二、放課後の徒競走

医術の始祖

「おぬしは男子の意見をとりまとめる立場であろう。ならば互いの着地点を決めておかねば、収拾がつかぬぞ」

 さっきの今の話じゃないか。室長、なんてマジメなんだ。

「悠長なヤツじゃの。一年生は土日の授業がないのじゃ。早々に動かねば、まとまるものもまとまらん……」

「あーごめん! スーパーの特売に間に合わなくなる。続きは来週でいいかな」

 次のLHRロングホームルームは月曜だから、どのみち間に合わない。だったら金曜日までにまとめればいいじゃないか。

 自分はリュックを背負いなおした。

「待て、話は終わっておらん」

 パタパタとついてきた。

 廊下を超早足で駆け抜けても、ギネス級の早ワザでクツに履き替えても、室長は追ってくる。


 校門を抜けると、道の反対側に黒塗りの高級車が停まっていた。傍らには、白い帽子、白い手袋の運転手。

 ぎょっとして思わず足を停めると、その白髪交じりのおじさんが、数歩遅れて追いついた室長に恭しく頭を下げた。

「ご苦労」

 室長がにこりともせず言う。

「運転手付きで下校……?」

 初めて目の当たりにしたそのお嬢様っぷりに、自分はあっけにとられた。

「今日は寄り道をする」

 おじさんが小さくうなずくと、助手席から普通のOLですといった格好の女性が降りてきた。髪を短く後ろにまとめて、ショートなポニテ。服装は黒一色のパンツスーツでかっこいいんだけど、同じく黒のサングラスをかけているので、まるでマフィアかお忍び芸能人だ。

「警護します」

 秘書さんかと思ったら、ボディガードだった!


 客商売がら自分は人の観察眼には自負がある。彼女の姿勢や歩き方、その所作振る舞いから、なにか格闘技をやってるのは確実だ。なにしろ、糸で吊ったように、身体の中心線がブレずに歩いてるんだから。

 それにジャケットの左腕が妙に浮いてる。こないだの縁日警備に来てた私服警官も、なぜか懐にチャカを呑んでたけど、まさにそんな感じ。さすがにこの人は、特殊警棒かなんかだろうけど。

 あと左耳の白いイヤホンも、当然音楽プレイヤーじゃなくって、無線か何かに違いない。

「うむ。民草を威圧せぬよう、さりげなくな」

 うわ、いかにも「住む世界が違います」なお言葉いただきました。

 そして室長は、さも当然というように、自分の隣に立つ。

「どうした、スーパーに向かうのじゃろ?」

 上目遣いで問われた。

「えっ? う、うん」

 自分が歩き始めると、横並びについてくる。

「ええっ?」

 これは、いったいッ!?

 はたからは、仲良く一緒に下校しているようにしか見えないわけで、校門周辺の生徒からも少なからずどよめきが起こったのを、自分は聞き逃さなかった。


「おぬしは屋台に賛成なのか?」

 とにかく彼女を振り切ろうと早足になる自分に、室長は競歩になってまで話しかけてくる。

「別に。でも、多数決で決まれば協力はする」

 その数十歩の後ろを、一定距離を保ったまま、足音もたてずローファーで追ってくるOLさん。たまたま行き先が一緒ですといったふうだが、びしばし飛んでくる殺気がすごくて、射撃管制レーダーを浴びている気分だ。

 さしずめ「おどれウチのお嬢様となに一緒に歩いとんじゃコノ馬の骨が、しかも男が女を走らせるなや」といった具合か。


 これだけ警戒されるのって、やっぱこれ、一緒に下校してるようにしかみえないからだよ。

 やばい。これは、やばい。

 女の子と、しかもクラスの女子生徒の尊敬と羨望を集めるお姫様と一緒に歩いてるんだよ!

 意識しないように頑張ってたけど、もう限界です。うあー、なんか顔が赤くなってきた。

「テキ屋の調達する安い食材というのは、やはり古くなったイカや野菜であろう?」

 ずいぶんケンカ腰だなー。

「鮮度が落ちたら、たしかに見てくれは悪い。でも、タレやソースをつけて焼くぶんには味も安全性も問題ないよ」

「鮮度にもランクがあろう。六月といえば、暖かいどころか暑い日もある。半ナマの食事を出しては食中毒が心配じゃ」

 ほーほー、いろいろ調べてるのは確からしい。

「室長んは、賞味期限を一日でも過ぎたら捨てちゃう? 自分は味見に自信があるよ。たとえ消費期限を何日・何週間過ぎてても、食べても安心か判断できる」

「いかにして」

「臭い、色、味……ちょっとかじるだけさ」

 どんなものでも味見ひとつで危険度がわかる。

「にわかに、信じられんが……さしずめ……と、いった、ところか」

 だんだん話し方が息切れ混じりになり、歩みも遅れがちになってきた。室長の歩幅だと、このスピードはちとツラいようだ。ほとんど小走りになっているもんね。

ひびき! ゆけ!」

「はっ」

 室長が突然指示すると、お姉さんが、右手だけ全然振らずに猛烈な早足で近づいてくる。怖い。

「少年、レディの足並みに合わせるのが紳士というものではありませんか」

 横並びで並歩する真顔のグラサン女性にたしなめられる、このシュールさ。他人のフリじゃなかったのか。あと、紳士だか君子だか知らないけど、自分は危うきには近寄りたくないんだよ。

「あのさ」

 仕方なく自分は立ち止まって、汗だくの室長にふりむく。

「な、なんじゃ!」

「カバン重かったら、車に載せてもらえば?」

「ぬぐっ」

 生真面目なる彼女の学生カバンは、今日授業のあった教科書やノートが全部入っており、けっこうな厚さである。おそらく家で予習復習をするのだろう。さすがにお金持ちの家だから辞書のたぐいは学校と自宅で別に持っているはずだが、それでも何キロあるんだという重量感は、彼女の華奢で小柄な体格に不釣り合いだ。

 数秒ほど硬直した室長は、しかしOLさんにカバンを押しつけた。

防已 ぼういに預けよ」

「はっ」

 OLさんは、襟元のマイクに話しかける。運転の人と連絡をとってるんだろう。

「すぐに戻ります。お嬢様はどちらへ?」

「歴山よ、どこじゃ」

「今より赴くのはいわば死地。おそるべき闘争の舞台なんだ。女と子どもは近寄っちゃいけない」

「響、ただちに援軍を呼べ。全員、最高レベルの武装をせよ」

「ごめんなさい。ただのスーパーでの特売セールなんです」

「なんじゃ、スーパー赤松か」

 なんでお嬢様が、庶民御用達のお店を知ってるの。

「そこの創業者とは馴染みじゃ。どれ、ひととおりの特売品をキープしておけばいいのじゃな? 響すぐ連絡を」

「やめて。お願いやめて」

「ならば、他の客を閉め出して、店内を貸し切りにすることも」

「それもやめて。ハリウッド俳優か、サッカーの超有名選手じゃないんだから」


 なんとか貴族階級の暴挙を押しとどめ、OLさん……えっと響さんが荷物を預けに脇道に消えたのを見届けて、ようやく自分はスーパーへと向かう。

「赤松なら、すぐそばじゃろう。そこまで急がなくとも」

 よく見れば、室長は右足をかばうように歩いている。これやっぱアレだよ。自分にヒザ蹴りぶちかました後遺症だろ。自業自得と言えばそれまでだけど、護衛なしでお嬢様を置き去りにするのも躊躇 ためらわれたんで、自分はさっきよりは歩調を緩めている。

「もうすぐ金曜夕方のタイムセールなんだ。ちょっとでも遅れたら、あっという間に売り切れる」

「さほど距離はないはずじゃが」

「開かずの踏切、上り坂」

 この先、徒歩で待ち構える困難をピックアップする。車で行くなら、遠回りしてでも踏切をまたぐ大通りを選ぶんだろうけどね。

「なるほど」

 室長はよく勉強して知識もあるけど、完璧超人ではない。机上にとどまり、実践や経験の足りない分野があるってことか。

「さっきの続きじゃが、とにかく安全な材料が安価に手に入るわけじゃな」

「うん、材料は大丈夫。いまはオヤジ、珍しく家にいるんで」

 地元の祭りが近いのだ。

「帰らぬときが多いのか?」

 縁日の出店をメインにやってる自分の親父は、年がら年中いつでも関東中のお祭りを求めて飛び回ってて、どうしても留守がちになる。とくに週末は大忙しだから、家族旅行なんてほとんど記憶になかった。

「いつもは車で寝泊まりしたり、仕事仲間でウィークリーマンション借りたりで、一カ月帰ってこないこともあるんだ」

「そうか」

 だんだん警官の誘導尋問めいてきてないか? やつら、プライベートを根掘り葉掘りで問い詰めて、あら探しの末に、別件逮捕してくるんだよ。

 室長もてっきり自分の弱みを探り、従属させる糸口をつかもうって魂胆に違いない。

「そのぶん仲良くやっておるか?」

 意外な問いに、身構えていた自分は、肩すかしを食った。

「ああー、たまにしか会わないあら、だんだん接し方がわかんなくなって。今日の朝もちょっとケンカしてさ」

 そうなのだ。きっかけは忘れたが、あれはちっとヒドかった。

『けーっ、拾ってもらった恩も忘れやがって

てめぇは、かあちゃんが腹を痛めて生んだんじゃねえや。山の中で拾ったんだ』

『おう、おもしれえ、こっちだってもっと金持ちの家で生まれたかったよ』

 売り言葉に買い言葉とはいえ、お互いひどいことを言ってしまったもんだ。言葉で商売する者とは思えない。

 そこで上等なスキヤキ肉でも買って帰って、ご機嫌を取ろうという魂胆である。

 なにしろ明後日は自分の誕生日なんで、このまま冷戦が続けば、何ももらえなくなるのだ。


「ほう、明後日で十六歳か。わたしより年上じゃな」

 いえいえ、あなたのほうがずっと老成してますよ。

 なぜだろう。あれだけ苦手意識のあった室長なのに、今はとっても話しやすい。

 はっ。もしや、これも彼女ならではのお嬢様的な懐柔策なのだろうか。帝王学とか何とか。

「室長さ」

 ふと思いあたって自分はまた足を停めた。

「なんじゃ?」

 自分を見上げた彼女の目つきが、さらに凄みを増している。

「な、なんじゃというのに」

 気圧されるのをこらえてトビ色の瞳をのぞき込むが、しかし彼女も目をそらさない。負けず嫌いなんだろうなぁ。

 それでも、だんだん、まばたきが多くなる。涙が、じわりとにじんでくる。

「いつも、まぶしいとか目が痛いとかない?」

 はっと、その両目が見開かれる。

「うむ。気をつけてはいるが、目つきが悪くなっておったか」

 ハンカチを取り出して、目頭を押さえた。

 やっぱり悪意はなかったんだ。背が小さいから、どうしても上目遣いになる。なまじ人の目を見て話そうとするから、余計に眼光も鋭くなるわけだ。

「室長、にらまなければ美人なんだから」

「うるさい。セクハラじゃ」

 ぷいと顔をそむける。

 なんだ、話せば通じるじゃん。ニヤニヤしそうになるのを我慢して、自分はガード下など、太陽の眩しくなさそうな道を選んで歩く。春の夕方の日差しは、真正面すぎて痛いほどだから。

 だが、それがいけなかった。


 暗がりから急に誰かが飛び出してきて、自分とぶつかった。

「大丈夫ですか」

 声をかけてみれば、うちの制服。どこかで観た顔の男子生徒。

 彼は自分らを見てぎょっと硬直はしたものの、すぐに無言で駆けだした。

「あれは……竹葉? 早退したって聞いたんだけど」

「知り合いか」

「別に」

 室長が小首をかしげる。なんで知り合いでもないのに、名前をしってるのかって、そりゃ自分が商売人の息子だからだよ。一年もあれば学年全員の顔と名前と、だいたいのプロフィールは把握済みなんだ。


「逃げんじゃねえ」

 今度はジャバラの学ラン集団が現れた。人気ない道に来たとたん、モヒカン世紀末に転生した気分だ。日本の治安はどうなってるんだろう。

「なにかご用ですか」

 襟首をつかんでくる彼に、自分は親しみやすい笑みで応対した。商売人の息子たるもの、第一印象は大切だ。卑屈にならぬよう、嫌みにならぬよう加減がポイント。

「ちっ、こいつじゃねえ」

「丁度いい。おまらも、ワイナン高だろ。竹葉ってやつ、知ってるか」

「入学したばかりで友だちいないんですよ」

 しれっとウソをつく。

「あの野郎、気ばかりデカくなって代金踏み倒しやがった。オマエらでいいや、ちょっとツラとサイフ貸せ」

 うん、それだと無許可の債権回収屋になっちゃうね。

「ツラとサイフですか」

 どうやら、カップルと間違えられて因縁を付けられたわけじゃないらしい。運が悪かっただけ。

「短期レンタルは割高ですよ」

 まあ、お金になるなら、なんだって商売にしちゃうよ。子貸し腕貸しつかまつる。

「じゃかましいっ。こちとらの商売あがったりなんだ」

 それで用件にピンときた。

「もしかして、タクロク高校の人ですか」

 男は答えない。

「あの制服と校章はそうじゃな。ボス格が二年生で、あとは一年じゃ」

 かわりに室長が断言した。さすが生徒会の渉外担当候補。よその制服にも詳しい。

「はあ、困りますよ。ああいう商品を売ってもらっちゃあ」

 室長を巻き込まないよう、自分はわざと遠回しに話を切り出した。

「ノルマあげねぇと、こちとら先輩にシメられるんだよ」

「はいはい。で、あなたらどこの組ですか?」

 特売セールの時間が気になった自分は、だんだん対応するのが面倒になってきた。

「ああん?」

 男の手が放れた。

「そこの組かって聞いてるんです。あんたらが片足突っ込んで、就職も内定しちゃってるそのブラックな団体」

「てめぇみてぇな素人 トーシロにわかるわきゃねえだろ」

 いや、カタギだから親切心でそう言ってるわけで。素直に組織の名前を教えてくれたら、いろいろ抜け方・落ち方をアドバイスできるんだけどなあ。

「兄貴! ちょ、この老け顔のやつ知ってますよ。城南に親がいやがるんです」

 如才なさそうな男が、耳打ちする。城南とはおそらく城南火徳組合のこと。自分のオヤジが加盟している、要するにテキ屋の互助会だ。あお、老け顔って言うな。

「そいつは同業か?」

「いえ、博徒じゃありやせん。世羅珍 ゼラチン組とは別流で、この町界隈は、そいつらの縄張りなんで、オジキも手が出せないって怒り狂ってるそうで」

「テキ屋がなんぼのもんじゃいっ」

 番長格が手下の後輩をこづく。

「ここいらの神農会を敵にまわしたら、ヨソもんはオモテ歩けませんよって。やつら商売人とか言うてますけど、ひとの仁義を聞きながら、控えてる左手でドス隠し持ってるような武闘派ですぜ」

 なんか物騒な話をしているが、昔の映画じゃあるまいし、それは大いに誤解である。今時のテキ屋ってのは、本当に善良な商売人、一人親方の集まりなんだから。

「こいつらは何のうんちくを垂れてるのじゃ。いわゆる任侠オタクか?」

 在学チンピラどもを目の前にして、室長もずいぶん悠長だ。もしかして天然? 人の悪意とか無縁で育ってきたのかしら。

「博徒から生まれたヤクザ・暴力団とちがって、テキ屋はもともと商人の互助会なんだよ」

「よくわからんが、似て非なるモノなのじゃな」

 ふんふんと感心している。

収斂 しゅうれん進化というやつか?」

「知らないよ、そんな難しい言葉!」

 ただ、人物の過去は一切問わない方針なので、どうしても前科があったりなかったりのアブレ者が集まってしまう。この日本、一度でも犯罪を犯せば、たとえ刑務所で罪を償っても、まともな再就職はできない潔癖社会だから、どうしても、そういう受け皿が必要になる。さもなくば彼らは、お金に困ってまた犯罪に手を染めるだろう。

「親はともかく、自分は普通の高校生ですよ?」

 ダークでアウトローな世界とは、一切無関係な、自他共に認める善良な一市民なのです。

「なら、ノシても問題ねえな。テキ屋ってのはなあ、一家は大事にすっけど、実の親子にゃ薄情なもんって聞くじゃねぇか」

「なんですか、その理屈っ」

 暴力とか、苦手なんですけど、ほんと!

 相手が拳を握ったのを見定め、自分は華麗に戦略的撤退 逃げ出すべく室長の手をつかんだ。


「どごばしゃあああ」

 いきなりリーダー格が奇声を放ってふっとんだ。

 音もなくかけつけたプロフェッショナルなOLの、スピードと体重が乗った飛び蹴りをまともに食らったのだ。

 ふしゅううるるると彼女からほとばしる闘気というかオーラはが凄まじく、気圧された一団は、恐慌状態に陥った。

「ばばば化け物!」

 ひとりが重そうなスポーツバッグをぶん投げる!

 OLさんが高速ハイキックで吹き飛ばす!

 ぼろいバッグが裂けて、中身が自分にぶちあたる!(だって避けたら室長にあたるじゃん)

「ふッー」

 OLさんが息を整える頃には、タクロク高校の先輩方は、悲鳴すらあげずに逃げ散っていた。最初に蹴り飛ばされた人も見えない。

「無事ですか、お嬢様」

 すました顔でOLさんが言う。

「わたしは大丈夫じゃ」

「あ、ありがとうございました」

 自分もうわずった声で御礼を言う。

 不良どもも、よっぽど慌ててたのだろう。かかとの潰れた運動靴があちこちに脱げて散乱している。

「手」

 室長の言葉に、ぽかんとする自分。

「あ、ごめん」

 手を握ったままだった。あわてて離そうとするけど、なかなかほどけない。彼女のほうが、強く握り込んでるのだ。

 冷静なふりをして、彼女もやはり緊張していたのだろう。ようやくほどけたときには、彼女の汗ばみがしっとりと自分の手にうつっていた。

「あー、へんなことに巻き込んでゴメン」

 恥ずかしさを誤魔化すように謝罪の言葉を口にすると、

「よくわからんが許さん」

 にべもない返答が。

「私もです」

 なぜか警護のOLさんが、グラサンごしに明確な殺意を向けてきた。やっぱり、この人、自分のこと誤解してるって。

「ちょっと待て。歴山、おぬしケガをしておらんか!?」

 突然、室長が自分のデコに触れようとする。

「えっ、いやいや全然無傷だって」

 あわてて顔を隠す。

「いや、頭がおかしい。見せてみよ」

「いやいや、正常だってば、なんでもないって」

 この感覚は……ああ、バッグに入ってた粉を吸っちゃったんだな。脳ミソにびんびん作用しちゃってるんだ。

ひびきとりおさえよ」

「はっ」

 問答無用でOLさんが自分を羽交い締めにする。すごい腕力、そしてすごい屈辱。あと、背中ごしに押しつけられる胸が結構なお点前てまえです。

「なんと、脳みそが露出しておるぞ。頭蓋骨はどこに置き忘れたのじゃ、この粗忽者」

 うう、ずっと隠し通してきたのに、よりによって一番面倒くさいのにバレてしまった。

「単に脳みそが透けて見えるだけだよ」

「たしかに……皮膚はある」

 室長の小さな手が自分の頭をなでまわして、くすぐったい。

「まるでデメニギスのようじゃな」

「そんな深海魚、誰も知らないよ!」

「痛くはないのか」

「クスリの効果でちょっと思考が変にはなるけど、自分は人よりは毒に慣れてるからね」

RI ラジオアイソトープ検査に近いですね」とは響さん。

 え、なにそれ? らじお……?

「放射性物質を使った検査方法じゃな。しかしあれは肉眼で追えるものではいし、このように臓器が透けて見えもせぬ」


 ようやく響さんとやらが解放してくれたので、仕方なしに事情を話す。

「自分は小さい頃からの体質で、薬とか毒のあるものを飲むと、身体に影響のある部分が透けてみえるんだ。さっきかぶった白い粉は、脳に影響がある系だね」

 トウガラシとかピーマンとか、刺激の強い味にも反応することがあるんで、基準はよくわからない。

「ふうむ、話だけでは疑わしいが、実際目の当たりにすれば信じざるを得ない。まさに神農じゃのう」

「え、なんでそこで商売の神様が出てくるのさ」

「むしろ、おぬしが知っておるほうが意外じゃのう」

「知ってて当然。テキ屋の神様だよ」

「テキ屋の……なるほど、『日中に市を為し、天下の民を致し、天下の貨をあつめ、交易して退き、各々おのおの其の所を得しむ』。易経、繫辞伝にあるところじゃな」

「はぇ?」

「人の商いは、路傍の市から始まったというから、香具師は商売人の生きた化石。その信奉するのも、始祖・神農大帝というのもうなずけるわけじゃ」

「うん、神農さんが商売人の元祖だってのは、その通り。でも、なんで室長が」

「神農大帝は、医術・薬学の祖でもあるのじゃ」

 またもや彼女は、唄うように古典を引用する。

「『神農、百草の滋味、水泉の甘苦をなめ、民をして辟就 ひしゅうする所を知らしむ。この時にあたりて、一日に七十毒にあう』……淮南子えなんじの脩務訓にある記述じゃ」

「ごめん。難しすぎてわからない」

 このとき室長は、自分を小馬鹿にするどころか、しまったという顔をしたんだ。あとから思えば、彼女はこのフレーズをそらんじるほど好んでいたので、つい口に出してしまったんだな。

 こほんと小さな咳払いをした。

「神農大帝は、中国古代における伝説の帝王じゃ。在位はじつに百四十年。その間、多くの偉業を為したが、とりわけ医術の基礎を築いた功績は特筆に値する。病気で苦しむ人間のために、自ら野山の草木を食し、自ら中毒しては、どれが毒でどれが薬かを選り分けた。ゆえに医学、薬学の祖として祀られておるわけじゃ」

「ふわあ」

 よくもまあ、そんな難しいことをすらすらと。

「神農大帝もやはり、毒にあたれば臓器が透けてみえ、五臓六腑のいずれに影響をもたらしたか目で確認できたそうじゃ」

 ええっ!

「それって、自分と同じ……?」

 室長は大きくうなずく。

「神農大帝は、後世に創られた伝説、それまでの医術の発展を一身に仮託した存在とみてよいが、幾ばくかの史実を含んでおるとわたしは思う。おぬしと同じ体質を持つ者が過去に実在したのかもしれぬ。あるいはおぬしの家系は」

「そっかー神農さんと同じ能力(ちから)かー」

 自分は室長の説明もろくに聞かず、一人その言葉だけ噛みしめていた。なにせこの特異体質のせいで、両親には疎まれるわ、病院にはまともに行けないわ、学校の予防接種を受けない言い訳に苦労するわ、苦労の少年時代であった。それが崇敬する神農さんと同じとは、むしろ誇るべきではなかろうか。

 あ、ちょびっと嬉し涙が出てきた。

「室長すごい。よく知ってたね。頭いい」

「わ、我が家は医療を生業とするから、知っておっただけじゃ。これくらいは家伝書の最初に書かれておる」

 謙遜しながらも、目をそらして照れる室長。

「そっかテレビCMもやってる青竜製薬って、ここが地元だったんだよね」

「製薬工場のほうは、叔父が運営しておるな。わたしの父親は、医療品を主に取り扱っておるのじゃが……」

 すごいな。大手企業グループのお嬢様とは聞いてたけど

「真面目な話、系列に研究機関がいくらでもある。おぬしの能力を謎解く手助けをしてやっても良いのじゃが?」

 彼女の意外な申し出に思わず飛びつきそうになったけど、その妙にキラキラした目が気にかかる。親切心を装ってはいるが、どうにもこの顔は、別の動機が見え隠れしてるんだ。

 珍種の実験体を見つけ、解剖したがってる子ども?

 あるいは、自分の弱みを握ったとほくそ笑んでいる?

 自分が返答に躊躇していると、彼女の側から話題をかえてきた。

「ところで神農大帝は、なめた薬の性質を知ることができたが、おぬしはこの薬が何かわかったのか?」

「まあ、なんとなくは」

 バッグを改めると、白い粉の入った大袋の一つが、ぱっくり口を開けていた。中にダブルクリップが落ちていたので、ポテチ感覚で封をしていたのだろう。

 小分けして売るために。

「そうだね、飲むとシャッキリして、根拠のない自信がつく程度のクスリかな」

 この薬やあの不良には、あまり関わってほしくないので、つとめて軽薄に説明した。

「それは覚醒剤や合成ドラッグのことか?」

 なんで、気付くかなあ! その真面目ちゃんな性格、捨てたほうがいいよ。実は偏頭痛持ちじゃない?

「警察も最近把握したばかりで、禁止薬物じゃあない。依存症もちょっとだけ。テキメン脳に効くから、常用すると判断力が退化するかもしれないけどね」

「ずいぶんと詳しいではないか」

 室長が疑いのマナザシを向けてくる。

「えーと、もしかして、自分が売人だとか思ってる?」

「私も詳しすぎると感じました」

 あ、響さんまで。

「むしろ逆なんだけどなー」

 しゃあない。少しくらいはタネ明かしするか。

「うちのガッコウにも売人が入り込んでるんだよ。一部の生徒が、どっかの組織に使いっ走りをやらされて、この粉末を校内で売り込もうとしてたわけ」

 でも学内の商行為は、同じ商売人である自分の目にも自然ととまりやすい。ヤバそうなやつは、別件での不正行為を暴いて退学させたり、匿名で警告を出したりして、この二ヵ月あまりで徹底的に閉め出したつもりだった。

「教室で商いをしながら、そんなことをしておったのか……」

 室長が呆れた声をあげる。

「校内、とりわけ生徒会で『闇の仕置き』やら『裏番長』というのがウワサになっておるぞ。おぬしではないのか?」

 なにそれ初耳。

「まあ、愛好者がじわじわ増えたぶん、値段もつり上げられてるから、そろそろ購入代目当てのカツアゲや万引きが増えるんじゃない? 近いうちに表面化するよ」

 室長は腕組みをして、しばし思考する。

「それが本当なら、生徒会を動かすしかなかろう。わたしも父上に話して、教育委員会から市内の学校すべてに注意をうながそう」

 すぐにでも行動を開始しそうな勢いに、自分のほうが焦る。

「え、全部信じちゃうの?」

「冗談には聞こえなかったが」

「いや、本気で本当のことだけど……」

 この子、生真面目に加え、素直すぎる。たまたま相手が自分だったからいいけど、心配になってきたよ。

「あ、でも自分の名前を出さないでほしいな。室長が自前の研究機関で解析したとか、そういう話のもってき方で……」

「ん? 発端はおぬしだぞ。遠慮はするな。教師の知るところとなれば、がぜん評定もよくなる」

 ぐっ、いまの評定に学校推薦の下駄を履かせてもらえたら、人数や審査の厳しい奨学金も受けられるかも。

 いやいやいや、やっぱダメだ。

「この体質は、あまり知られたくないんだ」

「なにゆえじゃ」

「医者や研究者が好きじゃない。白衣を見るだけで寒気がする」

「ふむ。それは難儀じゃな」

 特異体質を知られるだろ? 珍しがられて、研究機関や大学病院に捕まるだろ? きっと素っ裸にされて、検査器具を大量にくっつけられて、朝昼晩と実験動物のようにデータを調べ尽くされるんだ。

 これまで、この特異体質を隠して予防接種すら避けつづけてきた人生のせいで、すっかり苦手意識が根付いてしまったようだ。いや、もっと別の理由があるのかもしれない。たとえば、自分に神農さんの血が流れていて、薬はもうこりごりだと叫んでいるのかも。

「それでは、病気になったときどうするのじゃ」

「幸い病気らしい病気もしなくて、医者にかかった記憶はない。そして今後どんな大病をわずらっても病院には行かないだろうね」

「そうか、なら仕方ない」

 あまりにあっさり室長が受け入れたので、自分はすぽーんと音が聞こえるくらい拍子抜けした。

「ではこの件は、わたしとおぬしとだけの秘密としよう」

「う、うん」

 しかし、彼女の妙に嬉しそうな表情はなんだ? なにか隠してるだろ、これ。

「知られたくない事実。弱み」

 室長がぽつりぽつりと不穏なキーワードをつぶやく。

「いやいや、独り言じゃ。なにせ、わたしとおぬしは、秘密を共有する仲じゃろう? それを興の肴にするなど、ありえぬことじゃ」

 じわりと背中にいやな汗が流れる。

「おぬしが友好的、協力的であるかぎり、この関係はつつがなく存続する。当たり前のことじゃろう」

 とんだ狸っ子だったよ、こいつ!

「で、そっちの望みは?」

「これから毎日の放課後は、文化祭の打ち合わせにつきあってもらおう」

「はあ?」

 どんな屈辱的な要求があるかと思えば。面倒くさいが仕方ない。

「はあではない。はいといえ」

「はい」

 思わず返事をしてしまう。

「ほかには?」

「残りは、楽しみにとっておく」

「あのさ。あんま無理すぎると、やっぱ無理だからさ。たとえば死ねとか言われても、まっぴら御免だよ」

「おぬしは、わたしをなんだと思っておるのじゃ」

 うーん、なんだろう。

 思ったよりも食わせものだけど、思ったほど邪悪じゃあない。

「室長は、室長かな」

「なんだかわからんが、ようわかった」

 あいかわらずの意味不明のいらえも、この子がいうと妙に納得する気がしてきた。


「で、この忘れ物はどうするかの」

 ボロのスポーツバッグやら、脱げたシューズやらを見やる。

 どんだけ律儀なのか、あんな目に遭っときながら、まだ人様の忘れ物を気にしているのか。

「あー、ごめん! ほんともう、スーパー行かないと!」

「そうじゃったの。では、こっちの始末は、わたしらで済ませておく」

 警察に届けても説明がややこしすぎるから、それが賢明だろう。

「分析結果は近いうちに連絡する。待て、学校で伝えるわけにもいかぬな。そうじゃ、け、携帯電話のアドレスか番号を教えい!」

「あ、ケータイ持ってない」

 すごく唖然とされた。

「い……いまどき厳しい家庭じゃのう」

 お金がもったいないんだよ。あ、ちなみにパソコンはもっとあるわけないから。

「電子メールもない? 仕方あるまい。わたしの携帯番号を渡しておく」

「え、でも特に用件ないけど」

「いいから受け取れ!」

「はいっ」

「いったん明日の夜にでもかけてくるがよい」

「固定電話はあるんですけど」

 でも、さらさら走り書きされた紙が、金魚鉢にデメキンの泳いでいる便せんだったので、笑いが浮かんでしまった。

「なんじゃ」

「よっぽど金魚が好きなんだね」

「いろいろあってな」

 なぜか、ふぅーっと溜息をつかれてしまった。

 え、なんでさ。なんか機嫌を損ねちゃったの、自分? こんなんで不安になるって、早くも下僕としての立ち位置が確立した気がするよ。きんたま握られてる気分だ。


 自分が内心うろたえてるところに、黒の高級車がすべりこんできた。ナイスタイミング。グッジョブ。

 バッグなどの物品をトランクに詰め込ませて、室長は窓から顔だけだして優雅に自分に声をかける。

「それと歴山な」

 はいはいと顔を近づける。

「おぬしのその能力ちから、世に何かを為すためのものと心得よ。おぬしには、人を導く才能がある。その資格がある」

「え、いきなり、なにさ」

「わたしは、おぬしを買っておるのだ」

 それだけ言い残すと、彼女を乗せた車は山のほうへ消えていった。

 こっちとしちゃあ、奴隷として買われた気分ですけどね!


 室長がスーパーにまでついてこなかったおかげで、我が家格を肉の軽重で推し量られる羞恥プレイは避けられた。

 と思いきや。

 たどりついた自分を待っていたのは、店長をはじめ大勢のスタッフの人たちだった。

「いらっしゃいませ!」

「青竜さまのご学友でいらっしゃいますぞ」

「ささ、どうぞこちらへ」

 すかさず別室に案内された。手提げぶくろに肉が詰められ、保冷剤もバッチリの状態で準備されている。

「あの、こんなにたくさんの肉は」

 自分の予算を、ブルジョアな人たちと一緒にしないでください。

「いえいえ、お代は結構です」

「私どもの気持ちですから」

 いやいや、いっくら供応されたって、自分にお店に便宜をはかるとか大量購入するとかの裁量はないんですって。

 下にも置かぬ歓待ぶりに、青竜家の政治力を思い知らされる自分。

 仮にも一国一城の主たる店長さんが、一介の高校生にうやうやしく名刺を捧げ、頭を下げてくるのだ。

「ご学友さまに、たってのお願いがございます」

 ほらきた!と自分はソファの上で居住まいを正す。

 そして店長さんは改まった表情で、こう告げるのだった。

「今後とも、青竜お嬢様をよろしくお願い申し上げます」

 いや、それ、おかしいだろ!

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