第30話 うず

私は、屋上での出来事を、できるだけ早く、黒井に伝えたかった。

あんな経験はしたことがなかった。これからもしたくなかった。だが、黒井は、この修羅場しゅらば顛末てんまつを聞きたがるだろう。

私が教室へ入ると、彼女は机に頭を伏していた。

おかっぱの黒髪が、まるで机にインクを垂らしたかのように四方へ伸びていた。

「おい、黒井!」と私は呼びかけた。「カオルがとんでもないことになったんだぜ」

「わかってる」

黒井が顔を上げると、机に押し当てられていたおでこが赤くなっていた。「あいつが先輩の告白を断った。先輩に行方を聞かれたときから、どうせ、こんなこったろうとは思ったの」

「なんだ、知っていたのか。なら、話が早いな。屋上で何があったかを詳しく教えてやるよ」

私は、屋上で聞いたカオルと水鳥の会話を、黒井に話した。彼には、好きな人がいて、水鳥の告白を断ったとか、よく分からない彼の持論もそのまま伝えた。

はじめから、黒井には、こうなることがわかっていたらしい。彼女の話によれば、前々から、カオルから水鳥のラブレターについては相談を受けていた。ちゃんと、面を向かって交際を断るように、彼を指導したが、彼は逃げてばかりだった。「ほんとに、カオルは臆病なんだから。普段は女の子と話ばっかりするくせに、いざ、相手が本気になったりすると逃げ出そうとする。真剣に向き合わずに」

「ひょっとして、あいつって、バカなのか?」と私は常々つねづね思っていたことを口に出した。

「バカよ。愚か者」

「だろうね。普通、あんな手紙をもらったら、ちゃんと、返事を書くだろ?」

黒井は、私の目をじっと見つめて、こう叫んだ。「あなたもよ。この鈍感どんかん!カオルも斉藤クンも二人そろって、バカコンビもいいところ」

「は?」

「もういい。あたし、今日は帰る」と自分のカバンを持って、不機嫌な黒井は帰ろうとした。

「ちょっと待てよ」

私は引き止めたかったが、さっさと、彼女は教室から出ていってしまった。

なぜ、あんなに怒ったのだろうか。

いろいろと私は話をしたかった。水鳥先輩のこと。カオルのこと。そして、黒井に対する、私の気持ち。

そういえば、カオルには好きな人がいると言っていた。それは誰なのだろうか。やはり、黒井だろうか。

私は想像してみた。

カオルが黒井を好きだと仮定してみる。そうであるならば、すでに、彼は彼女に自分の気持ちを告白しているかもしれなかった。すると、水鳥にはっきりしない態度を取るカオルの姿は、黒井にとって、いらだたしいものになるだろう。それで、さっき、彼女の不満が爆発したわけだ。

だが、それならば、告白を断ったという事実は、黒井を喜ばせるはずだ。ましてや、私が鈍感だと言われる筋合すじあいはない。

不思議だ。

何かがちぐはぐなのだ。

明らかに、パズルのピースがひとかけら足りないのだ。何が足りないのだろう。

逆に考えてみよう。

万が一、黒井がカオルを一方的に好きだとしたら、どんなことになるか。彼女の片思いを、カオルが今回のようなやり方で踏みにじるだろう。それどころか、まだ、彼女から逃げているのかもしれない。

そんなことはない。

数ヶ月に渡って、私は彼女たちを見てきたが、恋人の関係ではなかった。カオルが黒井を避けている様子は見当たらなかった。

私は、このほか、いくつかの仮説を冷静に検討してみたが、どれも納得がいかないものばかりだった。ついに、パズルは完成しなかった。

つまり、黒井がなぜ怒っているのかという原因は分からないままだった。

原因を突き止めようとした私は、自分のスマホを取り出して、黒井に次のようなメッセージを送った。

ーーおこらせたね

反応がなかったので、もう一度、メッセージを送った。

ーー俺が悪い

放課後の教室で、返事を待っている間、窓から、外の校庭をながめていた。そこに、黒井の姿はなかった。もう早くも、校外へ出てしまったのだろう。

何の原因か分からぬまま、彼女に謝罪するのはシャクだった。

それでも、二度と口をきいてもらえないという事態は避けておくに限る。

スマホのディスプレイに反応があった。

彼女からのメッセージだった。

ーー体育館ウラに来い。ひとりで

私は大急ぎで、体育館ウラへ向かった。このときの私は、カオルや水鳥のことを忘れてしまった。黒井と仲直りしたいという気持ちばかりだった。

校舎から出て、隣の体育館まで、一分ほどかかったが、私には、時間がかかりすぎているようで、じれったい気がした。とうとう、私は走った。体育館の裏まで来て、そこで、一人の男子が私を待っていることに気が付いた。

カオルだった。

「お前、なぜ、ここに?」と私は驚いて、カオルに尋ねた。

「斉藤クンに、今日のことを謝ろうと思って」とカオルは言った。「面倒なことに巻き込んで、ごめんな。実は、体育館で部活の練習をしていたら、アンの奴が、僕をここへ呼び出したんだ。できるだけ早く、謝ったほうがいいって」

「じゃあ、黒井は?」

「もう帰ったよ」

私はあたりを見渡したが、彼の言うとおりだった。

体育館の暗がりとなっているものの、あたりに私とカオル以外の気配はなかった。本当に、黒井は帰ってしまったらしい。

「ごめん」ともう一度、彼は謝った。部活の途中を抜け出したのか、クラブ専用のジャージを着ていて、髪まで汗がしたたっていた。「僕は、あのとき、どうして、君をあの場から外さなかったのだろうか」

「そんなことを言うなよ」

私とカオルは友達だった。なので、友に、遠慮などいらないと私は言ったが、逆に、カオルは悲しそうに首を振った。

彼は自分の謝罪に対して、満足をしていない様子だった。

「斉藤クン、おわびに、明日、ヒマだから、カラオケに行かないか?」

「二人でか?」

「二人で」とカオルははっきりと言った。

黒井が来ないのであれば、カオルと二人きりで店で歌っても面白くなかった。女の子がいたほうが楽しめるだろうと、私が提案すると、カオルは何人か誘ってみると答えた。

しかし、彼はこうも宣言した。「ただし、アンは誘わない」

「いや、誘えよ。黒井が行かないなら、俺も行かないぜ」

「なら、仕方がないな」と彼はため息をついた。「アンにも声をかけてみる。でも、期待しないでくれ。あの子は来ないかもしれない」

明らかに、カオルは、黒井をカラオケに誘いたくない意思を示した。

でも、なぜだろう?

黒井とケンカでもしたのだろうか。今日の黒井は、不思議に思えるほど、機嫌が悪かった。何か、カオルはきついことを言われたのかもしれなかった。それでも、彼の性格を考えれば、それで村八分にしたり、ましてや、カラオケに誘いたがらないというのは、矛盾があるように思えた。

黒井が怒っている原因と、カオルが誘いたがらない理由とは、別々に考えなければならないようだ。

「なあ、カオル。黒井の奴が、なんで、俺に怒っているのか分かるか?俺には、さっぱり、わからないんだ」と私はさっきの話をカオルにして、原因を聞いてみた。

「いや、僕にも見当がつかないな」

「じゃあ、カラオケに黒井が来ないわけは何だ?」

「くるかもしれないし、来ないかもしれない。それだけの話さ」

そう、そっけなく答えた彼は「じゃ、バスケの練習があるから」とその場を急いで去った。

私の相談を聞いてくれそうな雰囲気ではなかった。

遠くのほうで、「猪谷ししやくーん!」と、女子の悲鳴に近い叫び声が上がった。体育館の入り口からするのだった。こっそり影から見てみると、数人の女の子たちが、カオルを中心にして、何か話しかけていた。

聞き耳を立ててみたが、カラオケの話ではなかった。

女の子の一人が言う。「黒井アンとは、どうなっているの?さっき呼んだのは、同じクラスの黒井よね?」

「もしかして、二人は付き合ってたり、なんかしたりして」と別の女の子も冷かすように言った。

どうやら、カオルの親衛隊というわけではなさそうだった。純粋な好奇心から、質問をぶつけていた。もし、彼が下手な受け答えをすれば、ネット上で、ゴシップを流そうとする気が彼女たちにみなぎっていた。

カオルは黒井を、大事なおさななじみだと説明した。

確かに、それ以外に説明しようがなかった。

しかし、彼女たちは引き下がらなかった。「大事」というのは、どれほどの大事さなのか。恋人として大事にしたいという気持ちから出た言葉ではないのかなど、少し、思い込みをまじえた疑問を口に出していた。

明らかに、カオルは困っていた。

天罰だった。

人の相談に乗らずに、他の子たちのコミュニケーションを楽しもうとした、愚かな思い上がりに対して、神様がカオルに罰を下したのだ。

私はそう思うと、ちょっとだけ、愉快ゆかいになった。

両手を上げて、女の子たちを制したカオルは、「待った。待った!僕とアンの仲は、君たちが考えているような関係じゃないんだ。本当になんでもないんだ!」と強く否定した。

だが、否定すればするほど、周りの人間たちは、ますます怪しみ始めた。これではきりがなかった。この調子だと、部活を再開できるのは、いつになるかは分からなかった。

付き合いきれなかったので、体育館を後にして、私は学校を出た。

バス停に行くと、同じくバス通学をしている同級生と会った。彼女は、挨拶あいさつをするよりも前に、私にこう尋ねてきた。「今、ネットで話題になっているんだけど、あんたのクラスに、猪谷カオルっているじゃね、あいつって、さ、あの、黒なんとかアンとか、なんとかという子と付き合ってるわけ?」

付き合ってないよ。

否定したかったが、大きな不安が私をおそった。このうわさは事実かもしれない。二人が交際していたのだというのが事実だとしたら?

最悪だ。

私が黒井を好きだと言うことは、まだ誰にも話していなかった。カオルにも、黒井自身にも。

次のことを仮定した。私の片思いが実らずに、カオルと黒井が、ずっと前から、自分たちの交際を私に隠していたら、どうなるだろう?

おジャマ虫は私のほうだった。

三角関係で、あわれな道化役を演じたのは、実は、私のほうだったとしたら。

ありえない。

でも、胸の中で、不安が少しずつ大きくなっていくのが分かった。

疑念が私の妄想をかきたてた。

交際を隠していたのは、なぜか。

答え、友人である私に遠慮していたから。いや、その場合、二人は私の気持ちに気づいていることになる。そのそぶりはなかった。

この答えは不正解だ。不愉快だ。

バスが来たので、同級生には「さあ?あの二人が付き合っているなんて聞いたことがないね」ととぼけてみせた。

家に帰ってから、勉強も手につかず、私は頭を抱えたままだった。

カオルと黒井と私、三人の間で、大きなうずができていた。その渦に巻きこまれながら、必死でそこから逃れようと泳いだ。泳いだが、岸までたどり着かずに、海の真ん中でおぼれ死にしそうだった。

私は無力だった。

私の疑念に対して、明快な答えを、私はついに用意することができなかった。

そのまま、次の日の朝を迎えた。

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