第29話 いさかい

水鳥先輩からの手紙を読んでいる最中、私の手は、ぶるぶると震えっぱなしだった。

手紙は、一見、丁寧ていねいで礼儀正しいように見えた。

だが、それは外見だけだった。

中身は、エゴむきだしの文面だった。私には、水鳥先輩がこんな恐ろしい文章を書くようには思えなかった。

手紙の文章はひたすら、自らの愛をほこりつつ、自分を無視するカオルをなじっていた。独りよがりだった。誰がどう見ても、書き手を好きになれるとは思えない文だった。

そもそも、入学当初、水鳥は私と交際していはずだ。彼女のほうから、好きですと告白してきたのだ。それとも、あれはウソだったのだろうか。だとしたら、とんでもないペテンだ。

放課後、屋上には人はいなかった。

生徒たちは、クラブ活動や補習で忙しかった。

無人の屋上で、カオルと私の二人は、水鳥のラブレターを読んで、互いに顔を見合わせた。

「これで、わかったろ?水島レイがどんな人間か。どうして、近寄っちゃダメなのか」とカオルが言う。

私は怒りと恐怖で泣きたいのをぐっと我慢して、彼に事実を問いただした。「あの人は、俺にとって、中学から憧れの存在だったんだ。かつてマドンナだった。友達に囲まれて、その輪の中心で輝いていた。これが本性ほんしょうか?俺は信じたくないんだ。なあ、教えてくれ。これは本当に、水鳥レイ先輩なのか。別人が書いたんじゃないのか?」

「本人だ。僕がこの高校へ入ったとき、一人の先輩に声をかけられた。とても美しい女性だった。それが水鳥先輩だ。そのときは、アイサツ程度だった」とカオルは、私に言い聞かせるようにして語り始めた。「そのあと、二日ぐらいたって彼女は一通の手紙を持ってきて、僕に向かって、好きです、付き合ってくださいと告白した。僕は喜んだ。なにしろ、美人だったからね。しかし、名前を聞いてから、僕はバスケ部の先輩の話を思い出した。水鳥レイには気をつけろ。彼女は男女問わず、だれもかれも告白をする癖があるってね。信じたくなかった。そんなに人間がいるなんて。でも、実際にはいた。告白されたが、ちょっと待ってほしい、僕は先輩のことを何も知らなかったわけだから、返事は後でする、と言ってしまった。言ったが、後の祭りだった。ちゃんと断ればよかったのに、もったいぶったのがいけなかった。期待を持たせたのだ。そういう意味では、彼女の言うとおり、僕にも責任があるかもしれない。僕は好きな人ができてしまったので、付き合いません、と言えばよかったのに」

「じゃ、お前、水鳥先輩のことが好きじゃないのか?」

「違う。手紙を読んでみて、あ、しまったと思った。手紙には、数十行に渡って、あなたが大好きです。愛していますみたいなことが、びっしりと書かれていた。でも、僕の方は、彼女の愛にこたえようがないんだ。ここで、僕は困ってしまった。好きでもない女性と交際すべきか、それとも、きっぱりと断るべきか。どっちだ。でも、断ったら、どんなことをされるか分からない怖さが、その手紙から感じ取られた。さっきの手紙の文章もそうだっただろう?何をしでかすか分からない恐怖があったんだ。僕は怖くなった。それで、彼女を意識的に避けるようになった。すると、一ヶ月たって、2通目が靴箱に入っていた。だんだんと僕を攻撃するような文だったのは、君に言うまでもない。そこで、僕は無視することに決めたんだ。夏休みに自宅の前に来たときは、居留守を使わせてもらったが、あまり、気持ちのいいものではなかったね。彼女が別の男子と歩いているのを見たときは、こう言っては変だが、安心した。これで、開放されるのだと安直あんちょくに考えたからだ。だが、今日、3通目が来た。彼女は僕をあきらめていなかったのだ。松島旅行のときに、君を彼女に近づけさせまいとしたのは、今となっては、正解だったよ」

私は、カオルの対応のまずさを分析するほど、心に余裕はなかった。水鳥に裏切られたのだという思いが、いっそうつのるばかりだった。私と付き合っていた同時期に、彼女はカオルに愛の告白をしたわけだ。私と校内デートをしている間も、彼女の目は、彼に奪われていた。その事実が、心に重くのしかかってきた。

「で、これから、どうするんだ?」と私は尋ねた。「彼女を好きでもないんだったら、ちゃんと、断るべきだろう」

「そうだ。僕はちゃんと断るべきだった。あなたと付き合うことができませんと言うべきだったのだ。斉藤クン、僕は、はっきりと言ってやるつもりだ」

「まあ、がんばれよ。おや、携帯だ。母さんからかな。いや、これは……」

私のスマホがマナーモードで着信したようで、その機体がぶんぶんと震え始めた。服のポケットから取り出して、誰が電話をかけたのか確認してみると、黒井アンだった。

携帯電話の使用は、緊急時を除いて、学校で校則違反となっている。たとえば、家族が急病で倒れたという話ならば、校内での通話が許されていた。しかし、それは例外である。よっぽどの緊急性がなければ、電話をかけるところを教師に見つかった時点で、スマホを没収される。そのことを黒井が知らないはずがなかった。

緊急事態のようだった。

スピーカーから、黒井の声が聞こえた。「もしもし、今、いい?良かったら、どこにいるのか教えて」

「屋上だよ。カオルと一緒にいる。どうしたの。なにか、あったの」

「ちょっと待って」と黒井はスマホを離したようで、彼女の声が遠くなった。「今、屋上にいるそうです。ええ、猪谷君もそこにいるはずです。そうですか。わかりました」

「おい、誰と話しているんだ?」

「あ、斉藤クン?ごめん。カオルに会いたがっている人がいる。だから、そこを教えてあげた。わかった?」

「いや、さっぱり、話が見えてこないんだけど」

「さっきね、ほら、水鳥レイって人が、一年先輩の人がいるよね。あの先輩が、カオルの居場所はどこですかと聞くもんだから、あたし、さあ、どこでしょう、でも、斉藤クンとカオルが、仲良く一緒に教室から出ていくのを見ましたって言ったら、あなたの居場所はどこだ?ぜひ、教えてほしいってせがむの。だから、あたし、今さっきの話なんだけど……」

「大変だ。ごめん。ちょっと電話を切ってもいいかい?」

黒井はいいよ、と言って、そこで、携帯の通話は途切れた。

黒井の話を聞き終えないうちに、すべてを悟った私は、カオルに振り向いて、切迫した調子で、こう忠告した。「カオル、今から、逃げよう。屋上以外なら、どこでもいい」

「どうして?」とカオルは言った。

「黒井がちくったんだ。水鳥先輩がここにやってくる」

「いや、逃げなくていい。ちょうど良い機会だ。このままだと、僕のあやふやな態度のせいで、君やアンまで巻き込まれてしまう」

巻き込まれている、というよりも、むしろ、私は当事者だった。水鳥は一応、元カノになるわけだから。ニセのガールフレンドだったけれども。

「もう遅い。あれを見たまえ」とカオルは、人差し指をある方向に示した。

指した方向にあるとびらが開いた。屋上と階段をつなげる扉だった。

扉から現れたのは、無表情の水鳥レイだった。

すでに、空を赤く覆っていた夕焼けが、彼女の後ろで光を差していた。この後光のせいで、彼女の髪が粟色あわいろに光っていた。普段よりも、さらに、美しさを増していた。

「みーつけた」と水鳥が、獲物えものを定めたタカみたいに、目を細めた。「ようやく、会えたね。もう、会えないかと思った」

彼女はわきめもふらず、まっすぐと、カオルに向かっていった。私の存在を無視していた。

カオルは一歩もその場から動こうとはしなかった。逃げまいと、覚悟を決めたのだろうか。

子供をあやすように優しく、彼はこう語り始めた。「水鳥レイ、僕は、君に会いたくて仕方がなかった。ごめんね。今まで、逃げてて」

「もう、いいの。手紙は読んでくれた?」

「読んだよ。君の気持ちが痛いほど胸にせまってきた。君がそんなにまで僕を想ってくれてるなんて、こんなに、うれしいことはないよ。でも、ごめん。君とは付き合えない」

「でも、好き」

「僕には君とは別に好きな人がいる」

「かまわない。私はあなたを愛してる。あなたが好き」

「いやあ、照れくさいな。女の子にこんなことを言われるなんて、生まれて初めてだよ」とカオルは前髪をかき上げた。「でも、ここで、おふざけはやめにしようか。僕たちは友達から始めるべきなんだ」

「もしかして、私のことがお嫌い?」

「嫌いじゃない。ただの友人になりたいだけ。僕の願いはそれだけだ」

「嫌いじゃない証拠に、私を抱きしめて。そうすれば、あきらめてあげる」と水鳥は言ったが、口元がゆがんでいるのを見れば、明らかにウソだった。

高校生の私にとって、二人の会話は意味不明だった。

大人の洒脱しゃだつな会話ともいえない。かといって、子供が考えるようなロマンチックな会話とはほど遠かった。しいていえば、一つのおもちゃを奪い合う子供同士のケンカだった。

二人とも、お互いに、相手の欲しいものをさし出していた。さし出しされたものを手に入れたほうが、負けるゲームをしていた。カオルが水鳥の体を抱けば、それは彼女の数多い愛人の一人と化していく堕落だらくだった。彼女に飽きられれば、すぐに捨てられる運命が待ち受けていた。一方で、彼女が彼と友達になれば、それは、並みいる女友達と同じ扱いを受ける屈辱くつじょくだった。決して、彼に特別扱いをされることはなかった。お互いが、砂上さじょう楼閣ろうかくのような相手のプライドを突き崩してやろうと企んでいた。そのために、欲望をぶつけあっていた。火花を散らしては、意味不明な言葉を繰り返していた。

似たような会話を何度か繰り返した後、しばしの沈黙が私たちを襲った。

沈黙を破って、話を切り出したのはカオルだった。

「やめよう。水鳥レイ。僕たちは似たものどうしだ。こんなことを続けていたら、きりがないよ。このままいけば、自分たちの自尊心を傷つけるばかりだ。心が参ってしまう。僕は交際しない。君はあきらめる。それでいいね?」

「あなたが望むのであれば。猪谷ししやカオル」

こうして、二人の会話は終わった。

水鳥は、私の方へは見向きもせずに、屋上から去って、階段を降りていった。

それを見送って、カオルは、ひたいに浮かんだ汗をぬぐった。「おかげで、冷や汗をかいたよ」

「なあ、カオル。結局のところ、お前は水鳥レイのことをどう思っているんだ?好きなのか?」と私は詰め寄った。

「恋愛感情はない。おそらく、彼女もないと思うね」

「どうして、そう言い切れる?ひょっとしたら、彼女は本気だったかもしれないんだぜ」

「彼女は、僕を手に入れたかったのだ。僕の心じゃない。僕そのものだ。珍しい宝石を見つけた心境だったのだろうね。たとえるなら、今の会話は、珍しい玩具をゲットするために、子供が駄々だだをこねているようなものだ。僕も、彼女も、ないものねだりをして、子供のように泣き出す寸前すんぜんだったのだ。ああ、情けない」

私の頭では理解できない世界だった。

一つ、理解できたのは、彼女が、私とカオルに対して、うわべだけの愛の言葉を投げかけたという事実のみだった。

裏切り者に同情できなかった。

このときの私は若かった。カオルの言っていることすら理解できず、ひたすら、彼女を憎むことで自分を慰められると信じていた。だが、恋愛にはさまざまな形がある。今ならば、彼と彼女に同情もできただろうに。

思い返せば、この屋上のいさかいが運命の分岐点ぶんきてんだった。

もし、彼が水鳥を受け入れて、彼女と交際していれば、後に起こる悲劇を避けられたはずなのだから。

部活のために、体育館へ行くと言って、私をひとり残したまま、カオルは屋上を後にした。

すこし、頭を整理させたかった私は、夕日が落ちるのを、屋上で静かに見守っていた。スマホを取り出して、黒井からのメッセージがないかチェックしてみた。

――教室で待ってる。すぐ来い

それが黒井の伝言だった。私は黒井が待っている教室へ向かおうと、階段を降りた。

途中で、水鳥レイと出会った。私は裏切った彼女をあえて無視した。無視して、通りすがったとき、彼女は目を閉じて、力なくつぶやいた。

「さよなら、桜」

これが最後の言葉だった。これ以降、彼女とは、一度も会うことはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る