2

 今度こそラナは心臓を槍で突かれたかと思った。


「……百人?」


「アルジョスタの仲間達もそうだし、君のいた酒場に飲みに来ていた南街区の住人もそうだし、帝国兵だって何人も命を落としただろうね……私の発案で、ティルクの采配だ」


「……私一人の為に?」


「そう、先程も言ったけれど、君が見る夢が鍵だと考えられるからね、君が必要だった」


 何故、と彼女は思った。ティルクも同じ夢を見るというではないか。それならどうして自身も巻き込まれねばならなかったのか、理不尽だ、という想いはあっという間に腹の底から沸き上がり、頭まで満たしてぐらぐらと沸騰を始めた。


「……ティルクがいるのに?」


「ティルクがいたからだよ、君を救いたがっていた」


「救いたがっていた? じゃあ、竜の角がああなるって知っていたの? こうなる予定だったの?」


 それまでじっと此方を見つめていたアーフェルズの視線が、ふと地面に落ちた。口元には依然として柔らかな微笑みが湛えられているが、何処か悲しんでいるようにも見えて、火吹き山の吹く烈火の如き怒りが沸騰するラナの体の奥で渦巻いた。「竜の角」で大切なものを失ったのはこの男ではない。


 ほんの一瞬だけ、遅いか早いかの違いかもしれない、と思えた。だが、今日全てを失ったのは、アーフェルズではない。ラナは強く、強く思った、この怒りと悲しみは自分だけのものだ。


 だから、出さなかった。唇を噛み締めるだけで、彼女はアーフェルズの言葉を待った。


「……予想はしていた」


 朝によく似合う爽やかな声がつるりと滑って、荒れ地の上をころころと何処かへ転がっていった。


「……どうして」


「あの酒場は私達の仲間の一人が所有していた建物だったからね」


「違う、そうじゃない」


「……君は、酒場の者も救うべきだったと言いたいのかな?」


 視線が向けられるとともに、アーフェルズの笑みが一層深くなった。


「……どうして、ナグラスやフローリシェを巻き込んだの」


「ああ、そういう名だったのか……建物の所有者が誰なのか承知の上で開業した、という契約書が残っている筈だよ」


「二人だけじゃない、他の人もいた、サイアなんて――」


「君の仲間や帝国軍だけじゃない、アルジョスタも沢山の若者を失った」


 遮られた言葉を飲み込んで、ラナは呻いた。


「……どうして、私の為なんかに」


「言った筈だよ、君が必要だから、と」


「夢の話なら、ティルクが――」


「ティルクが君を救いたがっていた」


 再び遮られ、ラナは口を噤む。振り返ると、居た堪れないような表情のティルクがそっと明後日の方角を向くのが見えた。おじに向かって言いたくても言えない何かが喉元で渦巻いたまま視線を戻すと、それを待っていたかのようにアーフェルズが口を開く。


「それは理由の一つでしかないけれどね……私は君にあらゆる可能性を見出している、君が見たであろう夢も、女性であることも、その腕輪も……私は君が必要だった、ティルクの為に、アルジョスタの為に、シルディアナの為に……私の為に」


 新緑の瞳に宿る光が鋭さを増し、ラナを射抜くと同時に、アーフェルズが浮かべている笑みがふっと消えた。


「私には為すべきことがある、シルディアナを帝政から解き放つことだ」


「……何の為に?」


「民の為、国の為だ、戦を回避する為に心身ともに豊かになるような、今とは別の方針を、ね……帝都にまで貧民が増え、学舎に通うことを諦めて働いている若者が増えている、ということも聞いているけれど、君の周りにはいた?」


 他でもないラナ自身が中等学舎を中退した身だ……その言葉にはっとしたが、納得のいかない気持ちが心の中で立ち塞がる。彼女は思う、喪失と死の夜を越えてきた者の前で、これから彼女と似たような境遇の貧民を救おう、救えるとでも言うのだろうか、彼らが大切なものを失う前に?


 心身ともに豊かになるような?


 自分自身が救われなかったのに?


 ティルクが信用しているというが、どうにも不信感が拭えない。アーフェルズの問いに、ラナは僅かに頷いた。


「……中等学舎は、途中でやめたの、母さんが死んだ時に」


 その途端、アーフェルズの瞳が、はっきりと大きく揺れた。


 何かを言おうとして僅かに開いた唇が固く引き結ばれ、まだ若い頬に苦労を重ねたような窪みが生まれる。ぼんやりとそれを見つめながら、本心が読めぬこの人も殴られれば人間なのだろうか、とラナは思った。


「……そうか、君自身がそうだったのか……理由を聞いてもいいかな?」


 何か、彼の心の端っこをそっと撫でたような、そんなものがあったのだろう。先程とは打って変わって、アーフェルズは気遣うようにそっと問うてきた。その声を飲み込むように頷き、彼女はそっと目を伏せる。


 きっと彼も沢山のものを失ったのだろう、と、ここではっきり思えたのだ。ラナの唇はこの時を待ち望んでおり、自然と動き、喉と舌は言葉を紡いでいた。


「父さんは最初から、気付いたらいなくて……母さんが死んで、私一人だと、働くので精一杯だったから……でも、私は、不幸じゃなかった、竜の角は、良い所だったから」


 頬に涙が伝っていくのを感じながら、ラナは湧き上がってきた言葉を取り出して、胸元に持ってきていた掌の上に並べていった。どうなったか分からないナグラスやフローリシェの微笑が、竜騎士に保護されたけれど酷い目に遭ったサイアの笑顔が、命を失ったかもしれない、あるいは今日働きに来ていなくても明日そこに訪れて途方に暮れるであろう、親しかった従業員達の顔が、脳裏によぎっては消える。


 沸騰した水が冷めていくように、怒りが全て悲しみへと変わっていく。


 美味しい賄い飯、常連との何でもない会話、休日の商人居住区。諦めざるを得なかったことはあった。だが、それでも、良い場所だった。


 それがラナの全てだった。


「中等学舎は、やめたけど……それでも、好きだったの、竜の角が……」


 視界が滲み、喉が焼けつくように痛む。その時、左肩に温かくて大きな手が触れる。


「私も母を喪った」


 アーフェルズの沈痛な声が聞こえた。


「そして、生きる場所も一度失った」


「……貴方も」


 彼女は思わず顔を上げる。柔らかな光を湛えた視線とぶつかった時、温かさとその裏に隠された確かな暗闇の気配を感じることが出来た。


「それからスピトレミアに流れ着いた、ここが私の生きる場所になった、見失った大切なものを、無くしたと思っていた温かいものを、再び手に入れた」


 雨粒のようにぽろぽろと零れ落ちる涙無き慟哭の合間に、ラナはそっと髪が撫でられるのを感じる。至極優しいその手の感触に目を閉じれば、強く確かな力で柔らかく引き寄せられて、額が硬いものにぶつかった――アーフェルズの鎖骨だろうか。


「……私は守らなければならない」


 それは一瞬で、温かい肌の感触はすぐに離れていった。何かを隠すかのようにあっという間に後ろを向いてしまった広い背中、若草色のチュニックが暁光を受けている。


「失敗だったかもしれないね、誰も戻ってこない……多数を守る為に小数を切り捨てるというのは……忌々しい、憎いが、そうせざるを得ない状況を作り出した私が未熟だった、もっとやり様があったかもしれない、生きていれば……」


「アーフェルズ」


「もっと別の方法があったかもしれない、生きてこそ、私は取り戻したのだから、生きてこそ……」


 少し振り返った彼は右目だけでラナを認め、口元に微苦笑を浮かべる。


「君に言っても……私がやったことは消えないけれどね」


 私のせいだよ、と、アーフェルズは再び背を向け、誰も見ずに、言った。




 スピトレミアの住民はエイニャルンの崖に穴を掘り、フェークライト鋼とシヴォライト鋼の板を嵌め込んで天井を形成する。シルディアナ首都の宮殿から引かれている送魔動力配管もあるのだが、如何せん距離が遠いためか、送られてくる量は知れていた。その上スピトレミア自体が帝国に対して反乱をよく起こす地域なので、送魔動力配管はかなりの頻度で魔法動力の供給を止めることになる。


 故に、シヴォライト鋼の白い天井には動力管からの供給光ではなく、古式の魔石のランプが取り付けられている。ラナがアーフェルズに案内されて入った部屋でもランプは点灯していて、中に押し込められている魔石の属性と同じ光の精霊がシヴォライト鋼のランプ装飾の上で胡坐をかいていた。人型のそれは、高慢そうな鼻先とすらりと伸びた鳥類型の翼が美しい。


 夜通し起きていた筈だったが、眠気は未だに訪れない。ラナは今後についての話を聞きながら部屋の中を観察していた。寝台はあたたかみのある白いエルカ材のどっしりとした形状、机も棚も同じ木材で統一されている。家具に掘られた文様は一様に、水流を模した湾曲を描いて狭い面の縁を彩っていた。高原で小さな花を咲かせる樹木は、こうして切り出されても優美なものである。


「貧民が増え、学舎に行けない若者が増えている。それは宰相が帝国民の納める税を使って軍備の拡張を行うからで、原因は、初代皇帝の時代、帝国に併合された地方で反乱が頻発しているせいだ……スピトレミアがいい例かな? その反乱にはシヴォンやヒューロア・ラライナ、レストアなど、他国が裏で加担している……この争いがこれ以上激化すれば、精霊の怒りが帝国全土を飲み込むだろう、ここまでは分かるかい?」


 ラナは頷いた。既に余裕のある微笑みを取り戻しているアーフェルズが、少しだけ眉を上げてみせ、唇を舐める。


「そうなるともう、貧民どころの騒ぎではない……そうなる前に宰相を引き摺り下ろし、皇帝を退位させ、国を変えていくことが必要だと考えている……貴族、貧民、身分や立場に左右されない幸福を誰もが得られる国に」


「……そんなことが、出来るの? そんな国を、本当に作れるの?」


 思わずそう訊いた彼女に向かって、彼は勇ましく微笑み返してくる。


「出来るか出来ないか、そのようなことは考えていない……やるか、やらないか、だ」


「……私が、私の見る夢が、本当に役に立てるの?」


「ティルクにも同じことを言ったよ、間違いない、とね」


 ラナとしては頷かれても全く納得はいかなかったが、この反乱軍の指導者は先見の明があるように見受けられる。明確に断言出来ることではないから推測を口に出さないのだろうか? 名を出されたティルクは自分のすぐ後ろにいて、彼女は彼を振り返ったが、まるで空気のように一言も発さず、物音も立てず、ただ頷くのみである。最早置物の如き存在と化していた。


 そんなアーフェルズによると、これからこの部屋が家具ごと全て彼女のものになるらしい。成人した男が立った時の腰のあたりだろうか、そこから下は均した粘土の露出した壁だが、上から天井までは白く塗られていて、土の中にいるというのに明るい。ここで暮らしているうちに心も晴れるのではないか、というような気が、少しだけした。


「先程、君は中等学舎に行っていたと言っていたけれど、その点について何か心残りだったことはあるかな? ああしておけば、こうしておけばよかった、とかね」


 アーフェルズからそれを聞いた時、ラナは驚いた。


「……それって、資格も取れる、っていうこと?」


「敏いな、その通りだよ」


「……サヴォラでも?」


「君はサヴォラ免許を取ろうとしていたのかい?」


 彼女は頷いた。運送の仕事をするのも目的ではあったが、形状変化する魔力の翼の美しさと流線型を描く機体に惹かれ、何より、それに乗って空を飛ぶことに憧れたのだ。


 シルディアナを見下ろしたらどのような気持ちになるだろう、スピトレミアは、外港から飛び出した先の海は?


「そうだね……スピトレミアでは一緒に騎士課程も受けて貰うことになるし、再受講の組で最初からやり直しになるけれど、もし欲しいと言うなら、やってみるかい?」


「騎士課程……」


「君は姿勢も悪くないし、ちょっと細身だけれど、鍛えれば強くなると思うよ」


 鍛えれば強くなる。ラナは逡巡を捨てた。


「やりたい」


 今度こそ、得たものを手放すことのないように。自分の手で守ることが出来るようになるべく。


「騎士課程に所属する女の子も少数だけど存在するからね……きついかもしれないけれど、大丈夫かな?」


「……強くなりたい」


 射抜く翠の視線に相対し、ラナはそれを真っ直ぐ見返す。すると、アーフェルズはにっこりして一度頷いた。


「丁度、再受講の組が明日から最初の講義を行うから、そこに編入出来るように私が手配をしておこう……今日はもう休むといい、今から君に合う服を見繕ってここに運ばせよう、それと湯浴み場はあちらの扉の向こう側にしつらえてあるから、自由に使ってくれ……明日の昼二刻半の時間に迎えに来るからね」


 彼はそう言ってからティルクを目で呼び、背の高い二人は連れ立って部屋を退出していった。


 一人になったラナは湯浴みをすることにした。先程示された奥の扉を開ければ、すべすべした石を敷き詰めた床の上に、自分が寝そべることが出来る程には大きいシヴォライト鋼の白い浴槽が鎮座している。竜の角にいた時も水浴み用の浴槽は使っていたが、集合住宅のとりわけ狭い一角で暮らしていた為、膝を抱えてやっと入れる程度であった。


 服を脱ごうとして初めて、その裾が渇いた血と埃で汚れている夜着であることに、ラナは気が付いた。普通ならば胸元で結った細い帯を解けば胴着がはらりと落ちていくのだが、探った胸元に帯の結い目が存在せず、違和感を覚えて手元を見下ろしたのだ。


 思わず息を呑む。


「あ……」


 彼女は自身がどんな夜を越えてきたのか、思い出した。


 引き倒されるサイアの悲鳴、術士に焼かれる人の影、翳される冷たい鋼の剣、飛び散る鮮血。追ってくる兵士の怒号、そしてあの夢。


 思わず喘ぎ、同時に左腕を握り締める。


 すると、何かに呼応したのだろうか、淡翠の輝きを増し、腕輪が手を突き抜けて光を放った。ふわりと風の精霊が生まれ、その流れるような優しい瞳がそっと微笑んだ瞬間、彼女はティルクの温かな腕を思い出した。


 力強いその腕で導いてくれたのは、抱き締めてくれたのは、彼だ。


 たった一人の家族だ。


「――強くなりたい」


 小さな風の精霊に向かって、ラナは囁いた。今度こそ、と、たった一人の誓いをその胸にたて、しっかりと抱く為に。


「やりたい、私は強くなりたい」

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