第5話 友達

ひとこと挨拶して以来、黒井とは、会話を交わさなかった。

「挨拶しただけの仲さ」と私は強がってみせた。

私の顔をじっと見つめていたカオルは、胸のポケットから、まだ新品の生徒手帳を取り出して、ぺらぺらとページをめくった。「あった」

「何があったんだ?」

「斉藤クン、この紙に書かれてあるIDを見てごらん」

「これは...」

そのページには、数字やアルファベットが並んでいた。かろうじて、kuroi (黒井)という文字が読めた。

「これは、あの子のIDなんだよ。斉藤クンはメッセンジャーソフトを持っているかな」

そう言って、彼は、スマホで伝言できるソフトの名前を挙げた。「持っていたら、このIDで検索すると、彼女と連絡が取れる」

「スマホは持ってるよ。でも、なぜ、おまえが、黒井のIDを?」

スマホを持っていないとカオルは言っていたので、彼がそんな提案をするのは意外だった。そもそも、このことを黒井は知っているのだろうか?

「もちろん、彼女に頼まれたからだよ」とカオルは答えた。

「彼女!?」と私は、思わず叫んだ。

「黒井アンにね。アンが、僕に向かって、君に渡すように頼んできたんだよ」

そのときの私の顔は、おそらく、こっけいなものだったに違いない。

黒井アンが、カオルを通して、私に連絡先を教えてくるなんて、想像もできなかった。想像できない点はそれだけではなかった。

黒井とカオルの関係だ。

彼は、私の心を読み取ったかのように、丁寧に説明してくれた。「まずは、僕とアンなんだが、君をだますつもりはなかったんだ。君は信用できる人間だと見極めた上で、話すことに決めたんだ。僕と彼女は、遠い親戚の関係なんだよ。通う学校は違っていたが、小さいときは仲良く、親戚の家で遊んだこともある。年に何回か会っていた。僕と彼女は、竹馬の友だ」

「友達という感じでいいのかな...」

「それでいい。小さいころから、あんな感じで、人見知りが激しいというので、僕が、面倒を見たものだ。今回も、アンが、君と友達になりたい、知り合いでもいいと、突然、言い出すものだから、僕はあの子をなだめつつ、君を遠くから観察した」

「観察って」

「すまない。ただ、最初は彼女のためだったが、途中から、君そのものに興味がわいてきて、僕のためになった。あやうく、アンから渡されたIDを君に伝えるのを忘れるほどに。もちろん、あのプレイヤー事件は偶然だったんだよ。それだけは信じてくれ。なにか、策謀さくぼうをはりめぐらしたわけでも、計略があって、君に近づいたんじゃない」

「わかったよ」と私は、茶目っ気を込めて、言った。「鼻歌を歌わせる計略があったら、こっちが逆に教えてほしいもんだ」

それを見て、カオルは安心したようだった。

「良かったよ。じゃあ、このIDを書き写した紙を君に上げる。あとは、煮るなり、焼くなり好きにしてくれるとありがたい」

「無責任だな」

「たしかに。保護責任放棄というところだ」と、カオルは冗談を言った。

「ジョークはさておき、今の話は本当なのか?その、黒井が俺と」

「もちろん。アンは君と友達になりたがっている」

「なら、確認するけど、お前と黒井アンは、本当に、なんでもないんだな?」

それがどうした、というつもりで、カオルは軽く首を振った。

私にとって、重要なのは、まさにそこだった。この男は、クラスの女子、いや、それどころか、学校の女子の中でも人気があったのは間違いなかった。かばんの中に、紙のラブレターがたくさん入っているのを見たことがある。ネットの時代でも。手書きだと気持ちがこもるという考えは根強く残っていた。だが、ほとんどは、机の引き出しに眠ってしまっていると、彼は明かした。どうやら、意中の女性がいるらしい。誰なのかはわからなかったが、心の底から、それが黒井アンでありませんようにと、私は祈っていた。私とカオルでは、あきらかに、私のほうが分が悪い。

「そうか、じゃあ、猪谷カオル、お前と黒井は付き合っていないんだな。誓えるか」

「くどいよ、斉藤クン。ただの友達だってば」

「それを聞いて、俺はほっとしたよ」

「そうか、信じてくれて、ありがとう。助かったよ」

「助かった?」

カオルの表情が、ほんの一瞬だけ、別人に変わったように見えた。笑顔が崩れて、見たことのない顔が、浮き出てきたのだ。

「これで、また、君と、放課後で音楽を聴くことができるという意味だよ」と取りつくろうような形で、あわててカオルは言った。

彼を怪しいと思った私だったが、このときは、それ以上、追及しなかった。「そうだね。まあ、黒井と連絡を取ってみることにするよ」

黒井アンと会話ができることのほうが、よっぽど、重要だったのだ。

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