったり、腕輪になったり、サヴォラの発着所になったり、白石の竜になったり、それは様々な姿になって問いかけてきた。約束を還す時が来た、百年にわたるシルダの罪を被る小さきものとその血族よ、生きとし生けるアル・イー・シュリエの末裔よ、新たな風の主とともに、その名に印された約束を。
「……そうだね」
乗り越えられたらといいな、と呟いて、ラナは店の中から雲の流れゆく窓の外を眺めた。
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