第20話 勉強会

私たちの高校の近くに、城の跡地で有名な青葉城址がある。昔はりっぱな城が建っていたらしいが、今は、城壁だけを残している。

そこへ続く車道を上ったり下ったりしながら、西のほうへどんどんと向かっていくと、閑静かんせいな住宅街が広がっているのが見える。

カオルの自宅は、その住宅街の中でも、大きな一軒家として、ひときわ目立っていた。

夏休みの序盤が過ぎて、7月が終わるころ、私と黒井は、勉強会のため、昼を過ぎた夏のまぶしい日差しの中、カオルの家を目指していた。二人とも、私的とはいえ、勉強会ということで、学校の制服を着ていた。

何度も訪れたことのある黒井アンが、私を案内してくれた。「あそこに屋根が青い建物があるから、あれがそう。カオルの家は、代々医者の家系なの。ひいおじいさんも、おじいさんも、お母さんも」

「カオルのお父さんは?」と私は尋ねた。

「さあ、確か、専業主フだったかな。私たちが小さいときは、大学のえらい先生だったんだけど、そこをやめたっぽい」

「ぽい?」

「よくわかんない。カオル本人に聞いてみたら?」

私はそうするよと答え、カオルの家に歩いて向かった。

新築された青い屋根の家が見えてきた。白い壁だったが、レンガが敷き詰められた玄関だけは茶色で、おしゃれを演出していた。庭先にへちまやトマトなどの野菜が育っているのが見えた。

私が玄関のチャイムを鳴らすと、果たして、家の二階から、カオルの声が聞こえた。「待ってたんだ。入れよ。鍵は開いてる」

私たちを玄関で出迎えたのは、カオルの父親だった。「いらっしゃい」

頭をぺこりと下げた黒井が、笑顔で挨拶した。「おじさま。ひさしぶり」

カオルの父親は、黒いカッターシャツに、こんのジーパン姿だった。

「ひさしぶりだね。アンちゃん。公彦さんは元気かい?」と父親がニコニコ顔で聞いたが、私が予想していたよりも、ずっと、優しそうな顔をしていた。

「元気すぎるくらい。この前も、景気よく、うちの家具を破壊していた」

「おおかた、仕事で嫌なことでもあっただろう。アンちゃんは偉いね」

「慣れてますから」と黒井は笑顔を崩さなかった。「ところで、カオルは二階?」

「ああ、今、自分の部屋にいるよ。もう降りてくるだろう。カオル、お客さんだよ。アンちゃんと、ええと、君は、アンちゃんの友達かな?」

私は自己紹介をした。

そのとき、カオルが二階の階段から降りてくる音がした。「遅い」と不平を言っていたので、父親が優しく「そういうことを言っちゃいかん。客をもてなすマナーには、寛大さが必要なんだよ」と彼をたしなめた。「あとで、ジュースとお茶うけを持っていってやるから。失礼のないようにな」

二階から降りてきたカオルは、父親の言うことにしぶしぶ承知しながらも、すこし、抵抗を見せるつもりなのか、ズボンにポケットを入れていた。

普段着のカオルを見るのは、これが初めてだった。肌がけて見えるくらい薄地の白いYシャツを着て、ズボンは黒に近い茶色のジーパンをはいていた。これが彼の室内着らしかった。

「こっち、上がってきてよ。斉藤クンも。二階に僕の部屋があるんだ」

「お前の部屋で、勉強会やるの?」と私は聞いた。

「応接間と居間とか、他の部屋は家族以外が使ってはいけないんだ。母さんの許可がない限りね」とカオルが二階に上がりながら、そう答えた。

カオルの部屋は、きれいに掃除されていた。緑のじゅうたんには、チリ一つなかった。ベッドの布団も、丁寧にたたまれていた。タイトルが難解な本も本棚にきれいに並べられていた。木目調のテーブルが念入りにふいてあったが、机のほうは、まだ、ホコリがあって、参考書が積まれていた。「ごめんな、机が散らかってて」

「いいよ。勉強は、そのテーブルでやる」と黒井が言った。「あなたは、その机で勉強やって」

「わかった。とりあえず、夏休みの宿題は持ってきたか?分からないところがあったら、僕が教えてあげるよ。アン」

「分からないところだらけ。特に、数学の問題文が何を言っているのか分からなくて、意味不明すぎ」

「俺は全部」と私は正直に話した。「せめて、問題文に日本語を使ってほしかった」

「では」とカオルが、鼻声のような調子で、言った。校長先生の声色をまねているようだ。「生徒諸君、夏休みを有意義ゆういぎに過ごすために、これから、カオル先生の猛特訓を始めるとしよう」

勉強のペースは、カオルが他の二人に合わせるような形で進んだ。私と黒井は、分からないところがあると、別途、カオルに答えを聞くようにした。彼は、根気強く、理解するまで私たちに勉強のやり方を教えてくれた。

頭の良い人間は、人に物を教えるのも上手だった。「すごい、塾より分かりやすい!魔法みたい!」と黒井が喜んでいた。頭の悪い私ですら、普段の倍のペースで、勉強をはかどらせた。

信じられない。

塾で質問したが、さっぱりだった方程式の問題が、あたかも事前に答えを知っているかのように、すらすら解けるのは、神秘的な体験だった。

どんな魔法を、カオルは使ったのだろうか。

「魔法じゃないよ」と彼は謙遜けんそんのつもりで言った。「公式は覚えるだけでいいんだけど、それでは数学の基本とはならないんだ。僕が思うに、公式を使う問題を解くには、どうやって、道筋みちすじを見つけていくかが大事なんだよ。物理も数学も、柔軟じゅうなんな発想の転換が求められるけど、こういうのは、とても面白いことだと思うな」

カオルの演説を聴いたら、私まで、まるで大学の教授になったかのような気分でいられた。こういう才能は、父親譲りなのだろう。

カオルが二人の顔を見回して、コホンとわざとらしいせきをした。

「さて、質問はあるかい?」

ここぞとばかりに、黒井が尋ねた。「前世はあるの?」

「わからない。以上」

「でも、いろんなところで、前世はあると言ってるよ。ネットとか、テレビとか」

「あれは、宗教。信仰。君がいつも言っている、異世界の戦士というのとは、そもそも、違う話だ」

「それに、えーと、偉い科学者も言ってた」

「それは、おそらく、ニセ科学だね。オカルト話に、科学的な説明を加えようとして、無理やり、仮説を立てたやつだ」

「ニセ科学って、たとえば?」

「日本で有名な迷信話として、血液型の性格判断や、あるいは、スポーツにおける、調子のいいときと調子の悪いときの波があるという話がある」

「それ、でたらめなの?」

「ウソ、というよりも、仮説の証明が難しいんだよ。たとえば、今日のA型のあなたは、短気でしょう、明日は涙もろいです、なんて予報を考えてごらん。人間の感情なんて、天気のように時間ごとに変わるし、4つのパターンに分けるのは複雑すぎて無茶だ。それが正しいなんて誰にもわかりっこない。スポーツの調子の波もそうだ。それを証明しようがない。バスケで言えば、仮に、3本中2本ゴールに入れたとして、一本シュートを決めた後に一本外しても、あるいはまた、連続でシュートを決めるのも、どちらも、同じ確率なんだ。単なる偶然なんだよ」

私には、彼の言っていることが半分も分からなかった。いや、頭では理解できても、彼の主張に抵抗があったのかもしれない。

「でもさ、メンタルとか、精神面の話をスポーツ選手がよくしているぜ。あれも迷信なのか」と私は、彼に、ささやかな反論を試みた。

「プロの選手はね、毎日、ロシアンルーレットをやっているんだ。失敗すれば、そこで、ズドン、食い扶持ぶちがなくなる厳しい世界なんだ。波というのはない。だから、次に失敗する可能性を減らすことはできない。でも、引き金を引かなければ生活できない。そういうときに、大きなストレスがかかるので、メンタルヘルスが必要になってくる」

ロシアンルーレットは、銃に、複数のからの弾と、実弾を一発入れて、二人の人間が、交互に銃の引き金を引いていくゲームである。そのとき、実弾がいつ出るかはわからないようにしておく。銃口が自分の頭に当たっているので、実弾が出ると、頭が吹き飛んで死んでしまうと言う残酷なゲームだった。

シャープペンを手に持っていたカオルは、それを銃に見立てて、私に狙いを定めた。

私は、平凡な自分の両親を思い浮かべていた。公務員の二人には、スポーツ選手のように、失敗を恐れながら生きていけるような強い精神力はなかった。ケガで収入がなくなるかもしれない。高収入と名声を得られるかもしれない。どっちに転ぶかなんて、分からないのだ。そんなギャンブルのような毎日が続けば、すぐに精神科医が必要となるだろう。「でも、それとは別に、才能と努力は必要なんだろ?」

「まあね、人による。というより、こういう言い方がしっくりくるかな。天才は、自分に才能があるかどうかわかりっこない。自分に不安を感じている天才は、努力することで不安を減らすだろうし、才能を信じきっている、うぬぼれが強い天才は、はなから努力することをしない」

「じゃあ、お前はうぬぼれが強い方だな。猪谷カオル」

カオルは私の皮肉に何も答えなかった。

ずっと、そばで黙って聞いていた黒井が、恐る恐る口を開いた。「ねえ、ケンカは外でやって」

「そうだ。もともと、アンからしてきた話だったな」とカオルは笑った。「あるのかどうかはわからないけど、前世はあると信じたほうが気が楽だというだけの話だ。けっして、斉藤クンに、ケンカをしかけているわけじゃないよ。ごめんな、アン。心配かけて」

「俺のほうこそ、ごめん」

私が謝ると、アンは、気にしなくてもいいのよと慰めた。そして、安心したように、こう言った。「やっぱり、前世はあるんだ」

腹の底から、笑いがこみ上げてくるのを私は止めようがなかった。

私に続いて、カオルも大笑いをした。

きょとんした顔で、二人を見ていたアンだったが、思い出したかのように、こうカオルに質問した。「じゃあ、続けての質問。恋人はいる?」

「いないに決まってるじゃないか」

「いるに決まってる」と黒井は食い下がった。「バスケ部のマネージャーと一緒に帰るところを見たって人がいる」

「ちがうよ。この部屋を見てごらん」とカオルは両手を広げて、自分の部屋を示した。「この部屋のどこに、パソコンやタブレットや電話があるんだい?僕、スマホは持ってないんだよ。外部と連絡手段を持ってないんだ。この状態で、健全な男女交際ができる方法があれば教えてほしいな」

カオルの言うとおりだった。

「彼女を、部屋に連れ込んだとか、家に遊びに行ったとか」

「部活で忙しかったから、そんなヒマはなかったよ。父さんや部活の連中に聞いてみてくれ」

その回答で納得した黒井は、ノートに目を落として、勉強を再開した。

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