第12話 家族

何か、重要な過程をすっ飛ばしたのだと気づいたのは、昼過ぎに、黒井の住んでいるマンションに着いてからだった。

買い物デートを楽しむのではなかったのか。

私は服を買うつもりでいた。しかし、彼女は、私の予定など聞かなかった。聞いたとしても、自分のプランを優先させただろう。

なぜなら、数十分前に、モールを出るとき、黒井がこう言ったからだ。

「ごめんね。どうしても、うちの兄貴が、あなたに会わせろ、会わせろって、うるさいのよ」

「君のお兄さんが?」

私は、黒井の兄など知らなかった。それどころか、黒井家の家族構成も知らなかったのだ。

「そう、昨日、今日のこと、話したら、つまり、兄貴に斉藤クンと買い物するって話したんだよ?で、兄貴のやつ、つれて来い、話があるって」

「ちょっと待ってくれないか。話が見えないんだが、そもそも、お前がどこに住んでて、どんな家族と住んでいるかも知らないんだよ。俺」と、家族について彼女に尋ねてみた。

黒井の説明では、同居している家族は兄だけで、二人暮らし、駅近くの、仙台市内の高層マンションに住んでいるようだ。親は両親とも健在だが、外国に住んでいるらしかった。

「それでね、あたしの保護者が、兄貴なわけ。昨日、斉藤クンから誘われちゃったって言ったら、まじめな顔で一度、顔を拝みたい――」

「拝みたい?」

「ああ、兄貴、あなたのことに、興味を持ったみたいで」

これを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか私には分からなかった。

年頃の娘が、同級生と休日に買い物に出かけたとなると、男親、たとえ、兄であっても、相手がどんな男性か、気になるには違いなかった。危険な香りのする、不良だったら。娘をもてあそんだ挙句、切り捨てるようなろくでもない男だったら。そう考え出すと、夜も眠れないだろう。もちろん、私は、どちらにも当てはまらなかった。

公園デートを楽しんで、キスして、自宅まで送っていけば、それで良かった。良かったのに。

さて、彼女のマンションに着くと、そこは、テレビでしか見たことがないような、高級セレブが住んでそうな高層マンションだった。十階以上は、軽く超える建物に、ホテルよりも豪華な玄関がすえられていた。マンション専用の駐車場には、レクサスやベンツばかりだ。

実は、金持ちなのだろうか?

そうにはみえなかったが。

オートロックなので、彼女から離れずに、私はマンションに入っていき、玄関の透明な扉の前に立った。彼女はカードキーを取り出すと、ドアノブに当てた。「キーを認証しました」という女性の声がして、ドアが開いた。豪華な装飾が施されたエレベータに乗った。エレベータが23階に着くと、警備カメラが何台も付けられた廊下が、私たちを出迎えた。

「この先が、私のうち」と黒井は、私を部屋に案内してくれた。「ここなんだけど、兄貴がまだ帰ってないのかな。入って、斉藤クン」

「お邪魔します」

玄関は狭かった。良かった、私の家とそう変わらない。

そうほっとしたのつかの間、私の目に入ってきたのは、白くまの敷物だった。白くまの顔と皮をなめしたものを、じゅうたんとして、玄関に敷いてあるのだった。

私は入るのをやめた。

「どうしたの?なぜ、上がらないの?」

「いや、クマが」

「クマがどうしたの?」

「踏んでもいいものかい」

彼女はあきれたように言った。「当たり前。そこらへんにあるものじゃない。こんなじゅうたん」

いや、トラはともかく、白くまの毛皮は、ワシントン条約かなにかで輸入が禁止されているはずだった。そんなものがそこらへん中にあるわけがない。おかしい。

部屋の奥に進むと、客室用の居間があった。

思ったよりも、庶民的な居間だった。樫やオーク材のテーブルではなく、平たいプラスチック製の白いテーブル。うちのより安そうだ。

庶民派?お金を持っているけど、庶民の生活にあこがれているセレブか。おかしい、なにもかもがおかしい。

「まあ、汚いところだけど、座ってよ」と黒井が勧めたので、私はソファに腰掛けた。

高級なソファは、私のお尻あたりを丸く包み込んでくれた。今まで座ったことがない、いい心地だ。信じられないことに、自分の体が宙に浮いているようだった。「なあ、黒井、ひとつ、聞きたい事があるんだ」

黒井は台所からジュースと、お菓子を持ってきた。「なに?なんでも聞いて」

「お前んち、その、金持ちなのかい」

「まあね。親は平凡なサラリーマンだけど、兄貴がファッションデザイナーで儲けてるから」

「へえ、君のお兄さん、デザイナーなんだ」

「まあ、それなりに有名。・・・黒井公彦きみひこって知ってる?」

「あ、あのキミヒコブランドの・・・まって、めっちゃ、有名じゃないか!」

黒井公彦は、世界を股に駆けたキミヒコブランドを一代で立ち上げた大物である。マスコミ嫌いなので、姿は謎だったが、彼の手がけたデザインの服は、どのファッション誌にもかならず載っていたほどだ。パリで名を上げた後、ロンドン、モスクワ、ニューヨークと、主要都市に事務所を持っているという話を、テレビで聞いたことがある。必ず、ファッションショーに代役を立てるという話は、世間の関心を引いたのだった。

「お前は、あの有名デザイナーの妹だったの?」

「そうね」

黒井アンは、そこで、思い出したかのように、「あ!」と叫んだ。「今日、兄貴、夕方5時にハワイから帰ってくるんだった。いないはずよ。ね、帰ってくるまで、待っててくれないかしら」

現在は、午後二時。夕方までかなり時間がある。

「いいよ。いくらでも待つよ」

「そう、じゃあ、適当に、テレビでも見てて」

「いや、それよりも、黒井の部屋が見てみたいな。ここじゃないんだろ?」

よし、無理なお願いだが、下心が見えない、きわめて自然な流れだった。

戸惑っていた黒井だったが、私が畳み掛けるようにごねると、あきらめたかのように、自分の部屋へ案内してくれた。「学校のみんなには内緒だよ」

彼女が、ドアを開ける。

そこは、こざっぱりした8畳ぐらいの部屋で、白いカーペットが敷かれていた。かわいいペンギンのぬいぐるみがちょこんとベッドに置いてあり、壁一面に、人気男性アイドルの、大きなポスターが貼ってあった。机の上を見ると、学校の教材がきれいに整えて積まれている。部屋の真ん中には、大きな巨木から切り出したようなテーブルがあった。

「あれ、雑誌アトランティスは?」と私は部屋を見渡した。だが、オカルト雑誌はなかった。

「ロフトの中」

黒井が指し示したのは、上の階に通じるはしごだった。はしごを登ると、高さ1メートルちょっとの天井が低い空間が現れた。本来はロフトだが、そこを物置として使っているのだと、彼女は説明した。「電気つけるね」

ロフトには、オカルト雑誌が散らばっていた。下の部屋とは大違いである。

「ここが神聖な場所。私にとってはね。兄貴から言わせれば、『汚い部屋』らしいけど、こっちのほうが、好き」

「ふうん、痛っ!」

透明な水晶玉を踏んだ私は、あやうくひっくり返りそうになった。

「この玉は?」と私は聞いた。

「これはクリスタル製の、神秘な力を持つぎょくよ。ネットの通販で手に入れたの」

「なるほど、黒井さんは、ここで儀式をするわけね」

「神聖な儀式は、全部、ここでするよ。いずれ、斉藤クンにもやってもらうつもり」

神聖な儀式がどんなものか知らなかったが、ロフトに長居はしたくなかったので、早く切り上げようと、私はこう彼女に提案した。「下へ行って、このアトランティスを読みたいな」

「いいよ」

表紙に「キプロス島で古代の怪物アトラスを発見」という記事のタイトルを載せた、オカルト雑誌を手に持って、はしごを降りた。

私の目的は、雑誌を読むことではなかった。

とりあえず、少しでも、彼女のことを知りたかった。部屋にあるもので、最初に目を引いたのは、アイドルのポスターだった。

「お前、こいつが好きなのか?」

「一ファンってとこかな。ライブにも一度言ったことあるから、そのときに、買った特大ポスターがそれ」

「へえ、意外だな。もっと、こう、ロックバンド系とか、そういうのが好きなのかと思った。黒井さん」

「それは嫌い。偉大なるコスモスを冒涜していると思うの」

話が、また、オカルト方向へ走り始めたので、私は、別の話題を見つけようと、彼女の机を見た。

机には、花が花瓶にさしてあった。あの花の名前はたしか、コスモス・・・ええと、ほかにないかな、あれはどうだろう。花の横に、写真立てが飾ってある。中の写真には、二人の人物が写っていた。

「机にある写真は?」

「ああ、あれは、兄貴と私の写真。見せてあげる」

彼女は机の写真を、私に見せてくれた。

そこに、顔があどけない少女が写っている。小学生のときの黒井アンに間違いない。となると、もう一人の背の高い男は、兄の黒井公彦だろう。だが、奇妙だった。妹の何倍もある、その背が高すぎる。写真の枠をはみ出すほどに。

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