第26話 文化

「残念だ。非常に残念でならない」

映画を見終わった後、私たちは映画館の近くにカフェに移り、それぞれの飲み物を注文して、一息ついたところで出たカオルの第一声がこれだった。

私は、面白いやら、あきれ返るやらで、彼の様子をじっくりと観察していた。「どうしてだい?」

「面白かった。スタッフが優秀だった。すばらしい映画だ。それなのに、ひどく残念に思うんだ。どうして、あんな事実とは違うシナリオにしたのか?残念でならない。ため息が出る。ささいなことだが、この欠点が目立ってしまうんだ」

「確かに、楽しめたよ。俺はね。お前の言う、ささいな欠点と言うのは、おそらく、ボーアに賛同した点だろ」

「本当なら、ボーア批判を展開してなければならないのに、主人公が、それを受け入れてしまっている。いや、でも、そんなことが大きな問題じゃない。ミンコフスキーが時空間のアイデアを出したことなんかも無視されているんだよ」

私は、すぐさま、「ミンコフスキー」という名前を、スマホを使って検索して調べた。すると、数学者だという情報と、4次元空間に関する情報の二つが出てきた。数式もあったが、それは無視した。「なるほどね。まあ、でも、多少のウソは、映画だし、許されるんじゃないか、と俺は思っている」

「ウソを許すには、僕の心がそこまで寛大ではないことを、君は知るべきだろう」とカオルは遠まわしに、私を批判した。「斉藤クン、君は、いつも、オカルトをけなしているね。いや、否定しても、僕は知っているよ。アンの前世話を心から信じていないのは、明らかだ。でも、この映画は、君の言うオカルトに当てはまるような気がするね。だとしたら、この映画のウソを許すのは、どういうわけだい?」

「たかが、映画だからだ」

注文していたフルーツジュースが席に届いたので、私は、口を付けた。カオルはコーヒーだった。

「されど、映画だ。大勢の人が見ているから、影響力も半端はんぱじゃないんだよ。ウソがどれだけ拡散するのか」

カオルの心配は当たっていた。

私は、いつも、ネットで情報を検索するため、デマといった悪質なウソの情報が、いろんなところで出回っているのに気が付いていた。学校で情報リテラシーを習っていたが、それでも、事実かどうかを見抜けるのは至難しなんわざだろう。全員ではないにしろ、誰かがウソを信じていた。そのウソを信じた誰かが、さらにニセ情報をネットに流すことによって、デマは拡散していった。

それを止めるためには、正確な情報が必要だ。でも、何が正しいかなんて、一介の高校生が区別できるわけがなかった。

「確かに、ウソは広まる」と私は認めた。「しかしだが、それに対する反論も広まるかもしれない。この映画の感想を語り合うサイトがある。だから、感想コメントで、今のミンコフスキーやボーアの話をすればいいと思うぜ」

「僕はネット端末を持っていないのに?それとも、君がするのかい?」

私は、いや、しないと答えた。

でたらめなことが広がったら、それはどうなるのだろう?

宗教が現れるのだとしても、それならば、年中、ネットで新しい宗教が出てくるはずである。オカルトや非常識な見識として、いつか消え去ってしまう情報になるのだとしたら、拡散とは逆に、縮小へと向かうはずである。だが、現実は、ひたすら、うわさは噂として広がり続けるだけだ。もし、噂が普及したら。もし、誰もが知っている当然の考えとして、受け止められてしまったら。それは、おそろしい空想だった。

「もし、仮に、仮にだよ、ウソやデマが広まって、それを誰も疑わなくなったらどうなるんだ?」と私は空想を口に出してみた。出したとたん、身震いをした。

「それは文化だ。皆が洗脳されてしまったら、もう、どうしようもないんだよ。それを変えることができる天才が現れるのを待つばかりだ」

さらに、コーヒーにミルクを混ぜながら、できたうずを見ていたカオルがこう言った。

「映画はウソだ。だから、仕方がない。そこまでは君の主張を受け入れてもいい。でも、ね。だからこそ、それを疑うことに、心理的なストップをかけてはいけないし、僕たちは疑いをかけていくべきなんだ」

「悪い。そこまで、俺、頭が良くないんだ。懐疑主義者になれってことか?なんでも疑えってこと?」

「なんでもというわけじゃない。それだと猜疑心さいぎしんのかたまりになってしまう。常識を疑い始めたら、きりがないよ。人間関係にも問題が出てくる。だから、あからさまなインチキに対して、ウソではないのか疑うという態度からスタートさせるんだ。ウソを見つけたら、ウソかどうかを確認する意味でも、疑いをかけること。もしかしたら、ウソではない本当の可能性もあるわけだ。真実に従うには、それを信じるのではなく、ウソを疑うことから始めるべきだと思うね」

これには一理あると思えたが、ウソも方便と言う日本社会には合わぬようにも思えた。

何か虚偽にすがらなければ、大人たちは生きていけない。

かくいう私もそうだった。

いつわりの自分。

見栄みえを張った自分。

黒井アンの笑った顔を思い出した。あれを、自分のものにしたい。恋焦こいこがれながらも、私は、自分の気持ちを、自ら内部に押しとどめた。

すべてはウソだった。私の一挙一動すべてが。

黒井に告白するチャンスはあった。それをしないのは、いつまでも、虚偽にすがっていたいからだった。

臆病おくびょうさゆえの傲慢ごうまんだった。

このことを、カオルに話そうかどうか、迷った。だが、女性店員に、笑顔で、手を振っている彼を見て、なぜか、話すのをはばかられた。

「お前の言うことも分かる。分かっているつもりだぜ?」と私はためらいながら言った。「疑うのは大事だ。でも、みんながみんな、お前みたいに、ウソをつかずに、正直に生きてるわけじゃないんだ。どこかで、ウソをつく。後ろめたい秘密を持って、それを両手で隠している」

さきほどまで、笑顔だったカオルの表情が一変した。一瞬で、顔から笑みが消え去って、面の奥底から、冷たいまなざしを持った厳しい表情が浮かび上がった。

「違う。僕もだ」

「え?」と私は聞き返した。

「僕もそうなんだよ。僕も、ウソをついて、ひたすら隠している」

「なんのことだ?」

「まあ、いいさ。それよりも、映画の俳優で気になった人がいたかい?僕はヒロインの、ほら、ほっそりとした女優。あの人は、ダイエットして映画にのぞんだと思うんだが、なかなか、いい演技をしていて、感心したんだ」

彼はコーヒーを飲み干すと、何事もなかったかのように、映画の感想を語り始めた。彼の言ったことに気になりつつも、私はつられて、感想を言い合った。

いったい、彼の言うウソとはなんだろうか?

うまく話をはぐらかされた私は、感想を述べている間も、ずっと、彼の真意を考えていた。そこには、どうしようもなく大きな秘密が隠されているように思えた。

それは私に言えない秘密みたいだった。私に関係するものだろうか。そうだとすると、なにか私にとって不利になるような、不吉な良からぬ事なのだと察せられた。

どんなことがありえるだろう。

黒井アン。

まさか。

ぱっと思いついたが、あまりにもばかばかしくて、その考えは捨て去った。

彼らは親戚なのだ。

恋人同士であるはずがないし、これからもそうなる予定はないはずだった。店を出て、そのことを確認してみたが、カオルは、「好意なんて、あるわけないだろう」と私の妄想を一蹴いっしゅうした。

では、何なのだ。

気になるので、帰り際にもう一度、秘密を、彼から聞き出そうとした。

だが、逆に、私が持っている秘密を教えてくれと、彼に質問された。「君が、君の秘密をひとつでも教えてくれたら、僕も教えてあげる。斉藤クン、君が隠している秘密は何だ?」

黒井を愛してると、ノドまで出かかったが、先にカオルの秘密を聞きたかった私は、こう言い放った。「お前が先に決まってんだろ!」

カオルは、「なら、取引はなしだ。さようなら」と言って、私と別れた。

外は涼しかった。

そろそろ、秋が近づいていた。

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