第21話 努力

その日、私は多くのことを、カオルの部屋で学べた。

カオルがいつもよりも話す量が多かったせいか、彼の考え方というものを、いろいろな見方から比較できた。

カオルは、ほとんど、知識を本から得ていた。にもかかわらず、人と話すときは、そういった知識よりも、他人から得た少ない知識の方を、最大限に活用していた。多少、くだらないような話題を繰り返しても、かまわないようだった。

黒井アンだけは、例外で、ことごとく、彼女の意見を否定するかのような態度を彼は取っていた。おさななじみの彼女には、甘えている印象があった。

二人の仲は、私が当初考えていたような男女の関係と言うよりも、親兄弟の関係に近かった。

自分たちがただの親戚に過ぎないと言う、二人の言葉が信用できるかどうは定かではなかったけど。

そこに私が割り込んだわけだが、これが、不思議とうまくいっていた。三人とも仲がよいと言うわけではない。私とカオルがケンカしそうになると、必ず、黒井が止めに入った。逆に、私と黒井が気まずくなると、カオルが仲裁ちゅうさいの役を買って出た。黒井とカオルの間に、亀裂きれつが入ると、私が、それをふさいだ。三人が三人とも、関係がこじれないように、うまく立ち回った。

こうして、奇妙なバランスを取りながら、勉強会は進んでいった。

昼三時を過ぎたとき、今度は旅行に行こうと提案したのは、黒井だった。

「ねえ、勉強ばっかりだと、つまんないから、今度は、どっかへ遊びに行かない?」

「海外はダメだよ」とカオルが言った。

「国内。しかも、近場」

「だったら、どこがいいんだい」

彼女は松島が良いと言い出した。あそこは、まだ行ったことすらないと言う。私は小学校のときに、社会見学という名目で、近くの水産工場へ行ったことがあった。カオルは、東京にほんの前まで住んでいたため、松島に足を運ぶ機会がなく、一度は言ってみたいと彼女の提案に乗り気だった。

すると、それを聞いた黒井は、目を輝かせて、「じゃあ、8月1日、3人で松島へ日帰り旅行しよう」と旅行の日取りまで決めてしまった。

私もカオルも、その日に問題がなかったので、賛成した。

後から考えると、これは大失敗だったのだが、そのときの私たちには、目先にある青春ライフしか興味がなかった。

旅らしい旅行をしていなかった私は、黒井とカオルとともに、松島へ行けることを心から喜んだ。松島は仙台のはるか東、離れた場所にある。電車で1時間はかかる。日帰りだとすると、そこで、遊べる時間は限られていた。しかし、それでも、この三人とならば、面白い経験ができるだろう。

そう思うと、学校の宿題を、なにがなんでも早く終わらせようと奮起ふんきした。

目標が決まった人間は、自分でも知りえなかった力を発揮するものだ。今日の持ってきた分を、あっという間に終わらせてしまった。もちろん、カオルの助力があってこそだった。

「信じられないな。奇跡だ」と私が言うと、カオルがそれは奇跡ではなく、私の実力だと述べた。

「君はね、自分を愚かな人間だ、バカな人間だと思い込んでいるんだよ。その思い込みは事実だが・・・」

「いや、そこは否定してくれよ」

「それを学ばない言い訳にしているんだよ。部活も勉強も、恋愛も、どこかで逃げるわけにはいかないんだ。努力が足りないと大変なことになる」

「お前は、天才で自信家だから、努力なんて要らないだろ。俺は努力しても、うまくいかないことが多いんだよ。どんなことでも失敗する」

私は黒井の方をちらっと見た。彼女は、私とカオルの会話を聞いて、何を考えているのだろうか。

黒井は、ノートに一心不乱に何かを書きつづっていた。横から盗み見ると、☆マークを何度も書いていた。さらに、続けて「コスモス様」という謎の言葉が百回以上、書かれていたので、私たちの会話に興味がないことは一目瞭然いちもくりょうぜんだった。

私はそっとしておいてやることにした。

「仮に万が一、才能があったとしても失敗はするさ」とカオルがさとすように言った。「君が失敗して、努力が無駄になったとしても、無駄な努力は必要なんだよ」

「無駄な努力は無駄だ。はじめから、あきらめてしまったほうがいい」

それではダメだとカオルが私に反対した。そして、とうとうこんな演説を始めた。「世界は、無数の無駄な努力でできている。決して、それらは報われないんだ。たとえば、君たちの食べている弁当は、誰かの頑張りで作られている。弁当を作る才能があるかどうかなんて無関係だ。その弁当を食べずに、食堂で食べたほうがはるかに効率がいいと思うね。これは当然ながら、無駄な努力だ。でも、それによって、君たちは昼ごはんにありつけるんだよ」

私は頭を抱えた。「それは結果論だ。理屈を振り回しているだけなんだ。カオル、お前のやっていることは」

「はじめからあきらめてしまうのも、へ理屈だと思うよ」とカオルは首に手を当てた。「うん、君と話していると、どうも調子が狂うな。もういいよ。このへんで、議論はお開きにしよう。そろそろ、父さんがくるころだ」

そう言うと、部屋のドアをノックする音が聞こえた。父親がお茶とお菓子を持ってきたらしいので、とりあえず、私たちは休戦をすることにした。

お菓子はケーキの切れはしだった。

黒井がそれを見て、目の色を変えた。「これ、行列ができる隣町の有名なショートケーキじゃない?」

「ご名答。アンちゃん」とカオルの父親が言った。「一時間並んだよ。さあ、召し上がれ」

「おいしい。おじさま」

「ありがとう。じゃあ、二人ともごゆっくり」

父親が去った後で、カオルはにっこりと笑い、こう言った。

「これも無駄な努力だ」

「そうだな」と私は素直に認めた。

「何の話?」

きょとんとした顔でこちらを見てくる黒井を尻目しりめに、私とカオルは、顔を合わせて吹き出しそうになった。

こういうのも悪くない。

生まれて初めて、私はまぎれもない友人に出会えた気がした。この時間が止まって、静かに、三人で過ごせることができたら、どれだけ素晴らしいだろうかと考えた。

今の関係が続けばいいな。

おそらく、他の二人もそう願ったかもしれない。

私の隣に微笑む黒井がいた。

カオルも、私に寄りかかるような形で、隣に座った。彼の視線は窓の外に向けられていた。

なんだろうと思って、私が窓を見やると、外にセミが止まっていた。鳴かないので気づかなかった。すると、寿命を迎えたせいで、窓からぽとりと落ちて、消えてしまった。

ほんの一瞬だけだったが、カオルの顔から笑みが消えた。

はかなさを彼は感じ取っているようだった。

お菓子を食べて、今後の予定をどうするか決めておきたかった私は、二人に相談した。「俺は、門限があるから、今から帰るつもりなんだけど、黒井さんはどうするんだい?」

「えっと、まだやっていない宿題があるから、ここに残るよ。斉藤クンは明日どうするの?」

「どうしよっかな」

「明日も同じ時間で、ここで勉強会をしよう。皆でね」

「俺はかまわないぜ。カオルんところは大丈夫なのか。迷惑じゃないか?」

お菓子を口に含んで話せないカオルは、親指を突き立てて、OKのサインを出した。

「きまりだな」と私は言った。

私は、二人を残して、部屋を出て、庭にいたカオルの父親に、別れの挨拶をした。庭の菜園は、父親が育てているようだった。麦わら帽子をかぶって、汗をたらしながら雑草をむしり取っていた彼は、挨拶をした私に「ありがとう。あの子と一緒に勉強してくれて」と感謝した。

むしろ、感謝したいのはこちらだった。

家を出ると、黒井とカオルが、二人だけの密室で、何を話しているのか気になり始めた。振り返って、二階を見てみた。カーテンが引かれてあるので、部屋の中は見えなかった。なぜ、カーテンを引いたのだろう。隠し事でもあるのだろうか。

カオルの声がした。

私がもう一度、振り返ると、玄関から出てくるカオルの姿が見えた。彼はおーいと叫びながら、片手を振っていた。後ろから、続けて黒井が出てきた。

カオルが駆け寄ってきた。「待ってくれ。斉藤クン」

「どうしたんだ。俺、なにか、忘れ物をした?」

「違うよ。僕たちで君を送ろう。見送りをさせてくれ」

「今日は、俺はバスだから、べつに見送りなんていいよ」

「では、バス停まで送ってあげよう。黒井もそうするべきだと言ったんだ」

黒井が何度もうなずく。

夕暮れが近づいていた。細く伸びた私の影に、二人の影がそっと寄り添った。

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