第27話 体育

おそらく、その年の秋は、かなりの冷たさではなかっただろうかと思う。

ネットの天気予報によれば、秋雨前線が近づいた日本は、前年よりも比較的、寒いと言われていたからだ。

寒がりのカオルは、夏服をやめて、もう、冬用の制服で登校していた。私も冬服だったが、他の皆はまだ、夏用の半そでカッターシャツを着ていた。というわけで、二人とも、教室では、目立つ存在だった。

教室では、クーラーががんばって室内を暖めていたが、教師は暑がりが多いようで、室内温度は低めに設定してあった。

「寒いね」と、次の授業の準備をしていたカオルが、隣の席にいた私に向かって言う。「こういう日は、スポーツをして体を温めたいよ」

東京から仙台に来たため、まだ彼の体がうまく順応できていないらしかった。

くすくす笑って、私は、今日が体育授業のある日であることを思い出した。「そういや、体育があったな」

小雨こさめが降っていたが、体育が始まる昼ごろまでには、やむだろう。となると、運動場は、泥だらけになっているかもしれないとカオルは、悲観的な言い方をした。「もう、校庭は水たまりだらけ。泥は、ジャージだけでなく、髪も汚れるから嫌いなんだ」

果たして、カオルの予測は当たっていた。

昼が過ぎると、雨はやんで、雲から晴れ間が筋のように現れた。

体育の授業が始まる前に、別の更衣室で女子が着替えるため、出ていった教室で、男子たちが体操服に着がえていた。

私は貴重品係として、他の皆から、サイフなど貴重品を集めて、専用の袋に入れていた。この袋を後で、先生に渡すためだった。それなりに、責任が重く、本来は、学級委員の仕事だったが、先生の指示として、私に任されていた。

クラスメイトの一人が、上半身をあらわにして、「どう、この筋肉!」と、自分の裸を見せびらかしていた。彼の名前は岡野だっと思う。野球部で鍛えた体は、さすがに、ほれぼれするほど強く引き締まっており、肩の辺りが隆起りゅうきしていた。

「貴重品はないのか?」と私が岡野に問うと、彼は「いや、見ちゃいやーん」とおどけた声で返事をした。

裸を見せたいのか、見せたくないのか、どっちなんだ?

あきれて声を出せなくなった私に、カオルがサイフを渡してきた。「斉藤クン、これ、頼む」

「ああ」

「君もさっさと服を脱いだら」

私は、皆が出た後でそうするよと答えた。まず、貴重品を全員から預かっておく必要があるからだ。

他の人間が出た後、がらんどうとなった教室で、私は着替え始めた。とはいっても、体操服の上に、学生服を重ね着していただけなので、服を脱げばよかった。脱いだ上着を、イスにかけた。

そのとき、地面に手紙が落ちているのを見つけた。ピンクの小さな封筒である。ハート柄があしらってあるので、ラブレターだと考えられた。

私はそれを拾って、表を見てみた。

あて先は、「猪谷カオル さま」となっていた。

差出人はどこにも見当たらなかった。封はノリでぴったりと貼られてあり、封筒を開封した跡はない。だとすると、この手紙はまだ、誰も読んでいないということになる。

カオルがラブレターをもらって、それをカバンにしまい忘れてしまったのだろう。

どうして、すぐに開けて読まないのだろうか。

もし、私が、万が一にだが、女の子から手紙をもらったら、間違いなく、すぐに封を開け、中に入っている文を読むだろう。そうしなければ、彼女を無視しているも同然になるからだ。スマホでメッセージを読まないことと同じ行為だった。

カオルは、無視された人間の感情を考えていない。そうにしか、思えなかった。

授業が終わったら、彼に直接、問いただしてみよう。

開始のチャイムが鳴り始めたので、あわてて、ラブレターをカオルのではなく、自分の机に片付けた私は、服を脱いでからジャージを着て、貴重品袋を持って、校庭に出た。

もうすでに、そこには、私のクラスの生徒たちが整列して並んでいた。私は持ってきた袋を体育教師の園田に渡して、その列に並んだ。

校庭は地面が雨にれて、カオルの言うとおりになっていた。これでは、ジャージが泥で汚れてしまうのは避けられなかった。授業の内容によっては、中に着た体操服までダメになるかもしれない。

「園田先生、今日はなにをするんですか?」と同級生が聞いた。「マラソンですか?」

袋を近くに置いていた園田が、にやっと笑って、びしょぬれになった運動場を指さした。「お前ら、喜べ。最近は、ずっとマラソンのみだったから、飽きただろう。今日はサッカーだ」

喜べません、先生。

サッカーはボールを蹴る屋外スポーツだ。よって、ボールが跳ねると、土を巻き込んではねる。それならば、まだいい。泥で汚くなったサッカーボールが、自分のところへきたら、全身、それそこ泥まみれだ。

何を考えているんだ。こういうときこそ、おとなしく、マラソンでグラウンドを走ればいいではないか。

生徒たちの思いが、一つとなった。

「先生」と生徒の一人である上野が、クラスを代表して言った。「こんなグラウンドでは、サッカーは難しいのではないでしょうか。どうか、ご再考を」

彼のかけたメガネが、日に反射して光った。

「さすが、学級委員長!」と誰かがはやした。上野はみんなから信頼されており、学級委員に選ばれていた。

しかし、園田先生は、この提案を拒んだ。「不満は分かるがな。お前たち、先週の授業で何を言ったかを忘れていないか。先生、心臓破りの坂でマラソンは自殺行為です。やめてください。お前たちがそうブーブー言うから、わざわざ、計画から取り外したんだぞ。文句を言うな」

私は先週のことをはっきりとおぼえていた。

体育で、マラソンをした。校庭を走るだけでなく、学校外に出て、心臓破りの坂を下って上がるというハードなマラソンだった。あれは地獄だった。私は、坂の途中で走るのをあきらめ、ついには歩き出したくらいだった。

カオルは平気で、汗を流さずゴールをしていたが、これは問題外と言うべきだろう。

園田に誰も言い返せないので、今日はマラソンではなく、サッカーの授業となった。

ウォーミングアップとして、二人組みで準備体操をすることになった。私は、王路おうじという同級生と組まされた。この子は野球部で、同じ部の岡野と、いつも昼休みに、外で、ボール投げをして遊んでいた。

王路がストレッチをしながら言った。「斉藤クンは、サッカーできるの?」

私はできないと答えた。できるとすれば、軽いパス回しだけだ。試合は無理だった。そのことを彼に言うと、彼は奇妙な顔で尋ねてきた。「じゃあ、体育を休めばいいのに」

「それは、協調性がない行為だ。体育の成績にも響くしな」

すると、王路はますます顔をこわばらせた。

準備体操が終わって、パスの練習をするために、今度は、三人組でボールを蹴りあうように、先生に言われた。

私と王路、さらに、彼と親しい岡野を加えて、三人で、パス回しをした。

私の蹴ったボールが、岡野の前までころころ転がって、そこでぴたりと止まった。どんなに強く蹴っても、岡野まで届くことはなかった。

「もうちょっと、ちゃんと蹴れよ」と岡野が私に向かって、不平を言った。

「仕方ないよ」と私は言い返した。

まあまあと、それを見ていた王路が二人をなだめた。「二人が近寄ればいいだろ。距離を詰めればいいじゃん」

結局、三人で小さな輪を作り、そこで、ボールを蹴りあった。

万事が万事、このような調子だったので、授業中、私はサッカーの試合には参加できなかった。コートの横に立って、カオルたちを応援するしかできなかったのだ。

授業が終わると、さすがに、生徒たちの服が、泥にまみれて、めちゃくちゃになっていた。私のジャージも無事ではなかった。

「いわんこっちゃない。これじゃ、授業に出られないよ」と珍しくカオルが弱音を吐いた。彼の髪は、泥水でれており、ことさら、輝きを増していた。

私の方も、体操服がダメになったので、学級委員の上野に貴重品袋を渡して、教室に着替えを取りに行ってから、保健室で汚い服を脱いだ。

着替えが終わると、保健室へ、上野が入ってきた。「斉藤クン、もう、入ってもいいかい?」

「いいぜ、上野」

「これは君のサイフだろう?最後に残っていたんだ」

「ああ、サンキュー」と私はお礼を言って、彼から自分のサイフを受け取った。「世話かけたな」

「いいよ。次の授業があるから、僕はこれで。あ、そうだ。カオルの封筒を知らないかい?」

上野は保健室から出るとき、手紙の行方を聞いてきた。「カオルが教室に帰ってみると、授業の開始前にあった手紙が机からなくなっていたらしいんだ。ピンクの、手のひらサイズの封筒らしいんだけど」

「知らないな」

このとき、上野のメガネがきらんと光った。彼の口元は不思議な笑みを浮かべていた。

「教室を出たのは、斉藤クン、君が最後かい?」

「ああ、そうだよ」

「そのとき、不審人物を見たとか?」

「ねえよ。わかった、わかった。上野。俺の降参だ。俺が拾ったんだ。あとで、拾った手紙をカオルに渡しておくよ。今は持ってないからな」

そういうと、上野は納得したのか、「じゃあ、カオルに伝えておく」と言い残して立ち去った。

まったく、うちのクラスは、どうして、こんなに曲者くせものぞろいなんだ?

さっきの上野にしろ、黒井にしろ、カオルにしろ、一癖ひとくせ二癖ふたくせもありすぎる。

私が教室に戻ると、すでに、授業が始まりそうだった。私はカオルに手紙のことが聞きたかったので、あえて、人の少ない放課後に渡すことに決めた。

隣の席に座っているカオルに、私はこう、ささやいた。「俺、手紙持ってるんだけど、放課後に返してやるよ。なぜかって?お前にひとつ、聞きたいことがあるからな」

彼は、それを聞くなり、ため息をついた。勝手にしろと言わんばかりに、片手を左右に振った。

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