二、朝からてんやわんや

水蛇

 昨晩二人の女性からの訪問を受けたせいで、自分はまんじりともせず朝を迎えた自分は、響さんに護身術の指導を受けるため、四時半には部屋を抜け出していた。

 目が充血し、涙がぼろぼろな状況で中庭に向かうと、途中、本館の勝手口から、ゴミ出しをしている銭氏せんしさんを見かけた。

 いや、銭氏さんによく似た何かだ。

 巨大な蛇。

 上半身は銭氏さんの面影を残してるんだけど、下半身からはウロコまみれの、ぬめぬめした蛇。

 いかん寝ぼけてるようだ。

「おやおや、早いねえ。目が真っ赤じゃないか」

 気づけば自分は、勝手口の前まで引き寄せられていて、真正面に、二つに分かれた舌をチロチロと見せる料理長がいた。不思議と怖い感じはしない。

「甘麦ちゃんに朝食を誘われてるんだろ? さすがにまだ準備できてないから、もうちょい待っとくれよ」

 この喋りは、銭氏さんに間違いない。

「はい、先に軽く運動してきます」

「目が真っ赤じゃないか。まともに見えてないんじゃないかい? こらこら、汚い手で触るんじゃない。ちょっと来な」

 うながされるまま厨房に入ると、料理長がなにやら粉末のようなものを小さじで五円玉に乗せ、それをぬるま湯に溶かしてる。

「さ、イスに座って上を向いてごらん」

 自分の右目の下に、不思議な形の金属皿があてがわれ、じょぼじょぼと眼球に液体が注がれた。

「次は反対の目」

 また液体が注がれる。あふれたぶんは、皿が受け止めてくれる。

 ティッシュで軽く顔をおさえると、目のショボショボ感はすっかり消えていた。蛇女に見えていた料理長も人間に元通りだ。

「信じられないほど、すっきりしました。なにかの薬ですか?」

「これはホウ酸だよ」

 無地のビニール袋に入った白い粉末を見せてくれた。

「ホウ酸団子って知ってるかい? 厨房じゃあたりまえの殺虫剤でね。虫には毒だけど、人間にはちょうどいい洗浄薬なのさ」

 そういえば、昔の眼科医は、結膜炎の洗浄にホウ酸を使ってたって親父が言ってたな。手が汚いまま目をこすると「ものもらい」になって、プール開きの前に直さないと、水泳の授業が受けられないって話だった。

 しかし、ふと思ったんだけど、なんで徹夜の目の充血に、ホウ酸が効くんだ? ホウ酸って、殺虫や殺菌の薬なんだろ? ばい菌で目が赤くなってるならともかく。

 これって他にも混ぜたんじゃないかな?

 だったら銭氏さんは薬に詳しいってことだ。

 さきほどのホウ酸のはかり方だって、普通じゃなかった。キッチン用のデジタル秤があるのに、わざわざスプーンと五円玉を使ってたんだから。

 なぜ五円玉なのかはわからないけど、長年なにかやってるって感じがしたね。

 銭氏さんに感謝の言葉をつむぎつつ、自分は心の中で疑いの織物を織っていたんだ。


「きましたね」

 中庭で準備体操をしている自分に、スウェットスーツの女性が声をかけてきた。

 こちらも一瞬誰かと思ったけど、一応、人間の姿を保っているし、サングラスで警備の響さんだとわかった。

 服装も髪型もまったく違うし、なにより化粧っ気のない、ほぼスッピン顔だから、まるっきり別人かと思ったよ。

 ところで、なんでサングラス?

「まだ朝は寒いですね、響さん」

 国内ブランドのトレーニングウェアの胸元を、自分は少しだけ引き上げる。

 一睡もできず朝を迎えた自分だったけど、それでも気付かれないうちに、玄関口に籐カゴと一緒にウェアが置かれていた。サイズはぴったり。たぶん甘麦さんのシワザだ。自重してくれたんだね。

 やはりお値段が違うのだろう。軽くて蒸れず、しかし体温は逃がさないという快適なつくりだ。

「目が光ってますよ。なにか薬を飲みましたか」

 響さんの指摘に、しまった!と両目を押さえた。いつから反応してたんだろう? 銭氏さんには見られていないよね?

「目薬のせいですね。体調は万全です」

「では、入念に柔軟体操でもしてください」

 響さんが近づいてくる。もしかして、身体を押したり引っ張ったりを手伝ってくれるのだろうか。

「あ、身体は柔らかいほうですから」

 遠慮が先に出る。なあに筋肉がなさすぎて、むしろフニャフニャだし。

「ではストレッチだけでも。筋肉がつきやすくなります」

 彼女の手が肩に触れるや、次の瞬間、自分は地面に腹ばいになっていた。

「ぐぎゃっ」

 左腕をとられて、背中側にぐいいーっと引っ張られる。

「ふひいいいいいい」

 胸が圧迫されて、変な声が出る。

「ずいぶんカタいですね」

 いっ、いっ。

「タフさのわからない敵を制するには、逆捕り技がもっとも確実です。こちらの拳も痛まず、筋力も不要。マトが大きくてつかみやすい」

 いたたたた!

 肩! 肩キマってる!

 あとヒジ! 手首! 指のスキマ! 全部痛いって!

「仕掛けられる側は、ふだんから身体を柔らかくしておけば、半端な逆捕り技からは簡単に抜け出せます」

 準備体操のはずが、いきなり実戦モードにッッ?

「さあ、一ヵ所スキをつくってあります。抜け出してみなさい」

 いっ痛くてそれどころじゃないいいいい。

 うつ伏せで、左手が背中に固定されたまま。

 ほかはどんな態勢かまったく見えず、空いてるほうの右手をやみくもに後ろにふりまわすと、今度はそっちも捕られてしまった。

「いまの状態がわかりますか? 私は左手一本で、少年の両手を封じています」

 あとヒザも乗ってますよね!? 地味に痛いですっ。

「つまり、こちらの余っている右手で、少年のどことなりとも攻撃可能です」

 わきばらを拳でゴリっとこすられた。

「うひゃっ」

 痛い! こそばゆい!

「少年。なんだか……楽しくなってきましたよ」

 生まれつきのサービス精神ゆえか、自分のリアクションは響さんの嗜虐心をいたく刺激してしまった模様だ。

 ごりっ! ごりりり!

「いひっ! えひっ!」

 いいかげん奇声を発するのに疲れ果てたころ、自分はその攻撃に慣れてきたのを感じた。

 いや、慣れたというより、痛覚が他人ごとに思えてきた。意識だけ分離して、いじられる自分を高みから見物している感覚になったんだ。

 落ち着いて眺める。ああ無様だなあ、自分。でも、響さんも、ちょっと、しつこくない?

 そろそろ「いーかげんになさい」とツッコミを入れるべきだと強く思ったその刹那。

「うおりゃっ」

 気合いとともに、自分の背筋がうなりをあげ、渾身のエビぞりが放たれていた。

 とたん意識が本体に戻る。

 べしゃりと地に伏した痛みが伝わってきた。

 芝生と土のにおい。雀の鳴き声。

 よっこらせと起き上がって、振り返ると、サングラスがずれ、きょとんとした顔で響さんが座り込んでいた。

「……驚きました、少年」

 なにより先にサングラスをなおす響さん。

「いまのはまさに火事場の馬鹿力 アドレナリン・ラッシュです。少年は危機に際して、潜在的な力を発揮できる特質があるのでしょう」

 ものいいは格好いいけど、逆正座おんなのこすわりなのが決まらない。女のコの上目遣いは嫌いじゃないけど、フェアじゃない気がしたので、自分もその場に正座をした。

「アドレナリン……なんとかとは?」

「潜在能力の解放です。武道をたしなむ者なら、誰しも身に付けていくのですが」

 ここぞの一撃に気合いを発し、自分を信じてありったけを込めること。

「一瞬だけ、精神のリミッターを解除するのです。ほんの一瞬ですけれども」

 クラスメイトの半夏 はんげが部活でサンドバック叩いてるときも、いちいちシュッシュと口にしてたけど、あれもそうなのかな?

「それと比べて、少年の持続時間は見事でした」

 響さんが先に立ち上がると、座ったままの自分のつむじを押したり、こめかみをグリグリやったりしはじめる。

「あの、なにを?」

「武術の達人であるわけでもなし。気脈の詰まりがないのか、思い込みが強いのか……いや心構えが優れているのかも」

 ああ、これツボを押して何かを確かめてるんだ。すごく気持ちいい。

 さっきは急所を痛めつけられてたのに、いまはツボを圧迫されて快感になってる。人間って面白い構造してるなあ。

「ともあれ、さきほどの力は、今後、濫用しないように。一度解放に失敗すると、そのショックでリミッターが強くなってしまいますし、それに」

「それにぃ」

 気持ちよくなってきて、生返事をする。

「身体にかかる負担が、半端なく大きいのです」

 その言葉の意味を、ほどなく自分は理解することになる。


「いだだだだだ」

 練習が終わるや、ただ一度の解放の反動で、自分の体中に痛みが走りまわっていた。

 昨晩の約束通りに厨房で甘麦さんと食事をすませたんだけど、コーヒーが五臓六腑にしみ渡る。

「コーヒーは~痛み止めにいいんですよ~」

「食前に飲めば良かったですね」

 軽食のはずが普通のボリュームで朝食を出されて、痛む手が満足に使えなくて難儀した。まあ、毒味役としては任務完了 ミッション・コンプリートできてヨシすべきだね。

 自分にある神農大帝の力によれば、その食事は栄養いっぱいで、怪しむべき毒はまったく含まれていなかった。

「そういえば~」

 甘麦さんが、自分のカップにつぎつぎと角砂糖を入れはじめる。

「今日はですね~、おもしろい鳴き声の鳥さんがいたんですよ~」

 はい、おそらくソレは自分の悲鳴です。

 握力もなくなりかけて、何度もカップを落としそうになってます。精神によるリミッターというのは、身体を保護するためにあるわけで、ええ、ほいほい外してよいものじゃないのですね。

「あの~昨日はごめんなさいね~」

「え、あ?」

 ああ、夜這いのことか。

 ぼーっとしてて、話題が変わってることに気づかなかった。

「ちょっと思い詰めてることがあって~」

 じりじり間合いを詰めてた甘麦さんに気づいたときには、時すでに遅し。

 またもや彼女の母性あふれる胸に抱きすくめられていた。

「ふが、コーヒーが」

 片手をカップでふさがれてるこのタイミングを狙ったとしたら、大した策士。

 でも自分、いまシャワー前で汗くさいんです、勘弁してください!

「ごめんなさ~い。ちょっとだけ~、このままでいさせてほしいの~」

 震えるような声に、抵抗する理由が消え失せてしまった。

 泣いている……?

 いま無理に引き離したら、彼女はどうなっちゃうんだろう。怖くて試すことがでいない。

 お毒味役の正式契約前だから、まだ彼女の詳細を入手していないが、これまでの情報から「幼い頃からの虐待」という言葉が想い浮かぶ。

「わたしのこと嫌いですか~?」

 この人は、こうやって敵と味方を識別してきたのだろうか。

 だとすれば、それはとても悲しいことだ。

 なすがまま、されるがままに彼女にあずけた頭で自分は考えをめぐらす。

「嫌うなんてことないですよ。甘麦さんは、むしろ好ましい女性です」

 さりげなく、ゆっくりと彼女を押し返し、自分は慎重に言葉を選んでいく。

「きゃあ~嬉しいです~。ね~ね~どこがお気に入りかしら~?」

 すでに自分は、こぼさずにすんだコーヒーカップを両手で構えて、彼女への盾にしていた。

「えーと、家庭的なとことか。ほらウチって、小さい頃からよく母親が家を出てっちゃってたり、自分もオヤジにつれてかれて二人暮らしが多くて」

 学校サボって、親父の旅商につきあわされたんだよな。なんか全国まわってたよなあ。祭りだけじゃなくって、へんな匂いのする百貨店みたいな場所にもよく連れてかれた気がする。

「家や旅先じゃあ、炊事洗濯家事全般を一人でやってばっかで。だから、そういうの得意な人って、お母さんみたいだなって」

「きゅんってきちゃった~」

 甘麦さんのハグ再び。カップを上段から回避しての、見事なほおずり攻撃である。

 待って待って、銭氏さんに見られたらヤバい。初日からメイドさんに手を出すとか、悲惨な運命しか見えてこない。

「歴山さまは~わたしをいじめない~?」

「い、いじめるわけないでしょうっ」

「じゃあ、ずっとわたしの味方でいれくれます~?」

「ええ、そりゃもう」

「よかった~」

 ぐううううきゅる。

 緊張のあまり、おなかが鳴る。

「あら~、さっき食べたばかりなのに、もう、おなかすいたんですか~」

「そ、そろそろ、みんなの朝食の時間だから」

 壁の時計に目を向けて、甘麦さんに仕事をうながす。

「そうですね~じゃあ~お嬢様を起こしてきますね~」

 ボクからエネルギーを吸い取ったかのように元気いっぱいに立ち上がった甘麦さんは、白いエプロンのヒモを、後ろできゅっと締め直す。

「じゃあ~続きはまたあとですね~」

 いえ、もう充分堪能いたしました。どっと疲れが。

 いま気づいたけど、この館のスタッフって、女性がすごく多いんだよね。維持管理は、気配りのできる女性のほうがいいんだろうけど、警備や料理用まで女性って、わりと珍しい気がする。たぶん、室長が女の子だからだろうね。


 食堂に集まったのは、昨晩と同じ三人だった。

 自分がさっき毒味したのと同じメニューを、室長がもそもそと食べている。

 ほうれん草と鶏肉のバター炒め。

 ブリの塩焼き。

 豆腐サラダ。

 なめこの味噌汁。

 あと小鉢で、野菜がちょこっと。

 量も内容もあっさりしてて、運動した後の自分としては、あと二人前は食べられそうだった。もちろん、みそ汁は別だけど。

「室長、朝は苦手なんだね」

「室長?」

 ギンとにらまれる。

「えーあー、いつみこさん」

「よろしい」

 クールなすまし顔でテーブルナプキンで口をぬぐう。

「低血圧なせいか、脳が覚醒せんのじゃ。アドレナリンがだばぁと放出される薬がほしいものじゃ」

「エピネフリンの舌下錠でも処方してもらおうか」

 こともなげに甘草氏が言ってのける。ずいぶん薬の利用に理解あるご家庭ですね。

「ところで、歴山」

「なんでございましょう、お嬢様」

「お嬢様はやめい。……さっきわたしの着替えを手伝った甘麦から、お前の臭いがしたのじゃが?」

 ぶふっ。

 みそ汁を音をたてて飲んでしまった。

「昨日のせい……かな」

「新しめの汗の臭いじゃ」

「ふぐうっ」

 とっさに甘草氏のほうを見やると、行儀悪く新聞を片手に読み入っていた。セーフ。セーフ。

「朝、響さんと運動してから、服を預けたんだよ」

 よし、ウソはついてないぞ。

「響と運動?」

 あ、よけいに機嫌が悪くなった。

 ていうか、そっちが目的でカマをかけられたのか。そうだよな、昨日すみついたばかりの自分の匂いを、室長がかぎ分けられるってのが、そもそもハッタリくさい話で。

「うん、運動。昨日ちょっとみっともなかったから、護身術くらい身につけないと……思って……」

「歴山はみっともなくないぞ!」

 だから、なんで怒ってるの。

「怒ってなぞ、おらん!」

 怒ってるじゃん。どうすりゃ、おさまるの。

「ええと、いつみこさんも一緒に……運動する?」

 ぴたりと室長が静止した。

 朝早く起きる労苦と、自分だけ仲間はずれな悔しさとを、まさにいま天秤にかけてるんじゃなかろうか。

「考えておく」

 さっきまでの激高がうそのように、また気だるそうに食事を口に運ぶ。


 たぶん、あの食事には毒はいない。少なくとも、致死性の毒は。

 でも、いま一番怪しいのは、料理長の銭氏さんだ。彼女だったら、室長の皿にだけ毒を入れるとかわりと簡単だろう。なにしろ、彼女と自分の盛りつけは量に差があり、誰がどのお膳を食べるか明白すぎるからね。

 室長の食べてる皿も、なんとか毒味できないものだろうか、などと自分は彼女の料理をながめていたら、

「うん? 食い足りないか?」

 室長が視線に気付いてしまった。

「行儀は悪いが……いまは執事も見ておらんしな」

 すっと室長がテーブル中央まで身を乗り出し、皿を自分に寄せてくれた。かわり自分の皿を奪い取る。

 ちょうど食べ足りなかったところなので、ありがたやとハシをつける。

「くっく……おなごの食いかけを所望とは、なかなかマニアックじゃな」

「うぐっ」

 のどにつまりかけた。

「おぬし、まだ食い残しておるではないか」

 なんとブリの骨についた身をつつきはじめるじゃないか。

「だーっ、食べないでっ」

 なんか、田舎のおばあちゃん思い出したよ。

 食べ物を大切にするってのは良いことだろうけど、やっぱそれは恥ずかしいよ!

 さすがにこのやりとりに甘草氏も気付いて、笑いながら室長をたしなめる。

「娘は母親が亡くなってからは、お爺ちゃん子に磨きがかかってねぇ。こういうところも、そっくりだよ」

 あのう、もしかして、室長のその喋りも、お爺さんの影響なんですか? てっきり、お母さんが広島あたりの人だからだと思ってけど。

「すみません、さわがしくて」

「いやいや、家族が増えたみたいで、楽しいんだ」

 この親父さんも、また恥ずかしいことを臆面もなく言うね!

 ちらりと室長の表情をうかがうと、すました顔でお茶を飲んでいる。なんか自分だけが意識しすぎなんだろうか?

「それはそうと、おぬしの家から荷物が届いておるぞ」

「あれ? 家に入れたの?」

 てっきり出発前には自分に声がかかると思っていたから、まだ鍵は渡していなかった。

「おおかた、解体業者が合い鍵でも持っていたのじゃろう。どうせ取り壊すとはいえ、きれいに玄関から搬出したいものじゃ」

「ありがとう。先に言ってくれれば、自分も行ったのに」

 たぶん室長は、疲れてる自分を気遣ってくれたんだな。

 だから、起きてた自分に逆にムッとしたのかもしれない。

「荷物は今頃、防已ぼういがコテージに搬入してあるはずじゃ」

「ありがとう」

 さっきよりも心をこめて礼を繰り返す。

 室長の食べ残しも、おいしくいただきました。


 部屋に戻ると、自分の居座っている離れには、取り壊し直前の自宅から回収された荷物が届いていた。

 空いていた部屋が、まるまる真新しい製薬会社のダンボールで埋まっている。

「二トントラックのロングだったので、いろいろ持ってきてしまいました」

 とは、執事長の滑石 なめいしさん。運転と運び出しの大半は、警備の防已 ぼういさんがやってくれたらしい。

 家具はもとから残されてなかったので、ほとんどが自分の私物だ。といっても、大したものはない。

 衣装ケースにつっこんであった一年分の服や、ダンボール単位で押し入れに詰めた幼稚園時代からの図工作品や日記などなど。

「余計でしたか」

「とんでもない! すごく有り難いです」

「それは、ようございました」

 うやうやしく、滑石執事長が頭を下げる。あとで防已さんにも御礼を言わないと。


 執事長と荷物を整理していたら、いつのまにかメイドの甘麦さんが入り込んで、手伝ってくれていた。すきあらばスリスリしてくるのも含めて、むかしウチに忍び込んでたノラ猫みたいだ。もしかして生まれ変わり?

「うふふ~歴山様は今日は朝から運動づくしですね~」

 荷物整理で汗をかくと、またすぐに替えの服が用意されていた。どうみても新品で、サイズからいっても館の誰かのを借りてるわけでないのは明らかだ。昨日の今日で、よく数着も着替えを用意できたもんだ。土曜の朝に開いてる店なんて、こんな田舎町にあるはずないのに。

「ほんと青竜家は……ものすごいですね」

 いたれりつくせりで、正直、洗濯くらい自分でやらないと落ち着かない。

 とくに寝起きのパンツとか。

 こう魅力的な女性の多い環境では、まあ、なんだ、朝の下着がひどいことになりかねないのだ。

「そういえば」

 と、自分は今朝の室長の指摘を甘麦さんに問う。自分の汗の臭いが云々って話を。

「おかしいですね~、お嬢様はあまりお鼻がよろしくないのですよ~」

 やはりカマをかけられていたのか。

 たぶん自分と響さんの早朝練習に気づいてて、ああいうツッコミをしたのだ。明日の鍛錬は誘ってみよう。

「朝がとても弱いので~、寝ぼけてそう思われただけかもですよ~?」

 寝ぼけて、今後もいろいろ疑われて不機嫌になられても困るなあ。

「低血圧はなんとかしてあげたいな」

 そうすれば一緒に運動できるかもだし。いや、一緒に運動すれば逆に低血圧をどうにかできるのかな?

「料理長に相談したらどうですか~」

 専属料理人 プライベート・シェフ銭氏 せんしさんに? そういえば、早朝に見て以来、厨房に姿を見せなかったなあ。

「料理長は~管理栄養士なので~漢方にも詳しいのです~」

 管理栄養士って確かにすごそうな響きだけど、漢方関係あるの!?

「漢方の人はですね~人の心を治すのが得意なのです~」

 口ぶりから察して、甘麦さんもお世話になってるっぽい。それは同時に、「自分が心を病んでいる」との表明に他ならなかった。

「その人がなにを悩んでいるのか~どんなことを考えているのか~患者さんの気持ちになって考えてあげると~いろいろ病気の原因が見えてくるそうですよ~」

 うーん、患者に寄り添うってのは聞こえがいいけど、ミイラ取りがミイラにならないかなあ。中学時代にすごい鬱気質の同級生がいて、一緒に話してるとこっちまで世界が真っ暗闇に思えてきたもんだよ。

 本当の漢方医だって、もっと患者を突き放して、客観的なデータにもとづき冷静に診断してるんじゃないかな?

 でもまあ、漢方薬で改善するなら、ちょっと相談してみよう。もちろん自分が毒味してからだけど。

 どこまで薬の知識があるのか、毒の知識はいかばかりか、たっぷり引きずり出してみよう。


「うわ、手提げ金庫まである」

「あら~かわいいですね~」

 オモチャの赤い手提げ金庫。たしか祭りで親を手伝ったご褒美にと、親父の仕事仲間オトモダチの出店で買ってもらったやつだ。ダイヤルを二つ合わせないと開かない本格仕様だが、軽くて小さいから、そのまま持ち去られたらアウトなあたり、子供だましである。

「たしかコレ、自分の部屋の天袋から入った屋根裏に、ずっと置きっ放しだったはずなのに」

 自分でも忘れていたくらいだ。これを見つけられたということは、そのときすでにバリバリと天井やら壁やら剥がしてる真っ最中だったのか。

 今自分は、すっかり壁だけになっているのかもなあ。長年住んできた借家の最後を見届けたくもあり、怖くもあり。

「この金庫~なにが入ってるんですか~?」

 宝箱を見つけたように甘麦さんが目をきらきらさせている。

「うーん、子どもの頃の宝物だから、せいぜいイベントの記念硬貨とかかな」

 ラブレターでも貰ってれば、ここに隠したかもだけど、番号がわからないので開けられない。

「金庫もそうだし、このセレクトは大したものですね」

 部屋に持ち込まれた荷物を見渡すかぎり、自分が捨てるに惜しいものばかり的確に選び抜き、どうでもいいと思っていたものは、すべて置いてった模様。

「これ、みんな滑石さんと防已さんが選んでくれたんですよね」

 不要のダンボールをたたんでくれてる執事長にきく。

「ああ、そのあたりは、お嬢様です」

「え、いつ?」

「日の出前に、私どもとトラックに相乗りされまして」

 え、自分が中庭で土まみれになってるより早い時間に?

「七時には解体が始まるとのことで、お疲れの歴山様を起こすに忍びないと。戻ってから、またお休みになられました」

「あら~だからいつもより数倍は眠そうだったのですね~」

 ちょっと感動した。すごい感謝した。

 ありがとう、室長。

 やっぱ高校生にとって大切なものってのは、男女の差はあれど、同じ高校生だけが分かってくれるんだ。

「この感謝は、言葉じゃ伝えきれないですよ。ぜひ、なにかの形でお礼がしたい」

 借家を追い出された自分を拾ってもらって、さらにここまで気遣ってもらって。彼女が気にしない性質 タチなら、臣下の礼をとりたいくらいだ。

「では、お祭りをご案内されてはいかがでしょう」

 考えあぐねる自分に、執事長が提案してくれる。

「昨日の晩から、どこかで祭り囃子が聞こえていましたので、おそらく近所で催しがあるのではと」

「そうだった! 少彦名神社の高市 たかまちだ!」

 このあたりじゃ遠くからも人の集まる大した縁日で、駅から道路の片側を封鎖して、階段の上まで、ずらりと店が並ぶのだ。

 射的やリンゴ飴、イカ焼き、飴細工、ヒモくじに、ミドリガメすくい……などなど。老若男女で楽しめない人はいない。

 室長が自分の思い出の品をセレクトしてくれたように、今度は自分は、縁日ソムリエとして喜ばれそうな出店 でみせを案内するってのはどうだろう。うまくすれば、テキ屋への偏見もぬぐえるかもしれない。

「因縁あさからぬと見えるお二方は、まだギクシャクしておいでです。少しでも打ち解けていただければと愚考いたしますが」

「その発案、ナイスです、執事長!」

 ……で、ええと、室長にはどうやって連絡をとろう? 離れに一晩泊まっただけの自分は、彼女の部屋を知らない。あのビクトリアン電話機で何番をダイヤルするんだっけ?

「わたしが~お声がけしますね~」

 懐中時計型の携帯電話を手にすると、どうやら彼女にかけてくれている模様。

 ところが呼び出し音は、すぐそばで聞こえた。

「あらら~お嬢さますぐ近くにいらっしゃいますね~」

 甘麦さんが離れの玄関扉を開けると、なぜかそのこには息を切らせた室長がいた。

「あれ、室……いつみこさん」

「う、うむ、荷物に瑕疵はないか気になったのじゃ」

「うん、ほしいものはみんな届いてるよ。ありがとう」

「そうか、なら良いのじゃ。それだけじゃ。では、わたしは」

「あ、待って、室長!」

 部屋に上がりもせず戻ろうとするので、あわてて呼び止める。

「室……いつみこさん、一緒に出かけない?」

「いや、わたしは忙しくて、祭りなど……」

 あれ、なんで知ってるんだ。

 さては執事長の根回しか?

「ただの祭りじゃなくて、少彦名神社の縁日だよ」

 このあたりは神社仏閣が多すぎて、ぜんぶを把握してる人はさすがに少ないけど、この時期に駅の片側がたいそうニギヤカになるってのは、電車通学の学生とサラリーマンならみんな知っていることだ。

「地元に名だたる青竜家の長女が、知らぬはずがないじゃろうっ」

「文化祭のクラス展示、週明けまでに二人でメドをつけないとじゃん。いつみこさん、わりと食わず嫌いな感じだから、出店のなんたるかを予習しておけば、わかりやすく反論できて、男子も納得すると思うけどな」

「ふむ……文化祭の検討事案……じゃな」

 ちっちゃいアゴに手をやり、ひと思案。

「仕方あるまい。とくとく案内 あないせい」

「仰せのままに」

 うやうやしくお辞儀をしながら、心の中でガッツポーズ。よっしゃ、室長を説得しきったぞ。いや、これってズイブンな茶番劇だよね?

「で、いつ出かけるのじゃ。もう店は開いておるのじゃろう? 詳しく観察するには昼が良いの。いあ、夜の様子も調べねばなるまい」

「あ、あの、いつみこさん? いつみこさん?」

「祭りというからには、やはり浴衣がいいのか!? のう!?」

 鼻息も荒く、乗り気が満タン状態だった。

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