【巻2】お大尽のご家庭事情は複雑怪奇のこと

一、初めての夜

看菜

 自分が「公儀お毒味役」という古めかしい特別職に就くことを承諾すると、青竜 せいりゅう甘草 かんぞう氏は、両手で顔を覆って身体を震わせた。ときおり指のスキマから、嗚咽のようなものが聞こえる。

歴山 れきざん君、引き受けてくれてありがとう。詳しくは事情はまだ話せないが、きみのその能力ちからは必ず役立つ。それだけは断言しておこう」

 補室の加味 かみさんがあまりに平然と話を進めるので、自分もそのまま聞いているしかなかった。甘草氏、なにかの発作じゃなければいいけど。

「甘草さんの心配するように、すでに弱めの毒を盛られて続けているなら、数日で手がかりが得られると思います」

「オーソドックスな手段としては、ヒ素かなぁ。簡単に手に入るし、無味・無臭・無色だから、今でも素人は使いたがる。ヒ素を飲んだことは?」

「手押しポンプの水で、何度か気づいたことがあります。たぶんアレがヒ素だと」

 なんというか、ヒソヒソって感じで。地下水がヒ素に汚染されてるってのは、日本でも意外と多い。あとで調べて、昔からあの井戸の水は飲むなって話を聞いて、確信がいったのだ。

「害がある濃度なら、絶対に気づきます」

「結構」

 加味さんはうなずく。


「きみが毒味役だとバレてはいけない。なので、屋敷内でキミの任務を知るのは、甘草さんの他は、執事長と警備の響くんだけに留めておきたい。この二人は先代から使えている使用人になかでも、とりわけ信頼がおける」

「それ以外の人には他言無用ですね。口のカタさには自信があります」

「まあ、屋敷が広いわりに、今はあまり人も使用人も住んでいない。警備も含めて二十人というところだ。それと、食事のほうは、二人の料理スタッフと一緒に、ご令嬢より先にとってもらう。だけど、このスタッフにもきみのことは秘密」

 毒を入れるチャンスにもっとも恵まれているのが調理人だから、これは当然だろう。

「もちろん、ご令嬢本人にもだ」

「こういう陰謀はイタチごっこですからね」

 ぼくの就任したことが知られると、抑止力になるどころか、犯人の手口を巧妙化させかねない。このまま自分の任務は隠し通すのが賢明だ。

 とくに室長には、何も知らないまま、ふだんどおりの生活を送ってもらいたい。

「といっても、調理スタッフは全員、厳重な身辺チェックを受けて採用されてる。むしろ怪しむべきは外部からの人間かもしれないな。出入りの業者も含めてくれぐれも警戒を怠らず、きみの眼力で不審な点があれば、すぐに警備の響くんか、私に連絡してくれ」

「いいんですか、自分をそんなに信用して。過大な期待をもたれても、どこまでお役に立てるか」

「きみの能力については、信憑性は確認済みだ」

 えっ。

 思わず声に出そうになる。

「先ほども言ったけど、きみのクラスメイト全員は、危険性がないか一度はみんな審査 スクリーニングされてるんだ。家族構成、親族、疾病履歴、支持政党、信仰、その他もろもろ。きみの特殊能力も入学前から抽出されてて、うちの部屋で分析済みだったよ」

「わりと隠してたつもりなんですが」

「国の諜報活動 インテリジェンスを甘くみちゃいけない」

 ったって、戸籍に異能欄があるわけでもなし、ホントどうやって調べたんだろう。敵にまわせば一気に背筋が冷たくなる話だよ、これって。

「詳しい警戒ポイントは、屋敷内の警備スタッフから聞いといて」

 一転して陽気な表情にもどった加味さんは、薄い茶封筒を自分に手渡す。

 中には警備マニュアルらしき紙ファイルと、契約書っぽい書類が見えている。

 あ、顔写真つきの資料もある。昼に会った初老の運転手さんと、あのOLさんだ。前者が防已 ぼうい けいさん、女性のほうが ひびき 桔梗 ききょうさんという名前。

「防已さんって、運転手というより警備スタッフだったんですね」

「ああ防已さんね。要人警護運転 プロテクティブ・ドライビングのプロだよ。たしか民間の警備会社出身」

 今日は聞き慣れない言葉ばかりで、頭がウニになりそうだ。

「乳母車を押す老婆が道をふさいだら、さっそうと轢いて走り去るスキルでしたっけ?」

「日本じゃ、そんな回避やらないよ……」

 加味さんは、どっこいせと声に出して立ち上がる。

「正式に契約書を交わして守秘義務の書類にもサインもらえたら、もっと細かい資料を渡すよ。食事は今日の夕食から、厨房でとってほしい。いろいろあったし、腹が減ってるんじゃないかな?」


 柱時計は夕方の六時を指し、窓の外はとっぷり春の日が暮れていた。

 言われるまで気づかなかったけど、自分のお腹は部屋中に響くように鳴っていたようだ。

「念を押すけど、あくまで屋敷内では、キミは五味子さんのクラスメイト。彼女が同情して、きみをかくまっているにすぎない」

「構いません。事実ですから」

 公儀お毒味役の任務も、同級生のために引き受けたんだ。

「そうそう、携帯の番号、教えてもらえる?」

「持ってないですよ」

 これ聞かれたの何度目だ。

「じゃあ、スマホを支給するよ。経費で落ちるから」

「いや、私から贈ろう」

 いままで沈黙を保っていた甘草氏が、ようやく口を開いた。

「我が家に来た記念として。あらためて歓迎するよ、歴山くん」

 水の残るコップを手にした甘草氏は、さっきまでの苦悶がウソのように、とても穏やかで、やさしい表情をしていた。

 机の上の開かれた薬包紙が気になった。


 自分専用のコテージに戻ると、メイドの甘麦さんが着替えを持ってきてくれた。動転してたから、着替えも何ももっておらず、学生服のままだったので、すごく助かる。

「なぜかサイズがピッタリなんですが」

「さっき採寸させていただきましたから~」

 あのハグか! あのハグが3Dスキャナだったのか!

「それでは~夕食の準備ができましたら~そちらの内線電話でお呼びしますね~」

 並べた指の先には、真鍮しんちゅう色に光る、えらくレトロな電話機があった。こういうのエリザベス朝様式って言うんだっけ? その時代にダイヤルお電話があったかは知らないけど。

 メイドさんが名残惜しそうに三つ編みを揺らして部屋を出て行ってから、気づいたんだけど、すっかり甘草氏の書斎の肖像画について聞くのを忘れてた。

 残された自分は、することもなく、しばし部屋から部屋を巡り、やがて結局は書架に足を停める。

 さっきまで「へえー」で終わっていた背表紙が、お毒味役を引き受けたとたん、唯一の情報源に感じられた。

「こういう知識も、ないとマズいよな」

 自分は薬の知識なんて、皆無に等しい。毒に気づいても、その名前や詳しい性質を伝えられない。

「この自分が勉強だって?」

 若き日にこの部屋を仲間と使っていた青竜甘草氏は、今は地元一番、日本でも大手の医療企業を経営している。かつてここに集まった友人知人というのも、大学や研究室の仲間だったのではないだろうか。

 まるで自分とは異質の世界の住人がここにいた。もし一抹の残り香でもあれば自分にもできるだろうか。


「とりあえず一番簡単そうな本から」

 手始めに雑学本らしきものを手に取ると、思いのほか興味深い。複雑な化学式を飛ばしつつ、しばし自分は読みふけっていたようだ。電話が鳴るのも気づかず、甘麦さんが呼びに来るまで、ざっと二時間は集中していたらしい。


「歴山さんは~とても勉強熱心なんですね~」

「すみません。勝手に読みふけって、しかも迎えに来てまでいただいて」

 厨房で働いているのは、本当に二人の女性だけだった。

 一人は、さっき部屋に案内してくれたメイドの甘麦さん。あいかわらずのメイド姿のままで、ちょこまか狭いキッチン内を動き回っている。

 もう一人が、この屋敷の料理長。和服にたすき掛け姿の女性で、ほとんど自分は動かず、丸イスに足をくんで腰掛けている。

 茶髪のストレートボブで、さばさばした姉御肌という印象だ。

「あたしが、この館の専属料理人 プライベート・シェフだよ。よろしく」

 名前は銭氏 せんしさん。

 ポリポリかじっているのは、キュウリを切ったものらしい。

「あんた、お嬢ちゃんのクラスメイトだってね。なんだか大変なことになってるみたいだけど、お館さんが良いって言うなら、あたしらだって歓迎さ。好きなだけ居ておくれよ」

 ざっくばらんすぎる喋りだけど、気疲れがなくて助かる。

 本人いわく、健康料理のプロフェッショナル。本気で作れば、不老不死になれる料理だって作れるとか。

「まあ、めったに手には入らない材料ばっか必要だけどね」

 いやいや、いくらなんでもご冗談でしょう。

「その顔は信じてないね? じゃ、あたし何歳に見える?」

 うわマジわからない。これ、へたに答えたら死ぬぞ。

「まあ、おいおい当ててみな。あたしの料理のすごさがわかるから」

 あとで資料を確認してみよう。

「夕飯はさ、あたしらは給仕や片付けがあるから、サクっとまかないでメシで済ませてるんだよ」

 あれ、それだと毒味にならないぞ?

「でもあんたは育ちざかりだろ。お嬢ちゃんと同じモノがいいんだろって、お館さんも言ってたからね」

 厨房の片隅に小テーブルに、すでに三人ぶんの食事が並んでいた。確かに二人ぶんはあっさりした丼モノなのに、自分だけ、おかずだけでも五皿はついている。

「豪華だ……」

 いつもの自分の家の食事とオーバーラップし、あまりの格差に涙が出そうだった。

「すみません。バラバラの食事だと作るの面倒でしょう」

 席につきながら香りを堪能する。

「なあに、ここの家族はもともと偏食でね。メニューも食事時間もバラバラだから、もう慣れっこさ」

 三人でいただきますと手を合わせて、食事を始める。

 お金持ちの食事というから毎日ステーキでも食べてるんだろうと思ったら、意外にも地味だった。

「この屋敷でいちばん食ってるのは実はあたしら二人さ。なにしろ味見が多いからね」

「気をつけないと~本当に太っちゃうんですと~」

 甘麦さんが腹でなく胸元をぽんと叩く。なぜ、どっち。


 ごはんは玄米を混ぜて、みそ汁には豆腐。

 おかずは焼いたサバだ。あまり脂ののってない淡泊なやつだけど、頭や尻尾を切り落としてあるのが割ともったいない。

 あとは野菜がやたら多い。小鉢が数種類あって、見ているだけで満腹になれる。

 デザートは、切ったオレンジだ。こういう少しずつの贅沢の積み重ねってのが、自分のような庶民にはなかなかできないんだな。

「すごく、健康的ですね」

「野菜は一日350gを摂れっていうからね。もっと肉を増やしたほうがいいかい?」

「いえ、室長と同じメニューでお願いします」

 二人は確かに忙しいらしく、まかない飯を食べてる間も、しょっちゅう席を立っていた。自分だけのんびり食べているのが申し訳ないくらいだ。

「あ、電話電話」

 銭氏さんが着物の袖口からスマホを取り出すときの所作は妙にあでやかで、歌舞伎役者を見ているようだった。やっぱり見かけに反しの妙齢か?

「はいはい、あと五分だね。待ってるよ」

 ふふーんと楽しげな声をあげて通話を切る。

「食材屋だよ。いつも急に来るんだ」

「夜遅くまでお疲れさまですね~。わたしが受け取りましょうか~?」

 甘麦さんは、館の主人である甘草氏と室長の二人分の食事を、ちょうどワゴンに載せ終わったところだ。

 親子で食事をするのは、たいそう珍しいとのこと。

「あたしが出るよ。あの兄ちゃん、あたしに気があるらしいからね。甘麦ちゃんは、お館さんたちに食事を届けといて」

 きっちり値引きさせるさとウインクして、勝手口から業者を迎えに出ていく料理長。

 資料のうろ覚えでは、あの人って二十代だった気もするけど、とてもそうは見えない。肌のみずみずしさは十八の甘麦さん以上だけど、大人の落ち着きと貫禄がありすぎるんだな。


「いいですね~、恋する男女ってぇ~」

 甘麦さんがワゴンを持ち帰ったときには、自分はすっかり食事を終えていた。

 これで初日の毒味任務は果たせたのかな? 毒が盛られていれば、即効性でも遅効性でも、口にした時点で気づいてるはずだ。厨房の手洗い場にあった鏡を見ても、顔や手足に変化はない。これなら、あわてて親子水入らずのちゃぶ台をひっくり返す必要もないだろう。

「甘麦さんは、いい人いないんですか?」

 ようやく緊張が解けて、自分はゆるんだ会話に興じる。セクハラだって? いやいや、これも館内での情報収集であって、わりと重要な任務なんだよ、いや本当。

「わたしは~ずっと邸内で働いてるので~出会いの機会がないんです~。奥様が亡くなってからは~旦那様も外での会食が多くなって~すっかりお客さんも来ないから~」

 だからって、そこで自分に意味ありげな目線を送らないでください。

「そうだ~コーヒー飲みますか~」

 自分が皿を片付けてるときも、やたら甘麦さんが気遣ってくれる。

「自分で入れますよ。それくらいやらせてください」

「そうですか~。じゃあ~使い方~教えちゃいますね~」

 厨房の間仕切りの先に、喫茶店にあるようなエスプレッソマシンや、サイフォン式のコーヒーメーカーが並んでてビビる。あと、四角い機械の中では、コーヒー豆がゴロゴロ動いてるのが見えて……。

「これ、もしかして焙煎機ってやつですか?」

「なのですよ~電気式ですけど~」

 なんと、生のコーヒー豆を買ってきて、邸内で処理している? 屋台のおっちゃんでコーヒー通がいて、冬に祭りに一式を持ち込んで一杯五百円で売ってるの見たことあるけど、ここまで本格的なのは初めて見た。

「確かにこのほうが美味しいんだろうけど、手間かけすぎでしょ……」

 人がそんなにいないこの屋敷で、さっきから厨房スタッフがやたら忙しい理由がわかった気がする。万事にこんな調子なのだ。厨房の仕事を早く覚えて、自分もできるかぎり手伝おう。

「えーと、砂糖どこですかね」

「そこのケースですよ~」

 同じ形のアクリルケースが並んでて(プラとは違うのだよ、プラとは!)、ラベルには何語かわからないアルファベットが書かれている。

「フランス語らしいんですけど~わたしも読めないんで~メモを貼ってますから~」

 なるほど「カラみ」「ウマみ」という謎の付箋はそういうことか。自分は「甘み」ケースのスプーンから粉を手にとる。

「うん、甘い甘い」

 後味が変だけど、有機農法だとか無漂白な天然なんちゃらにこだわってると、こういう味になるのかも。

「お待たせ。おや、もう食い終わったのかい」

 料理長の銭氏さんがようやく戻ってきた。小袋ひとつ受け取るのに、どんだけ時間かけてんですか。

 ちょうどいい。コーヒーを入れるついでに、銭氏さんにも厨房のことを教えてもらおう……と思った矢先。

「歴山はおるか!」

 肩を怒らせて、床板を荒々しく踏みつけて青竜室長が入って来た。

「あら~お嬢様~?」

「室長?」

 あまりの剣幕に、自分はあやうくコーヒーカップを落としかけた。

「本当にここにおったか。食堂に来ないとはどういうことじゃ」

「え」

「客分が一家の主と食事をせぬとは、ずいぶん了見違いであるぞ」

「客分というか自分、居候 いそうろうですんで……」

「いますぐ来るのじゃ!」

 腕をとるや、驚くほどの力で引きずるものだから、厨房内の冷蔵テーブルや調理台に自分はぶつかりまくった。

「すぐに坊やの分も持ってくよー」

 寂しそうなメイドさんとは対照的に、料理長は楽しそうに手をふって自分を見送っている。というか、絶対に楽しんでるでしょ、この状況。


 というわけで、大食堂の二十人は座れそうなテーブルに、三人分の食事だけが並んでいた。

 自分と室長の料理はウリ二つ。つまり、さっき食べたのと量以外はほぼ同じだ。

 料理は多めにつくったほうが美味いというから、屋敷内のスタッフ向けに、同じメニューを作り置きしてあったのかもしれない。食事をとりあげられた人は……銭氏さんが、なにか適当にこしらえてくれてると思う。

「どうした? 食わぬのか」

 げっぷを押さえてる自分に室長がけげんな声を出す。

「こういう豪奢な部屋での食事にあまり慣れてなくて」

 貧乏暮らしが長くて、すっかり小食が板についた自分に、さすがにこのボリュームで二人前はキツいけど、上流階級な人たちとの食事で、気が張っているのも本当だ。

「ふむ、今日はいろいろあったからのう。心労もあるじゃろうが、食事は無理にでも詰め込んでおくがよい。味は薄いが、栄養だけは満点じゃ」

「う、うん」

 そうか、今日は食欲がなくて当然なのか。厨房じゃあ夢中で食べてたけど。

 食欲が回復するまで、室長の食事作法でも観察しておくか。

――まあ、これも看菜だ。

 などと、よく知りもしないく用語を使ってみる。

 さっき読んだ本によれば、わが国には「医食同源」なんて概念があって、ふだんの食事が健康を左右すると考えられてる。

 とくに「看菜」は、医師がふだんの食事を観察し、「なにを先に食べるか」「どれくらい食べるか」「食べてどうなるか」から体調や病気の有無を知る技術だという。もとは中国から入ってきた理論で、かの西太后も、医師から看菜を受けてたそうだから、この診察術の伝統はハンパない。

――なるほど、まずは味噌汁。

 身体に水分が足りないとか、塩気のあるものが欲しいとか……?

――次にご飯か。

 お米はエネルギー補給の基本!

――最期に魚。お、また味噌汁?

 自分は先におかずを食べ、その味でご飯をいただく。そして時々、味噌汁。そのうち小鉢に気づいて箸を伸ばすという案配だったから、室長の食事の順番は奇異に思えた。何らかの法則がありそうだ。

 とりあえず順番だけ覚えといて、あとで調べよう。学校の図書室に東洋医学の本があったかなあ。

「どうしたのじゃ、味付けが合わぬか?」

 室長が自分の視線に気づく。

「う、ううん! すごく美味しいです。薄味だけど、ダシがしっかりとれてて、それに……」

 慣れない料理コメントに、言葉がつまる。

「それになんじゃ?」

「材料の味がする」

 ふははと室長が笑う。

「なにを当たり前のことを」

 それが当たり前じゃないんだよ。うちの実家の料理は、基本、調味料の味しかしないもん!

「そういえば、コンビニ弁当などは、見かけと原材料がだいぶ違ってるようだね」

 自分の食性を察するかのように、父親の甘草氏が話題をつないでくれる。

「輪切りのゆで卵も、一度ソーセージみたいに長く加工したものらしいし、ネギトロはマグロ以外の魚に油を加えてたり」

 うわ、そうなんだ。

「着色料に使われてるカラメル色素はほとんどが化学合成で、コチニール色素の材料はサボテンにつくカイガラムシ……」

「父上」

 とん、と室長がテーブルを指先で叩いて制する。

「ああ、これは失礼」

 バツが悪そうに甘草氏が、ナプキンで口元をぬぐう。

「すまんの歴山。久々の来客をまじえての食事で、父も大人げなく浮かれておるようじゃ。食欲がのうなったか?」

「いや、今日はもともと食欲がないんで」

 高度に発達した胃もたれは、空腹と区別がつかない……とは誰の言葉だったろう。

「どうしても無理なら、あとで夜食を持っていかせるぞ」

 そこまで、してもらわなくても。自分、ただの居候ですから。

「いや?」

 室長は自らの発言を取り下げる。

「自室にあったほうが、好きなだけ食べられるのう。あのコテージは、冷蔵庫も電子レンジも備え付けてあったはずじゃ」

「そうだったかな」

 甘草氏が首をひねる。なんで室長の方が詳しいんだ。

「男というのは、眠気より食い気が勝るのじゃろう? あいにくこの屋敷は菓子の備蓄に不調法でな。冷凍食品などと一緒にみつくろって、明日にでも届けさせよう。それから……」

 室長の気遣いだけで、自分の胸はまたいっぱいになってしまった。


 食事 メシのシメは、あのコーヒーだった。砂糖以外は、実に自分ごのみなので、今度はブラックで頂戴した。

 たぽたぽ音がするお腹をおさえながら離れの部屋に向かう途中、自分は背後から声をかけられた。

「少年は、もっとお なかを空かせるべきです」

 振り向くと、あのOLさんだった。屋敷内でも、あいかわらず黒のパンツスーツとサングラスだった。

「響さん……ですね。今日はいろいろありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げる。

「む、意外に礼儀正しいのですね。ならば、私も改めて。 ひびき 桔梗 ききょうです。特別職の件は、私からも礼を言わせてほしい」

「昼間から助けてもらいっぱなしなんで、少しでも恩返しになれば」

 不良が一撃でノサれた光景を思い出す。

「あれは当然のことです。お嬢様をお護りするのは私の義務ですから」

「ほんと自分は、ケンカとかからっきしで」

「少年の判断はあれで正しかった」

 うつむき加減だった顔を、思わず上げた。

「危機に際しては、逃げるのが最も有効な護身術です。集団と敵対するなら、なおさらのこと。一度にあの人数を相手に戦うのを勇敢とは言わない。ただの蛮勇だ」

 これは……褒められている?

「でも、響さんは、思いっ切り突撃してましたよね」

「あれは出過ぎたマネでした。お嬢様に対する愛が勝りすぎたのでしょう」

 愛があればいいんだ。

「少年、実際に武道の心得は?」

「まったく全然これっぽっちも」

「でしょうね。香具師やしの稼業は、腕っ節が勝負と聞いていましたが、あなたはそうは見えない」

 面目ない。でも男として正直ちょっとくらいカッコいいとこ見せたいです。

「響さんに、護身術の教えを請うってのは有りですか?」

 じろりとサングラスの奥の目がねめつけた。しまった、地雷だったか。

「なるほど……毒味役とは古来、警護も仰せつかったもの。武道の心得があって然るべきですね」

 お、これは脈あり?

「しかし、あなたに耐えられるかどうか」

「やっぱ修行が厳しいんです?」

「退屈なのです」

 はい?と自分は間抜けな声を上げた。

「普通の人はすぐ飽きます。私の流派は、を教えません」

 なぜこのような構えをするのか。この動きは、どんな意味があるのか。それらを一切教えないのだという。

「わかった、自分で気付かせるんですね」

「いえ、違います」

 わりと的を射たと思ったのに、あっさり否定される。

「考えてはいけないのです。なぜなら入門者の理解というのは、術理のごく一部にだけ目を向けているか、まったくの的外れだから。武術の理は、さまざまな要素が複雑にからみあったパズルのようなもの。ひとつひとつをバラバラに浅はかな経験で納得しようとすれば、どのピースもイビツになり、無理矢理に合体させようとしても破綻するだけです」

 はあ、そんなものですか。

「一切の理を捨て、上級者の指導のもと、ひたすら正しい型を身につけるうちに、あるとき一挙に全ての理解が及ぶのです」

 いまやってることの意味を知ろうしてはいけない。理解してもいけない。ムダとも思える行為を、ひたすら繰り返す日々。

「それでも続けられるんですか?」

「師への絶対的な信頼がなければ、続けられませんよ」

 世間の道場やスポーツジムでは、すぐ強くなれる、毎日気づきがある、日々の成長を実感できる、そんなキャッチフレーズでお客さんを呼んでいる。

 それとは真逆の武術とやらに、むしろ自分は興味をもってしまった。

「響さんには、信頼できる師匠さんがいたんですね」

「はい。お館様の御尊父、お嬢様にとって御祖父にあたる方、青竜せいりゅう白虎びゃっこ様です」

 その名を口にしたときの響さんは、どこか誇らしげだった。そして、彼女が室長を護る理由が、なんとなく察せられた。

――この人は信頼できる。少なくとも最後まで室長の味方でいてくれるだろう。

 でも、自分は?

 ふと迷いが生じた。

 怒りにまかせて引き受けてしまった毒味役だけど、そこには「そうそうの毒では自分は死なない」という慢心があったことを否定できない。では、本当に危険にさらされたとき、それでも彼女のために命を張り続けられるだろうか?

 自分が見当違いの想いにとらわれていると、練習への逡巡ととらえたのか響さんがひとつの提案をしてきた。

「私は毎朝、五時から中庭で鍛錬をしています。興味があったら、少年も来なさい。朝の運動は、一日のカロリー消費を増やして、食事もおいしくなります」

 ごはんが……。

「今夜はよく休みなさい。少年」

長い廊下を歩いていく彼女を見送りながら、ひとつの想いが強まっていくのを自分は感じていた。

「人はつねに試されている」

 いや、むしろ

「誰かに看菜されている」

 という想いだった。

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