第15話 6月

その年の6月は、寒かったように思える。もっとも、仙台では、梅雨のときが、息が白くなるほど、肌寒い季節だ。高校生たちは慣れたもので、制服の半そでの上に、ぶかぶかの暖かい上着を着込んでいた。

しかし、東京の中学校から進学してきた猪谷ししやカオルだけは、こういった気候に慣れていなかったようだった。

彼は、朝、雨が降っているときに、夏服の制服で登校した。夏服は、半そでのみで、生地が薄いため、寒いこの時期には、長そでのブレザーが必要となる。それを東京出のカオルは知らなかったのだ。

「東京は蒸し暑いんだ。だから、こんな温度とは」

放課後になって、私と二人きりになったとき、部活をズル休みしたカオルは愚痴った。「やれやれ。僕は仙台が、こんなに寒いところだとは思わなかったよ。今度から、カイロを持ってくるべきだね」

その姿を見た私は、思わず笑いそうになった。

常に、テストで、学年トップの成績を走っていて、知識が豊富なカオルが、文句を言う姿は、無様ぶざまを通り越して、滑稽こっけいだった。

「ところで、音楽は、なにか、ネットから新しいものを手に入れたかい?」

「ああ、手に入れたよ」と私は、イヤフォンとプレイヤーを取り出した。「とびきり、クールなやつさ。お前もきっと気に入るぜ」

私がイヤフォンを自分の耳に挿すと、カオルが近寄ってきた。「どれ、聞かせておくれ」

目の前には、もう、彼の顔があった。髪から、いい香りがする。香水だろう。

すると、彼は、自分のほおを、私のほおにくっつけるような形で、聞き耳を立てた。やめろと私が言うが、彼は、イヤフォンから流れる音楽を熱心に聞いているのか、そのまま、ほおをぴったりと付けたままだった。

「やめろよ。ぶん殴るぞ」と私がもう一度、警告すると、彼は、残念そうな顔をしながら、私のそばから離れた。

「ごめん。斉藤クンが嫌がるとは思わなかった」

「思わなかったって、お前、近づきすぎなんだよ」

カオルは「ごめん」と何度も謝って、二度としないことを誓った。

「でも、いい曲だね。誰が歌っているの?」と方向転換をしたいのか、カオルは聞いた。

「ミク」

「そうか。ボカロだね」

最近の人工音声ソフトに、カオルは詳しかった。スマホは持っていないと彼は言っていた。だから、雑誌や書籍で知識を得ているのだろう。

「僕はいつか、ボカロで曲を作りたいんだ」

「へえ、そうなの?あ、じゃあ、パソコンを持っているんだ」

「持ってない」

「え?それだと、ダメじゃないのか」

「大学へ行ってからの話だよ。今は勉強が大事」

「へいへい」

ときおり、憎たらしい正論を吐く彼に、私は反感を持っていた。ここいらで、彼を懲らしめる必要があった。そこで、私は、彼の弱点を探るために、ひとつのアイデアを思いついて、それを実行した。

「なあ、話は変わるけど、お前って、怖いものや苦手なものってあるの?」と聞いてみた。

「うーん、怖いものねえ。お化けや幽霊とか」

「オカルトが怖いわけ?」

「いや、子供のときはお化けや幽霊が怖くて仕方がなかったんだ。でも、今は、平気なんだ」と、カオルはあっけらかんに言った。

「へえ、じゃあ、今は?」

「今は、あまりないな」

「俺は黒井の兄貴が怖いな」

「えっ?」

明らかに、カオルが動揺した。「そ、そうなんだ、斉藤クンって、お、お兄さんが」と声が震えているのが、分かる。

いつも完璧すぎる秀才がスキを見せた。チャンスだ。

せっかくの好機を逃さまいとした私はこう続けた。「最近、黒井の兄貴に会ってね。お前も会ったことがあるんだろ?親戚同士なんだから」

「公彦には、最近は会わないよ。もう3年以上も顔を合わせていない」

「向こうは会いたがっているぜ。あーん、カオルちゃん、どうしているのかしらーんって」

これはひっかけだった。実際は、黒井公彦は、こんなことを言っていないし、話題にもならなかった。予想通り、カオルの反応は、恐怖を示していた。

目をそらし、唇を震わせながら、カオルの顔は青ざめていった。

やはり、そうだ。

まあ、誰でも、恐怖を感じるのは仕方のないことだろう。あんな未知の生命体と遭遇そうぐうしたら、本能が危険を察知して、体中に警報を鳴らすからだ。私だって、今、変な汗が背中を伝って流れていたのだから。

「冗談だよ」と私は、我ながら自分の意地悪さにあきれ返りながらも、カオルを懲らしめたことに満足していた。「公彦はそんなことを言っていない」

しかし、カオルはほっとした顔を見せるどころか、ますます、表情を険しくした。

怒らせすぎたかな。

私は反省した。

すると、カオルが私の予想外の行動を取った。

彼は、私の両肩を手でつかんで、激しく揺らした。「おい!君は、黒井の家に行って、公彦に会ったんだな!何もされなかったのか?襲われなかったのか?」

私は、なにも起きなかった、命の危険はなかったと答えると、初めて、カオルの顔がくつろいだ。「そうか、それならいいんだ。小学校の話だけど、僕のときは散々だったんだよ。彼に、顔を合わせるたびに、特殊なバーに連れていかれたんだ。美人もいたが、ほとんどが、公彦と同じ筋肉質の男の人ばかりでね」

子供をバーに連れて行くとは、なんと、非常識な。

バーでいたいけな美少年が兄貴たちに囲まれている姿を、想像しただけで、恐ろしさで身の毛もよだつ。

ここで、私はすべて、合点がいった。黒井がなぜ、一人でいるのかを。

非常識な兄が、バーへ、妹の友達を連れて行ってしまうからだ。

そして、カオルが黒井に近寄らない理由も分かり、私はほっとした。

「なんだよ、兄貴が弱点なのかよ」

カオルはそうだよ、と答えると、一瞬、何かを考えこむようにして、髪をかき上げた。ストレートのなめらかな黒髪が、ほのかによい香りを出して、ふわっと浮かぶ。これが彼の癖だった。

いよいよ、決心した顔で、私にたずねる。「なあ、アンとの仲はどうなんだ。あいつとはうまくいっているのか?ちょっと、心配なんだ」

「うまく、いっているさ。一緒に買い物して、昼ごはんを食べるほどには、仲良しになった」

「ふむ、うまくいっているようだね」とカオルは納得したようだった。

「お前のおかげだよ。お前がいなきゃ、俺、黒井に話しかけることすらできなかった。感謝してる」

「どういたしまして」

「お礼と言っちゃなんだが、今度の試合、7月19日のやつは、俺と黒井が応援しに行ってやるからな。お前はレギュラー取れそうなのか?」

「取れる可能性は高い。監督からは直々に、背番号の内定をもらった。もし、このままいけば、先発で出場になりそうだ。でも、このことは、皆には内緒にしておくれよ」

「なんでさ?」

「恥ずかしいからだ」

カオルは次のように説明した。バスケの試合で、一番最初に、正選手として、試合に出させてもらえる。そういった先発出場は名誉なことだ。だが、サボったりするので、体力が万全ではない。下手をすれば、ベンチメンバーに入れさせてもらえず、試合に出させてもらえないかもしれない。その可能性がある以上、嘘をついたと思われないように、クラスの皆には、秘密にしておいたほうが良かろうと言う。つまり、保険をかけたかったのだ。

私はあきれて、ものが言えなくなった。彼の用心深さは、いったい、何なんだろう。

「頼むよ、斉藤クン」とカオルは手を合わせて、お願いのポーズを取った。

案外とこいつは小心者なのかもしれないな、と私は、心のうちに、そう思った。

その性格が、後に、悲劇を生むことになろうとは、このとき、思いもよらなかった。

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