第22話 旅行

二日目の勉強会は、余計な雑談をせずに、カオルの部屋で、宿題を終わらせることに力を注いだ。

それが済んだので、カオルが旅行の計画について、話し合うべきだと言った。

黒井はどんなおみやげを買うかを考えていたらしく、それらをリストに挙げていった。高校生が持てる予算を超えたので、その大半はカオルによって外された。

「君は金持ちすぎて、貧乏な僕たちの予算を考えるのは無理そうだし、かといって、買い物しない僕も金銭感覚が危うい」とカオルはため息をついた。

結局、お金の管理は、私に任された。

旅行の行程ルートはカオルがすでに考えていたので、私たちが考えるべきは、保護者にどんな言い訳をするかだけだった。旅行の口実となると、いろいろと思いつく。たとえば、友達と電車に乗って、駅めぐりをするだけだ、でもいい。私たちは高校生なので、外泊は絶対に許してくれないだろうが、日帰りならば、どうとでも言える。

だが、三人が、別々の説明をするのは良くない。問題があった。後で、保護者が互いに連絡を取り合ったときに、つじつまが合わなくなるからだ。

つまり、口裏あわせだった。

「じゃあ、こういうのは?」と黒井が次のような提案をした。「あたしたち、一人旅に出ると言って、偶然、旅行先で出会ったことにするの」

「僕は、一人旅でも構わないのだが、斉藤クンと、君のお兄さん、その、ええと、公彦は許可を出すかな?」

妹に対する、公彦の過保護っぷりを間近で見ていたので、私は無理だろうと考えた。

そこで、黒井に代わって、私が次の案を出した。「こんなプランはどうかい。俺と黒井さんは、二人で電車旅行することにする。前もって、家族にはそう説明しておく。偶然、そこに一人旅をしていたカオルが電車で乗り合わせた。意気投合して、松島まで行った。これなら、どうだろう」

「それなら、支障がないね」とカオルが賛成した。

「問題なし」と黒井。

私のアイデアが採用されたところで、勉強会はおしまいとなった。

そして、とうとう、旅行の予定日である、8月1日となった。

仙台からひたすら、太平洋側へ西に行くと、塩釜港に出る。港と言っても、漁村というより、むしろ、水産工場が立ち並んでいる工業地帯に近かった。そこから、海岸沿いに、北へ北へと進んでいくと、松島を展望できる松島海浜公園という大きな砂浜があった。そこが目的地である。

仙台を出発点とすると、電車でも車でも、一日で帰るためには、松島に渡る時間はなかった。それでも、久々に旅行する私にとっては、贅沢ぜいたくすぎる旅だった。

8月1日に、仙台駅に待ち合わせていた私は、小さなキャリーバッグを持って、ジーパンに半そでシャツという、自由に動ける服を着て、朝早くから駅前の階段に立っていた。

朝8時集合だったが、待ちきれずに、早めのバスに乗って、午前7時ごろに駅へ来ていたのだ。まだ、そこに黒井とカオルの姿はなかった。

二人が遅れているわけではなく、私が早く着きすぎただけだった。

のんびりと待っていると、いろんな風景が見られた。通勤客が次々と駅のプラットフォームへ吸い込まれていった。観光客の団体が大勢で、あちらこちら、所狭ところせましと、構内を歩き回っていた。

カオルが待ち合わせ場所に来たのは、7時50分のことだった。

「待ったかい?」とカオルが呼びかけた。

「待ったよ。お前がスマホを持てば、こういう苦労はしなくてもいいんだけどな」

「それは僕も同じ意見だ」

カオルを見てみると、スエードの靴に、黒に近いアイビー調のスラックスをはいていたが、シャツは学生服と同じ白いカッターだった。古臭いのが好みなのだろうか。青と白のスプライトが混じった小さいリュックサックを肩にかけていた。

「アンはまだなのかい?」とカオルが聞いた。

私はまだだと答えた。まだ、来ない。おかしい。そろそろ、8時になるのに。

ふと、スマホを思い出して、私は画面を見た。

思ったとおり、黒井からのメッセージが届いていた。

――カゼいけぬ

たった五文字だったが、それでも悲痛な気持ちがよく伝わってきた。

マスクを付けた黒井がベッドで横になりながら、熱にうなされつつ、最後の気力をふりしぼって、スマホの画面を指でなぞる姿が、容易に想像できた。かわいそうに。

「彼女、病気のカゼみたいだね。今日は来られないって」

「そうか、残念だな。あんなに楽しみにしていたのに」

そもそも、松島へ行きたいと言い出しのは、黒井なのだから、その無念は察して余りあった。

となると、旅行をどうするべきだろうか。中止にするべきか。

私たちは話し合ったが、そのまま続行した。なぜなら、カオルがぜひ君と行きたいと言ったからだ。

やめることも考えたが、彼と二人旅も悪くないと考えるようになった。友達と旅に行くなんて、数年ぶりのことだった。これを逃せば、しばらく旅行ができないのではないかという恐れがあった。

親には、学校の友達と二人旅をするのだと伝えてあった。その友達が黒井から、カオルに替わったのである。どこにも問題はない。

列車に乗って、二人だけの旅が始まった。

カオルは旅行中、無言だった。

せっかくの旅行もこれでは台無しだった。

電車の二人用席に座っている間、ずっと、彼は、窓の外を眺めながら、風景に見とれているのか、あるいは、考え事をしているのか、どちらか分からないような態度を取っていた。表情も心なしか固く、いつものさわやかな笑顔がそこにはなかった。

お腹でも痛いのだろうか。

それならば、私に言ってくれれば、腹痛の薬を持ってきていたので、それをやったのだが。

一向に、私に声をかけてくる気配がなかった。

私の方からも、声をかけづらかった。

隣に座っている私は、ひたすら、私の方を向いて、何か、しゃべれ、しゃべれ、と心の中で念じたが、彼が口を開くことはなかった。

こんなにコミュニケーション能力が欠けた人間は生まれて初めて見た。

なにか、話題を見つけてくれればいい。

だが、彼はそれができないのだ。

なぜだろう?

会話のしづらい雰囲気を、電車がかもし出しているわけではなかった。ごとん、ごとん、と揺られながら、車内に差し込んだ朝日が、実に気持ちがいい。それなのに、まるで、カオルは、暗いトンネルを突き進んでいってがけに落ちているのを、ただ呆然ぼうぜんと眺めるしかないような無力感すら、ただよわせている。

なぜ、そんなに彼が追い込まれているのだろう?

私は彼をにらんだ。

昼前、駅に着くと、すくっと立ち上がったカオルが思い立ったように、こう言った。「何か、飲み物を買ってこようか?何がいい?斉藤クン」

「俺は何でもいいよ。コーヒー以外なら」と私はとげとげしく、言い放った。

「じゃあ、僕と同じようにサイダーでいいということだね」

電車を降りたカオルは、駅のプラットフォームにすえつけられたジュースの自動販売機で飲み物を買った。

すると、そこへ、三人の見知らぬ若い女たちが、駆け寄ってきた。

とたんに、信じられないことが、私の眼前で起きた。

あたかも、つぼみだった花が咲いたかのように、ぱっと明るい笑顔で、カオルが応じ始めたのだ。

4人の話し声は聞こえなかった。しかし、楽しそうに話しているのだけは、車内から見ても、すぐに分かる。

あの、アンポンタン。

心配して損した。

腹が痛いわけでも、ご機嫌ななめでもなかった。単に、私と話すのが億劫おっくうだった。それだけだった。

カオルが炭酸飲料を手に戻ってくると、私は問いただした。

「カオル、あの女性たちと、何を話していたんだ?」

「何って、この間のバスケの試合を観覧かんらんしていた子たちなんだ。僕のファンになったというんで、握手を求められてさ」

「ほう」

「あ、これ、君のサイダー」とカオルがジュースを私に手渡した。「聞いたら、同じ高校だから、こんな旅先で会えるなんて、偶然だね、奇跡だ」

「ほう、それで」

「そう言ったら、向こうも本当に幸運です、と喜んでいた」

「ほう、それで」

「あれ?斉藤クン、なんで怒っているの?僕がなにか、気にさわることを言ったかい?」

「いや、先をどうぞ」と、私は腕組みをした。「お気になさらずに」

「それでさ、飲み物があったし、列車がまもなく発車するんで、3人の名前のみを聞いて、別れたんだよ。ああ、僕、もっと、おしゃべりをしたかったな」

本当に残念そうな言い方をしながら、カオルはペットボトルのジュースを唇に近づけた。

このペットボトルに、毒薬でも入ってたらいいのにな。

もし、ここが電車の中ではなく、誰もいない崖だったら、間違いなく、彼を突き落としているところだっただろう。

列車は、私の殺意を乗せて、ゆっくりと、走り始めた。

午前九時を過ぎたころ、列車は塩釜駅へ到着した。そのときには、海が遠くの方で見え始めていた。

「海水浴に行ったことは?」

カオルの質問が唐突だったので、私は返答にきゅうした。

「僕は、なんどか、行ったことがあるんだよ。近くに砂浜があったからね。泳ぐのは得意なほうなんだ。君はどうだろう?」

行った事はある。まだ、幼いころの話だ。だが、学校に通い始めてからは、ほとんど行っていない。親に誘われようが、友人に誘われようが、行きたくないものは行きたくなかった。

カオルにそのことを話すと、彼は不思議そうな顔をして、私を見た。「ふうん、海水浴はあまり行かなかったのか。じゃあ、プールは泳いだことがあるだろ?」

「それは小学校のときだけ。中学校になると、ほとんど、休んでいたんだ」

「泳ぐのが嫌いなのか?」

「嫌いじゃない」と私は、ゆっくりと自分の言葉をかみしめるかのように言った。「泳ぎたいよ。そりゃあね。でも、俺は嫌なんだ」

「何が?」

「俺自身が」

「哲学的な回答だな」

このとき、私は、彼に私自身を理解してもらえないことを知った。それは、悲しいことだったが、当然のことだった。彼は常識人だった。私の説明は、その常識の外にあった。

その後も、彼と私の間で、ちぐはぐな会話が続いた。

放課後のときとは違って、私たちは、いつまでも平行線をたどった。

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