第24話 海岸

私たちが海岸の砂浜に着いたときには、多くの人でにぎわっていた。

近くに座れそうな足場を見つけて、カオルと私は、二人仲良く座った。水に浮いた亀の背のように、松島が海でぽっかりと浮かんでいた。

リュックサックから、デジカメを取り出したカオルは、私の写真を撮りはじめた。フラッシュがたかれたので、私の目がくらんだ。

おもわず、体がよろけそうになった。

寸前のところで、カオルが自分の手を伸ばして、私の体を支えた。「おい、大丈夫か?」

大丈夫だと答えたが、彼はなおも、私を抱いたままだった。「もう大丈夫だから」と私が言うと、我に返った彼はあわてて、手をどかした。

私は、自分の背中に、力強く抱きしめた彼の手の感触がまだ暖かく残っていることに気づいた。信じられないほどの力強さだった。スポーツをやっている人間の手が大きいのは知っていたが、私の背中全体を包み込んでくれるような広さだ。

「すまない」と彼は謝った。

何に対する謝罪だろうか?

倒れそうになった私を助けてくれたのだから、彼が謝る必要はなかった。

「いいよ、別に」と私は言った。

本当ならば、私のほうこそ謝罪しなければならなかった。

彼に対して、水鳥と付き合ったことはないというウソを言ってしまった。もし、彼女が私と交際していた事実を、カオルや黒井に話してしまえば、その時点でウソは明るみに出る。彼の信頼を失うだろう。

松島の海は穏やかだった。

小さなさざ波を見ていると、水鳥の美しい顔が浮かんでは消えた。

私は忘れたかった。

でも、絶対に、あの美しい女性を忘れることなどできやしないだろう。

もう、彼女にふられた。それなのにだ。

私が感慨にふけっていたとき、カオルが次のことを頼んできた。「君に頼みがあるんだ。僕が今日言ったことは、アンや他の人には内緒にしてくれないか。父と母の話は、あまり、人にすべきではなかったと、今さらながら後悔している」

「もちろん、いいぜ。他人に言わないでおいてやるよ」

「ありがたい、斉藤クン」

「それといっちゃなんだが」と私は言葉を慎重に選んで言った。「水鳥の件は、ええと、蒸し返さないでくれよ。黒井が何か言ってきても、お前なら、適当にあしらえるだろ、な?」

「いいとも」

私たちの旅行は、お互いを知るには良い機会だった。それは同時に、自分たちが、いかに、価値観の違う人間かという真実を、まざまざと見せつけられる旅でもあった。

カオルは未来におびえていた。うれいがあった。医者になるという、確固たる目標があったにもかかわらず。

目の前には、はるか遠くまで道ができている。彼の将来は、この道を突き進むのみ。だが、すでに決められていた道から踏み外す恐れを、抱いていたのでははないか。

そのために、女性と恋愛関係になるのを避ける傾向があるのを、彼自身が自覚していた。これだけ、もてているのだから、何もためらう必要がない。彼は、女性と会話がしたくて、旅行中、他の女性客に対して、一緒に旅をしないかと何度も誘っていた。それでも、決して、そこから先に進もうとはしなかった。相手の住んでいる家がこの近くにあることを知ると、とたんに、冷淡れいたんになった。相手が自宅に来ませんかと誘えば、それをにべもなく断った。恥ずかしかったからではない。深入りするのを避けていたのだ。

私だったら、その誘いに乗らないわけがなかった。大喜びで、女性へ付いていくだろう。

私の将来は漠然ばくぜんとしていた。彼が一本道であったのに対して、一方の私は、ひたすら、砂漠を歩くようなものだった。どこに、どんな未来があるのかも分からなかった。取るべき進路すら考えたこともなかった。

今は、恋愛しかなかった。将来なんて考えたくもない。

「また、来年に、松島にこよう」とカオルが言ったので、私は「よし。いいぜ」と言ったが、その来年が無事に来るのかどうかすら、今の私には分からなかった。

「あそこから、月が昇るときれいなんだろうね」とカオルが、海の向こうを指して言った。指の先には松島があった。

「そうだな」と私は同意した。

「あ、斉藤クン。松島をバックに、二人で写真を撮らないか?僕のデジカメで」

「俺のスマホでも写真はいけるぜ」

「いや、いいよ。僕ので、記念写真を残しておきたいんだ」

「だったら、海水浴の客に、頼もうか、カオル」

「いや、自撮りがいいんだ。こっちに寄って」

デジカメを手に持ったカオルは、私に手招きをした。

私が彼の隣に座ると、二人はお互いに後ろに振り向いた。

「いいかい、撮るよ?」

私の顔のわずか十センチ先まで、カオルの顔が近づいた。すると、あろうことか、彼は、デジカメを持っていない手で、私の肩を抱き寄せた。

とっさのことだったので、無抵抗だった私の体が、彼の体とぶつかり合った。彼の厚い胸板が私の肩と腕に衝突を起こして、私の心臓の音が肌を伝って彼に聞こえてしまいそうなぐらい、お互いが触れ合った。カオルの服が、するすると私の服をなぞった。

「な、なにを・・・」

「こうしないと、うまく、松島が入らないんだ」とカオルが言ったが、私はそれを信じなかった。

私は力いっぱい、カオルを突き放した。

冷たい目で、私は彼を見た。「お前、なんで、こんなマネをした?」

「なぜって、写真を撮りたかったからだよ」

「俺たち、親友だろ?だったら、なんで、こんなばかげたことをしたんだ?」

「友達でも気軽にするよ?違うのか」と彼は弁解べんかいした。

私は無言で、彼をにらんだ。

彼が謝った。「ごめん。ふざけすぎた」

彼の行為を許せなかったが、水鳥レイのことを考えると、思い直した。「いや、いいんだ。俺こそ怒りすぎたよ。でも、もう二度とすんな。したら、絶交だからな」

「本当にごめん。反省してる」

立ち上がった私は、今までのことをきれいすっぱり忘れたかったので、お尻にかかった砂を払った。砂が彼の顔にかかって、私のささいな復讐ふくしゅうげられた。

腕時計を見ると、午後2時を過ぎていた。

海面が先ほどと違っており、潮が満ちはじめていた。何百年も前から、満ち引きをしているのだと思うと、私は気が遠くなった。カオルが死んで、私が死んだ後でも、この海はなんら変わらないはずである。

それから、二人の将来に思いをはせた。カオルが医者になるころ、私は何になっているのだろうか?あるいは、何を目指そうと言うのか?

「お前、本当に医者になる気なのか?カオル」

「なるとも。僕は人の命を救いたい。助けるんだ」

それは彼の強い意志から発せられた言葉だった。そこに、ためらいや、不安はなかった。

「部活と恋愛はどうする?」と意地悪をしたくなった私は、あえて、この卑怯ひきょうな質問をぶつけてみた。

すると、彼はこう言ってのけた。「僕は、両てんびんにかけたりはしない。勉強だろうと、部活だろうと、恋愛だろうと手を抜かない。全力を尽くすさ」

「カオル、もし、そうなら、当然、好きな人に告白するんだよな。好きな人はいるんだろ」

「いる」

いないとばかり思っていた、私の予想を裏切る回答だった。

彼のまなざしは、私の顔をとらえて離さなかった。真剣だった。私はその目に、恐怖を覚えた。それは嫌な予感だった。

それきり黙ったまま、私たち二人は、海岸を後にした。

帰りの電車の中で、カオルは、写真を確認するために、デジカメに付いている液晶画面を見ていた。恥ずかしいので、海岸でのツーショット写真を消してほしいと、私は懇願こんがんしたが、彼はこれは記念だからと一歩も譲らなかった。

いったい、なんのために、こんな人を抱くような写真を撮ろうとしたのか。

海岸のことは、イタズラのつもりだろうか。それとも、外国の軽いハグのような、単なる親愛表現に過ぎなかったのだろうか。私にはまったく見当がつかなかった。仮についたとしても、それを知りたくもなかった。

そもそも、カオルには、好きな人がいる。

その正体をなんとかして探りたかったが、カオルは、私に質問攻めされても、はぐらかすだけだった。

「いつか、君にも教える」と電車の外に目をやりながら、カオルは答えた。「今はその時じゃない」

「まさか、母親じゃねえだろうな」

「違う。まあ、約束するよ。僕がこの世で一番好きな人を、いつか、君にも明らかにする」

結局、何も分からないまま、私は旅を終えた。

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