三、真夜中の逃避行(いわゆる夜逃げ)

両親不在

「今後とも、青竜お嬢様をよろしくお願い申し上げます」

 店長の言葉に、思わず自分はツッコミを入れそうになった。

 おかしい! それ絶対におかしい!

 普通だったら「お店をよろしく。今後ともご贔屓ひいきに」とか「資金繰りに困ったときは何卒ご支援を」とか、お店をアピールしてくる状況でしょ、これ。

「ちょっと事情が飲み込めてないんですけど」

「これは失礼しました」

 勝手にうるうるして、ハンカチで涙を拭いている店長さん。

「私どもは青竜のお嬢様を、幼少のみぎりより存じ上げております。お体が弱く、難しいお家ということもあり、なかなか心を開けるご学友さまができなかったのですが、今日はなんとお二人で並んで下校されたとのこと。これはうちの従業員が『うちの子が驚いて電話してきた!』と急報してきてわかったことなのですが」

 ぎゃー同じ学校の生徒だ絶対それ。

 二・三年生はまだ七限だったし、あの時間に下校できるのは部活のない一年生だけか。

「その後、青竜さまからじかにお電話をいただき、ご学友さまが特売セールに来られるとのこと。お嬢様が自ら学友と呼ばれる方をご紹介されるのは創業以来初めてのことでございます」

 なんで畑違いのスーパーにまで影響力あるんですか、青竜さんは。

「つきましてはスタッフ一堂、お祝いと感謝の気持ちをこめて、歴山れきざんさまに心ばかりの品々を」

 ああ、顔と名前を覚えられてしまったんだ。もうこの店で買い物できない。


 憂鬱な気持ちで店を後にすると、手にした肉がずっしりと重みを増してきた。

「これって、思い切り室長のペースじゃんかよ」

 弱みと財布を握られた以上、今後じわじわ下僕化してくのが目に見えている。

 くそっ、電話なんかしてやるものか。室長に押しつけられたメモ用紙を、ズボンのポケットのなかで握りつぶす。

 そうだ、週明けの打ち合わせとやらも、自分から完璧な企画をたたきつけてやろう。主導権をとりもどすんだ。

 よし、やるぞ! まずは、望外の高級肉で気力を充溢させよう。敵の施しでパワーアップし、のどぶえに食らいついてやるのは、さぞや、してやったり感マックスだろう。

 それに女のコの、それもクラスで崇敬されている室長の携帯番号を手に入れたことで、自分はちょっとだけいい気になっていた。

 来週からまた激論を交わすかと思えばうんざりだけど、あの目つきが別に怒ってるわけじゃないとか、口調は厳しいけどすごく気配りのできる子だとかわかって、苦手意識はだいぶ薄らいでいる。ような気がする。

 さっきの薬の影響がまだ残ってるのかな。自分がこの世界から愛されている、ちょっとくらい特別な存在に思えて、帰宅の足取りは軽やかだったんだ。


 で、家についたら、真っ暗で、誰もいなかった。

 自分に嫌がらせのつもりで、ファミレスにでも行ってしまったのだろうか。

 玄関では違和感がなかったが、そのまま台所に進むと、なにかおかしい。雑然とした部屋が大掃除をしたように、すっきりしているのだ。

 薬のせいで、幻覚でも見ているとか? ああいう闇商品は、たいてい品質管理もなってない家内制手工業でつくられてるから、不純物が多すぎて予期せぬ副作用も多いんだ。

 とりあえず肉は冷蔵庫に入れといて、薬効が抜けるまで落ち着いて考えよう。

「って、冷蔵庫がないじゃん!」

 母親を探して居間に行くと、タンスが下の段から全部空けられて、中身がはみ出してたり。

 これは事件だ。

 一家まとめて拉致されて、金目のものが、ごっそり奪われたのだ。

 禍福はあざなるえる縄のごとし、幸せエピソードは死亡フラグというけれど、さっきのささやかな幸せに、この仕打ちは釣り合わなさすぎる。

「つーか、これ空き巣や強盗っていうより、夜逃げだろ」

 めぼしい家財道具と、祖父母の位牌までなくなっているんだし。そんなもんまで持ってく強盗があるわけない。

 冷静になった自分は、ちゃぶ台に手紙が置かれていることに、ようやく気づいた。


『誕生日おめでとう。お前に、サプライズがある。』


 いやもう、充分驚いたって。ていうか、誕生日は明日だろ。


『実は今朝まですっかり言うのを忘れていただけだが。』


 なんだと。


『でもって、朝に説明しようとしたら、話も聞かずにおまえがガッコウ行っちまうから。』


 はいはい、自分のせいかよ。


『つまり、この家の立ち退き期限が明日になっている。』


「はぁああああああ~!?」

 思わず声になっていた。


『朝になったら解体屋が取り壊しに来るだろう。

 水をかける音がしはじめたら、すぐに家を出たほうがいい。

 お父さんは、新しい仕事のため旅に出る。

 母さんはいったん実家に帰る。

 ここに、なけなしの現金と、お前の子どもの頃のお年玉をためた預金通帳がある。ハンコは知らん。

 お前も十六になることだし、ひとりで強く生きてくれ。』


「って、こんな金額でアパート借りられるの? 食費とかどうすんの? これからの学費は?」

 公立高校つったって、いろいろお金がかかるんだってば!

 強く生きてくれって……めぼしい家財道具は持ってかれるわ……ここを明日には出て行くとか、どういうっ。

 連絡先くらい書けよ! そもそも母さんの実家ってどこだっけ!?

 いったいどんなゴロツキに金を借りたんだ!


 一人で赤くなったり青くなったりしてるとき、扉を叩く音がした。

 鍵を開ける音がしたんで、てっきりドッキリでしたーとかいうプラカード持った親父が帰ってきたと信じて玄関に走ったら……作業服姿の知らないオッサンがいた。

「おや、まだ人がいたのか。電気がついてるから変だと思ったんだ」

「え、おじさん……誰?」

「この家を解体する監督よぉ。明日の朝からバラしはじめるから、下見しとこうと思ってな。なんだ坊主、忘れ物か?」

「解体? この家を?」

「ああ、建物が古すぎるから、いったん全部バラして更地にするんだよ」

「しかし、まだ自分が住んでるんですけど」

「住んでるって……みんな引っ越したはずだぜ。親父さんどうした」

「遠くへ出かけました」

「連絡先は?」

「わかりません」

「つっても、半年前から決まってるから、今更無理だよ。悪いけど、必要なものは手で全部持ち出してさ。建具とかも一緒に重機で潰すから、持ち出したいものあったら明日までに全部整理して」

 これ、本当に取り壊す気まんまんだ。

 近所づきあいも限定的だったから、泣きつくアテもない。どーすんだ。どーすんだ。

「木造だから一日あれば片がつくなあ。でもまだ電気を切り離してないってんなら、朝イチで電話しにゃあ」

 そんな急がなくても、もうちょっと待ってよ!

「あ、年期の入ったタンスとかフスマは、意外と買い手があるかも!」

「じゃあ、はがして持ち出していいぜ」

 いやいや、工事を中止してよ!


 あーどうしよーどうしよー。

 工事のおじさんが家のまわりを調べに出ていったあとも、ひとり自分は玄関口で座り込んで悩みまくる。

 心をしずめようと、胸元のお守りに無意識に手が伸びた。

「お守りが……ない!」

 あ、そういやヒモが切れてたんだっけ。落ち着け落ち着け。自分に言い聞かせてポケットをさぐった手が、かさりと紙に触れた。

 さっき室長がくれた、携帯電話の番号だ。スマートフォンかもしれないけど。

「そうだ、室長の両親なら会社をいろいろやってるはずで、弁護士とか人捜しとか相談にのってくれるかも?」

 いやいや、親父がいないと知られたら、安い材料の調達ができないのもバレて、屋台の案件が潰れてしまう。

 それどころか、「テキ屋とはなんといいかげんな奴ばらじゃ」と偏見が高まることうけあいだ。

 そもそも世の中のお金持ちって、みんな割り切った考えの人が多いから、適当に保護施設みたいの紹介されて、形ばかりの同情だけしてもらい、あとは自己責任ですハイさようならってのもあり得る。メリットのない人種とは一切つきあおうとしないからな。あの人たちは。

 そもそも、うちの電話まだ使えるの?


 そんな逡巡の真っ最中に、懐かしい声が聞こえた。

「おうボンズ、どうした玄関開けっ放しで。夕涼みにゃ早いぞ」

 顔を上げると、テキ屋の大親分である鶏鳴さんが立っていた。まだ五月だってのに着流し姿の、草履履き。白髪交じりの角刈り頭で、このままドスでも持たせたら、そのまま博徒 ヤクザ相手に殴り込みかける映画スターに見えるほど、キャラが立っている。

 城南火徳組合のトップで、昔ながらの神農会を組織しながら、現代の暴対法とも戦っている。警察はヤクザもテキ屋も十把一絡げだからね。


「てめぇの親父、しばらく留守にするからってんで、ときどきボンズに声をかけてくれと置き手紙があってな」

 ヤクザと違って、マジメに商売をやってるテキ屋であれば、地元の名士となり、選挙に出る人も珍しくない。この鶏鳴さんも何度か市議会議員を務めているだけあって、方々に顔が利く人物だ。

「お気遣い有り難いんですが、明日で家を追い出される身なんで、もう親分に会えるかどうか」

 子どもの頃からお世話になってる人なので、うっかり身内の恥である手紙を見せてしまう。

「かーっ、とんでもねぇ野郎だな。こんなガキに橋の下に住めっていうのか」

 ああ、やっぱこれって非常識なんだな。

「もとは山で拾った子どもだそうですし、山に帰るのが運命かと」

「なあ、うちの子になりゃあ食い扶持くらい世話してやれるが、どうする」

「鶏鳴さんの?」

 要は、部屋住みの子分になって、テキ屋の修業をやれということだ。

 もとより自分はテキ屋に憧れてたから、いつもだったら異存はない。ただ、話が突然すぎた。心の準備ができてないし、よく考えたら、まだ高校生になったばかりだ。


「お断りじゃ」

 その声に振り向くと、数刻前に別れたばかりの室長が立っていた。もう制服から着替えていて、薄青のワンピースに、七分袖のカーディガンをはおっていた。

 これが彼女の普段着なのだろうか。急を聞きつけて駆けつけたふうで、少し息が上がっている。右ヒザには包帯が巻かれていた。

 響さんが彼女の側にいて、自分と目が合ったら、ふいとそっぽを向かれた。

「なんでえ青竜んとこの嬢ちゃんかい。久しぶりだな、元気か」

 さすが室長。地元の名士にも名を知られているのか。

「申し訳ないのじゃが、クラスメイトをヤクザな世界に引き込まんでほしいの」

 だからテキ屋はヤクザじゃないんだって!

「ほっほっほっ、手厳しいな。なんだね、それじゃあ嬢ちゃんがこの子の面倒を見るのかい?」

 室長は自分と親分の顔を交互に何度も見比べた。今の自分は、たぶんすごく不安な顔をしていたんだろう。

「よかろう。わたしが父上にかけあう。歴山、乗るがいい」

 すたすたと歩き出す。

 親分の乗り付けてきたタクシーの隣に、威圧するかのように、あのでっかい高級車が停まっているのがみえた。

「え? え?」

「荷物の引き取りは、あとから人を寄越す」

 親分のほうを見ると、黙ってうなずく。ついていけと言っている。いままで、この人の判断が間違っていたことはない。

 自分は急かされるまま玄関の鍵を閉めると、現場監督と親分に挨拶をして、そそくさ彼女のあとを追う。

「ボンズ、いつでも相談にのるからな」

 すれ違いざま、親分が背中を叩いた。

「ありがとうございます。そうだ、これ、よかったら」

 ずっと握りしめていたスーパーの袋を差し出す。

「なんでぃ、この肉は」

「今日、家族で食べようと思ってた肉です。冷蔵庫がなかったので、保存できないんです」

「かぁー泣かせるねえ。わかった、こいつぁこの鶏鳴が預かった。おまえらがまた雁首並べてメシ食えるようになったら、祝いにこの何倍もの肉を食わせてやらあな」

 深々と頭を下げ、再び車に走る。

 自分は急展開の濁流に翻弄されていたけど、いま室長の車に乗らなければ、なにか大切なものを失って後悔しそうで、とにかく頭がいっぱいだったんだ。


 自分が乗ると、静かに車が山のほうへと走りだす。

「なんで、わかったの?」

「狭い街じゃからな」

 いやいや、地獄耳すぎるだろう。でも……

「ありがとう」

 心の底から、感謝の言葉が出た。

「困っておる同級生を見捨てては、青竜家の名折れじゃ。祖父も生きておれば、こうしたであろう。……不安か?」

 自分はうなずく。

「歴山でも、そういうこともあるか」

「どういうことさ」

「いつも自信に満ちあふれてると思っておった」


 自分がその言葉の意味をはかりかねてるあいだに、車は坂道をのぼりきっていた。

 両開きの鉄門が音もなく左右に開く。

 車が停まったのはタクシープール。いや、屋根付きの車止めだ。馬車でも止められそうな古風な屋根だった。まるで高級ホテルだ。

 簡単な手荷物しかない自分を、初老の男性が出迎えてくれた。映画で見るような執事服を着ているから、この館のスタッフなのだろう。

 すると室長は、この男性に向かって指をパキーンと鳴らしたから自分はぎょっとした。

滑石 なめいし、客人に部屋をひとつ」

「少々、下品ですぞ」

「一度やってみたかったのじゃ」

 あ、ちょっとかわいい。

「ご滞在の期間は」

「問題が解決するまでじゃ」

 室長が勝手に決めた。

「ならば、離れが良いでしょうな。いらっしゃいませ、歴山さま。執事長の滑石なめいしと申します。我が家と思っておくつろぎください」

「急な話で、ご迷惑をおかけします。あれ……?」

 自分の名前を知っていた。出かける前に、すでに大方の手配を済ませてくれていたのか。さすがは室長、手際がいい。と感心しかけたときに「お話はかねがね」と付け足された。

「はい?」

 かねがね? どういうこと?

「お嬢様と丁々発止の毎日だとか」

 とウインクした。

「え、いや、その、申し訳ありません」

 反射的に謝ってしまった。

 もしかして館じゅうに、室長の毎日のグチやら恨み節が拡散されてるのだろうか。

 ひどい誤解だ。突っかかってくるのは、むしろ彼女のほうじゃないか。

「滑石、お父様とは連絡がついたか」

 執事さんの言葉を遮るように、室長が詰問する。やっぱ家でも、キツい口調なんだな。

「はい、書斎でお待ちですよ」

「歴山、おぬしの処遇について、わたしは父上と話をつけてくる」

「うん、ありが……とう」


甘麦 あまむぎ、歴山を部屋に案内じゃ。疲れておるから、年寄りの長話につきあわせるな」

「は~い」

 間延びした口調の女性がぱたぱた走ってくる。あ、メイド服だ。みごとな金髪で、ぶっとい三つ編みをゆらすメイドさん。これまた映画か漫画みたいな情景だった。

 その姿に自分は強い既視感を覚える。

――自分は、この髪型の……金色の髪の女性を知っている?

 親しげに近づいてきて、目の前で立ち止まるかと思いきや。

「ようこそ~お越しくださいました~」

 ぼふっ。

 いきなり両手で頭をつかまれて、胸元に抱き寄せられた。

 豊満な胸に顔をうずめる形で、髪の毛をわしゃわしゃーと混ぜっかえされる。

「えっ? えっ?」

 自分はイヌか。もらわれてきたイヌなのか。これが運命の選択か。

「あの、もが。どこかでお会いしましたっけ?」

 ようやく脱した自分が問いかける。

「どうでしたでしょ~あら~あらあら~お久しぶりです~?」

 ちょっと舌足らずなところが幼い感じだけど、たぶん自分よりはずっと歳上そうだ。でも、自分の記憶にあるのは、もっと幼い……。

「もしかして、娘さんがいたりします?」

「未婚の女を口説くときは、もう少し欠礼のない台詞を選べ」

 両腕を組んだ室長がたしなめる。

「歴山とは、初対面のはずだが」

「そうでしたっけ~?」

「はい、初めましてです」

 自分のほうもきっぱりと答える。

 自分は一度会った人の顔はめったに忘れない。はずなんだけど、懐かしさすら感じさせる人なつっこい笑顔が、どこかでお知り合いだったかもと錯覚させる。

「じゃあ、これから仲良くなりましょう~。歴山さま~ご案内します~」

 メイドさんに腕をとられて、なかば強引に自分は室長や滑石さんから遠ざけられた。


 玄関に入らず、どんどん西の方へ歩いて行くと、道は上り坂になり、やがて木造の小さな建造物が現れた。

「こちらがコテージです~」

 中学のキャンプで泊まったような、こぢんまりとした洋風家屋だった。

「化粧室もお風呂もありますので~、お気のすむまでご滞在くださいね~」

 メイドの甘麦さんが、豪邸には似つかわしくないフレンドリーさで、しかしそつなく屋内を説明してくれる。

 しゃべりといい、仕草といい、癒し系の人だなあ。おかげでキンキンに張り詰めていた自分の心は、かなりほぐれていた。

「気のすむまでっても、さすがに、ずっとはね」

「そうですか~? ずっと誰も使ってないんですよ~?」

 来賓用の離れと聞いたけど、広々とした寝室にはダブルベッドがあり、リビングには大きなテレビとバーカウンター、その他、小部屋がいくつかあって、とても一人で泊まるには贅沢すぎる間取りだった。

 長く使われていなかったはずなのに、掃除は行き届いている。書斎らしき部屋には、整然と本がならんでいた。つい最近そろえたかのように、ホコリひとつなく整然と並べられている。

 難しい書名ばかりだけど、察するにどれも医学書のようだ。そうか、青竜一族はみんな、医療関係の会社をやってるんだね。青竜製薬しか知らないけど。

 身分不相応というか、場違い世界に迷い込んだみたいで心細さがつのる。


「お嬢様のお友達が家に来るなんて~初めてなんですよ~。しかも男性~。きゃ~」

 いえ、どういうお話を聞いてるのかわかりませんが、自分と室長は、むしろ犬猿の仲と言うくらいの険悪さで。

「旦那様がお若い頃は~週末にご友人がいっぱい遊びにきて~このコテージで朝まで遊んでたそうなんですよ~」

「たしかに室長じゃあ、そういうイメージないですね」

「室長~? ああ~お嬢様のことですね~」

 取り巻きは多いが、パジャマパーティできる友達は少なさそう。それが室長のイメージだったが、どうやらその通りだった模様。

 誰もが恐れ敬い、それ以上踏み込めないでいる高校一年生。そんな学校生活は自分にはとても耐えられないけど、こんなほんわかしたメイドさんが家にいるなら、なんとかやってけそうな気がした。

「そうそう~南の~窓からは~お嬢様の学校がみえるんですよ~」

 甘麦さんが開けてくれた窓から、夕暮れの涼しい風が入ってきた。遠くをみやると、自分らの通う学校や役所の建物が見えた。こりゃいい景色だ。

 古くからこの高台に居を構えていた青龍家は、おそろしく歴史の古い豪族の血筋とも言われている。

 地元の子どもなら誰しも、多かれ少なかれ畏敬の念を抱いている家門で、自分もここに豪邸があることは知っていたが、近づいたことすらなかった。


 背中から、怒鳴り散らす声が聞こえた。

 東の窓だ。のぞきこむと、そちらは、さっきまで自分がいた車止めに面していた。ちょうど、誰かが車に乗り込むところ。

 中背の男。グレーのスーツ。白髪は目立つけど、薄くはない。

 目は落ちくぼみ、クマが目立つ。頬はたるんでいる。アゴは長め。

 なんかイヤな感じだな。

 「フランケンシュタインの怪物」で主役を張れそうな相貌とでも言うか、そう、ぜんぜん人間らしくなかった。

 男がベンツに乗り込むとき、はじめて横顔が見えたんだけど、自分はすっかり硬直してしまった。

「歴山さま~?」

 甘麦さんが呼ぶのに、声も出ない。

 人相見は縁日の豆本でしか学んだことはない自分だけど、けっこう人の性格や嗜好はわかるつもりだ。

 あの男は、お金が好きそう。好色。ご飯も好き嫌いない。

 そして、あらゆるものを手に入れたがる貪欲さが図抜けてる。ほしいものは、どんな手を使っても奪い取る性格だろう。

 いや、そんな分析よりも、もっとヤバい「なにか」がある。自分の脳みそが危険信号を発してるんだ。

 よほど何かに怒っていたのか、彼がいきおいよく車に乗り込もうとすると、頭が屋根にぶつかった。

 めこっ。

 そんな音が聞こえた気がした。

 あれ、いま本当にヘコまなかった? たしかにヘコんでるよね、車のルーフ部分!

 それを見て、今度は扉を持っていた運転手さんが、なにかを怒鳴られている。

 しかし頭を押さえるわけでもなく、血を流すわけでもなく、男はそのまま車に乗り込んだ。

「歴山様~お顔が真っ青ですわよ~」

 あいつは決して理解してはいけない世界の人間だと思った。

 わかろうとした瞬間に、自分もその側に引きずり込まれてしまいそうな予感がした。

「ああ、ちょっと疲れが出たみたいです」

 あれが室長の親父さんだったら、どうしよう。

「あちらは~ご当主様の弟さまで~紫雪 しせつさまですわ~」

 つまり、室長の叔父になる。もしかして、あれが室長の言ってた青龍製薬の社長か。お父さんでなくって、ちょっと安心した。

「あ~執事長からお電話です~」

 彼女がポケットの懐中時計を開くと耳にあてた。どうやら、電話にもなっているようだ。

「は~い。休憩前にご案内しちゃいますね~というわけで~」

 電話をしまった甘麦さんが、とろけるような笑みで手を差し出す。思わずその手をとりそうになって、踏みとどまる。なんてナチュラルにスキンシップを仕掛けてくるんだ。

「旦那様がお待ちですので~ご案内いたしますね~」

 え、室長のお父さん?

「今日は珍しく早い時間にお帰りになってるのですよ~」

 さてさて困った。

 氏素性のやんごと無いわけがない下層市民たる自分が、しかも誤解されまくりな職種の親が夜逃げしたとかな理由で転がり込んで、あまつさえ長期間住まわせてくださいなんて、図々しいにもほどがある。いくら室長の言いだしたことでも、通るもんじゃない。

 罵詈雑言を浴びせられて追い出されるのを覚悟しつつ、閻魔様の断罪場に連れてゆかれる気分で自分はお館様の部屋へ向かうのだった。

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