Ep.2 翠光の導き
1
「平気か、ラナ」
サヴォラの動力を切ったティルクが、彼の腰に回ったラナの腕を撫でながら訊いてくる。そこで初めて、彼女はこの小型飛行機が着地していることに気付いた。
顔を上げて左を見ると、岩棚がまず目に飛び込んできた。それは金の光を帯びていて、見上げた空が明るくなっている、朝だ。知らない場所で朝を迎えていたのか、と彼女はぼんやりと思う。
赤茶けた色の大地が新しい一日を迎えていた。
ティルクの腰に回していた腕を解いて、彼女は深い藍から浅瀬の海へと消える波飛沫のような淡い星の光を見送る。反対側である右……東を見れば、陽の光が真っ直ぐに目を焼いて、思わず眼前に手を翳していた。シルディアナに乱立する尖塔は影も形も見当たらない。
「何処かわかるか?」
訊かれ、ラナは首を振る。サヴォラの後部座席から立ち上がり、脛までしかない機体の低い壁を跨いでその荒れ地の上に立てば、昨晩からずっと履いたままのサンダルの裏と細かく砕かれた岩が粗く擦れる堅い音がした。
「来たことはないか……スピトレミア、エイニャルンだ」
「エイニャルン」
「エイニャの涙、という意味だ……千年の昔、炎の異形を斃したヒューロアの英雄に手を貸した女がいた」
ラナは、一月前にイークから聞いた話を思い出した。火の大精霊ヴァグールが、犬人族の火術士を生贄として欲する火の竜から火術士当人によって引き離され、力の源である火山から遠ざけられたことに怒り、スピトレミアやヒューロア・ラライナ一帯を焼き尽くした。
ヴァグール自身が語ったらしいこの話には、こんな続きがある……水術士の英雄エンベリク・ヒューロアは、仲間の光術士や弓使い、ラライーナの女エイニャと共にヴァグールを宥めることに成功する。その後、英雄はエイニャと子を成したが、森に暮らし外界と関わりを持つことを嫌っていたその時代のラライーナの人々によって引き裂かれた。その時エイニャの流した涙が大地に染み渡り、荒野地帯において稀に水の湧き出る場所となった。スピトレミアに伝わる伝説だ。そして、エイニャと自身の子、両方と別たれて以後、英雄エンベリクは彼女を忘れる為に沢山の女を抱いたという、そうして出来た子は全て水を操ることの出来る女子であった。ラ=レファンス研究所にいる筈の友人が話してくれたことである。
彼女は首を振った。自分はエイニャではない、イークだって、エンベリクではない。引き裂かれてしまったなどと一瞬思いはしたが、そういう仲ではなかった。身分も立場も別世界の人間であることは明白で、彼の望みのほんの一欠片すら知らず、隣に立つことすら出来ていなかった。なのに、心臓の近くにぽっかりと黒く大きな穴が開いたような気がしている。
ラナは首を振って、エイニャルンの景色を改めて眺めた。
岩棚が折り重なって渓谷を作っている。一千年前――かつてはそこを川が流れていたのだろう、しかし、水の痕跡は風化して丸みを帯びたり、崩れたりしている。帝都でよく見られる五階建ての集合住宅を上に五つ重ねて、やっと渓谷の天辺まで届くくらいの高さである。
隣に立ったティルクに肩を抱かれる。話を聴きながら、ラナはその胸元に体重を預けた。
「この渓谷の地下からは二百年前からエイニャの涙が恵みとなって湧き出ている、それを利用して、スピトレミアのアンデリー家はこの地を発展させてきた……見てみろ」
ティルクが指した先を見る。巨大な渓谷だった。
よくよく見ると、その岩肌に黒い穴が何か所も開いている。穴の側には階段らしき段差や通路が斜めに走ったり横切ったりしており、更に目を凝らせば、崖側に手摺りが取り付けられていた。穴の周囲の岩石が整えられて彫刻まで施されているのも確認できる。
知らない所だったが、ラナは、美しいと思った。そして、美しいと思える感情が残っていたことに少しだけ驚いた。
風魔法の尾を引いて飛ぶサヴォラがエイニャルンの赤き渓谷を彩る。機体は黒く、所属を表明するために入れられる紋は一切ない。帝国軍の所属であれば、ロウゼルと竜の紋が金で施される筈だ。スピトレミアの紋はやはり違うのだろうか、と彼女が思った時、その黒のサヴォラは美しい曲線を描いてラナとティルクのいる場所へとあっという間に近付き、機体の腹から弾性のある車輪を出して着陸。そこで、搭乗者が魔石動力を停止させる。展開していた砂漠燕の翼が一瞬にして霧散、風精霊を残して、消えた。
「ご苦労様、ティルク」
目を保護しているグランス鋼の覆いを額に押し上げ、死線をくぐってきたとは思えない程に爽やかな声音を響かせるのは、他ならぬアーフェルズだ――数刻前に同じ顔を見たのだから間違いない。後頭部で纏めて垂らしている金糸が、周囲を飛びまわる風精霊や朝焼けの光を跳ね返してきらきら輝いている。少し目を細めて口角を上げるだけのその笑顔が誰かに似ているような気がして、ラナは戸惑いを覚えた。
「ああ、お前こそ、アーフェルズ……知っていたが、無事だったか、よかった」
「君も、よく彼女を連れて帰ってきてくれたよ、風魔石がスピトレミアまで保ってよかった……名前は、ラナ、でよかったかな」
何かを言いたかったが、言葉が出ない。ラナはただ恐る恐る頷いた。ティルクの腕の重みと背に感じていた温もりが同時に消え、振り返って気付く、おじが彼女から離れていることに。
「安心しろ、ラナ、何か企んでいたとしても間違いなくアーフェルズは信用できる」
「褒めるか貶すかどちらかにして欲しいな、ティルク」
苦笑いをしながらその人はラナに向き直り、右手を自身の左肩に掛け、頷くように一礼をしてみせた。見たことのない挨拶だ。彼女には、この人物の意図するところが分からなかった。
「初めまして……でいいのかな、私はアーフェルズ」
ティルクが背後で鋭く息を吸ったのが聞こえた。
「おい、アーフェルズ……それは」
「これが正しいよ、本当はね……それに、君だって知っているだろう」
アーフェルズは薄く微笑んで、じっとラナを見つめてきた……何もかも見透かすようなその視線は、朝焼け色に染まる翠の刀身を持つ短剣のように、容赦なく突き刺さってくる。
「さて、手短に行こう……つい先程、私は生きていたのか、と君は言ったね?」
「……夢を、貴方が死んだと言って泣いている子が、いて」
ラナは、ここ一月の間に何度も何度も聞いて覚えてしまったその言葉を容易に思い出すことができた。アーフェルズは死んでしまったの? それと同時に、相手の瞳がぼやけていく。眼光が腕輪に宿り、やがて溢れ出す美しい翠光となって、何かを訴えるかのように幻が明滅する――約束を還す時が来た、アル・イー・シュリエの末裔よ、その名に印された約束を、己の血に刻まれた真実を見定めよ、己の夢に現れた我の言葉を聞け、百年にわたるシルダの罪を被る小さきものとその血族よ、生きとし生けるアル・イー・シュリエの末裔よ、新たな風の主とともに――脳裏で、何度も。
「うん、ティルクも同じことを教えてくれた」
我に帰り、ラナは思わず振り返った。振り返って、ティルクの顔を見て、思わず口にしていた。
「約束を還す時が来た」
「……アル・イー・シュリエの末裔よ、その名に印された約束を」
消して大きくはないがはっきりとした声と、空を映したような色の視線は、どこも歪むことなくラナに全て真っ直ぐに返ってきた。
「ティルクも、知っていたの、見たの?」
「ああ、アーフェルズに初めて会って、名前を聞いた時は、お前と同じことを口走ったな」
「アル・イー・シュリエって、何?」
「……俺にも、わからん」
ティルクは首を振る。ラナと同じ、イオクス材のような濃い色の前髪が一房、はずみで額にはらりと落ちた。目にかかるほど長い。
「それはね」
アーフェルズの声に、ラナは再び視線を戻す。東の地平線から今まさに昇り始めた暁の太陽が、彼の髪や輪郭、身体の縁を、あっという間に光で彩った。笑顔は影となっていて、そこからは感情など一切汲み取れない。それが少しだけ誰かと重なって見えたが、彼女には思い出せない。
「今、私の持てる限りの伝手を辿って、確実な情報を入手している最中だ」
「何か、わかるの?」
「そうだね、少なくとも今は、同じ夢を見ている君達が血縁関係にある、ということはわかる……君達を見ただけで一目瞭然かな、似ているからね」
ラナがもう一度振り返れば、蒼の視線とかち合った。その口元が緩んでいて、此方を安心させたいのだろう、どこかぎこちない笑みを浮かべているのに気が付く……ティルクは上手く笑えないのかもしれないと彼女はふと思い、そして考える。ここに来るまでに、何があったのだろう?
「君達はとても似ている」
アーフェルズは語る。
「君達は、間違いなく、何かを握っている……シルディアナが共和国から帝国となった理由にも、シルディアナ帝国が強大な力を持った理由にも、十三年前の事件にも関係しているのだろう、と、私は見ている」
「十三年前の事件?」
「アル・イー・シュリエという名の村が、精神に異常をきたして集められた村人ごと焼かれた、という事件があってね……ティルクからはまだ聞いていないかな?」
ラナは思わず目を瞠る。同時に首を振った。
「帝国は疫病だと発表しているし、シルディアナ放送局もそのように報道しているけれどね、私はそうではないと考えている……そして、君達はそこの村の人々の血縁だ、だが、こうやって私達は意思疎通出来ているのだから、精神に異常があるとは言えないね……故に、アル・イー・シュリエの地で起こったことは、外から入ってきた疫病が原因ではなく、血族が受け継ぐ疾病が原因でもなく、他の原因によって何かよからぬものが残っているのかもしれない、と、私は考えている」
ラナは、左腕に嵌めている腕輪に触れた。アル・イー・シュリエの末裔という言葉が、何の実態も伴わないまま、彼女を大きな渦に巻き込もうとしている、ティルクと共に――得体の知れない恐怖を覚えて、思わず歯を食い縛った。
「そこまでは、ティルクに会って……アル・イー・シュリエの末裔よ、と呼び掛けられるティルクの夢の話を聞いて、考えたことだ……そして、ラナ……君からも同じ言葉を聞いて、私は、君達二人が重要なのではないかと更に考えた……考えているといっても、あくまでも予想でしかないけれどね……だから、君達の見た夢の内容を、もっと、教えて欲しい、私の為に」
「……貴方の為に?」
何故、アーフェルズの為に話す必要があるのだろうか? ラナはそう思いながら、真っ直ぐな翠の瞳を見つめる。エイニャルンの大地は、たった今玄関先に訪れた恋人を出迎える女が頬を染めるように、明るく美しい赤の光を纏っていた……自分達三人の他には、誰のサヴォラも訪れないのに。
「何故、という顔をしているね」
「……そりゃあそうだろう、知らない奴から私的な情報を渡せと言われているんだ」
苦笑いをしたアーフェルズに対しては、ティルクが応えた。そのまま、おじが後を継いで喋り出す。
「ラナ、俺が、帝国を解体させる手助けをする為に、アルジョスタに所属している、ということは言ったな……こいつ――アーフェルズは、対帝国反乱軍アルジョスタ・プレナの指導者だ、俺の上司になる……まあ、別に敬う立場でも何でもない、ただ単に纏める奴なだけだ」
「……褒めるか貶すかどちらかにして欲しいとは言ったけど、貶すことにしたのかい、ティルク」
「望み通りだろう」
にべもなくそう言い放ったティルクに、アーフェルズは指導者らしい微苦笑を見せた……あまり表情が動かないその人を見ていると、ラナの心の何処かが、誰かに似ている、と語り掛けてきた。似ているけれど、誰なのかという答えには辿り着けない。
「まあ、しかし、何故纏められているかというと、こいつが有能だからだ」
「……お褒めに与り恐悦至極、光栄の極みだよ……ところでティルク、気付いているかな」
微苦笑を残したまま、そこに立つ指導者は首の後ろ、うなじのあたりを擦りながら言った。
それに遠い目をして応えるティルクの口から零れ落ちるのも、氷のような声音だった。
「ここまで帰ってきたのは俺達だけだった、そう言いたいんだろう」
「……すまないね、ティルク」
「何故お前がそれを言う、アーフェルズ、謝るべきは俺だ」
「……こうなることは分かっていたのに、その指揮を任せたのは私だからね」
双方、押し黙った。そして、同時にラナの方をちらりと意味ありげな目つきで見る――ティルクは顔をしかめて沈痛な溜め息を漏らし、アーフェルズは僅かに顎を低くさせ――向けられているものが苦々しい同情であることに、彼女も気付いた。
ややあって、口を開いたのは指導者の方だった。
「私から言うよ、ティルク」
ティルクは口を開かぬまま、唇を噛んで一歩下がる。それとは対照的に、アーフェルズは一歩ラナに近付いてきた……口角や目元の肉が形成するのは美しい作り笑いであることが容易にわかる。
その美しい唇が紡いだのは、闇精霊もかくやと思う程の事実。
「君一人を帝都から連れてくる為に、おおよそ百人のシルディアナの若者が死んだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます