第3話 アン

私の通う高校は、駅とは反対方向に、広瀬川を渡っていくと見える、小高い青葉山の中腹にあった。高校の目の前には、長い坂が、蛇のように曲がりくねりながら続いていた。私たちは、教師も生徒もみんな、急な傾きの坂を、「心臓破りの坂」と呼んでいた。本当の名前は別にあったが、古めかしかったので、それを使うものは、校長以外、いなかった。

心臓破りの坂の途中に、バス停がある。そこで、私はバスを乗り降りするのだが、必ずと言っていいほど、彼女が通っていた。下校するためバスに乗って、ひょいと、バスの外を見やる。すると、一人の女生徒が、うつむきながら、とぼとぼと歩いていくのが分かった。

彼女の名前は、黒井アン。

黒井は、私と同じクラスの子だった。クラスで浮いている存在だったので、友達と帰る姿をいちども見たことがない。これからもないだろう。地味な性格が災いしてか、学校になじめていなさそうだった。その姿が、下校する私の心に、強く印象づけられた。

ひょっとしたら、失恋した惨めな自分の姿を、そこに見出したのかもしれなかった。

こんな調子だから、黒井と私に接点はなく、共通の友達もいなかった。たまたま、放課後、一人で帰る彼女の姿を見かけるだけだった。

声をかける決心をした日の夕方、教室で、黒井はまた、一人で帰ろうとしていたのを見て、いよいよ、勇気を奮い立たせた私は、彼女にこう挨拶してみた。「さようなら」

黒井は黙ったままだった。だが、私のほうを見て、まるで、天変地異が起きる前触れを見つけた占星術師かのような顔をしながら、両手で口を押さえた。

そんなに驚くことはないだろう。挨拶だけじゃないか。

黒井がこんなに驚いたのが不思議だった私は、こう思うよりほかなかった。そのとき、恥ずかしさよりも先立って、冷静な分析ができたのは、入念なシミュレーションのおかげだった。この事態は予想済みだったのだ。こうなることが予想できて、あえて、挨拶のみにしておいたのだった。

夕闇が迫る教室は、やけに静かだった。

いや、クラスメイトは何人かいたはずだし、外で演奏部が楽器の練習している音や、工事の音など雑音はあったはず。それでも、私の耳には入ってこなかった。

しばらく、二人は動けなかった。黒井は、おそらく、こんな事態を予想だにしていなかっただろうから、戸惑っていた。あいかわらず、口を手でふさいだままである。この次にどうすればいいのか困っていそうなのを見て取って、こう着状態を打開したかった私は、もう一度、彼女に挨拶してみた。

「黒井さん、さようなら」

「さよう...なら...」と、ぺこりとお辞儀をしたかと思うと、風が去っていくよりも早く、逃げ出すようにして、彼女は教室から出て行った。

あわてなくてもいいのに。

さて、これから、何がミッション失敗の原因だったかを探らなければならない。

別れの挨拶よりも、なにか、希望を持たせるような言葉をかけたほうが良かったかもしれない。たとえば、「また、明日」はどうだろうか。「明日」という言葉は、未来に希望をつなげられるような、好ましい響きを持っていた。しかし、それでも、あの黒井が元気よく、「また明日ねー」と返してくれるような人格を持ちえないことは、脳内シミュレーションを経なくても、手にとるように分かっていた。短い期間だが、人づきあいが良いほうとはいえないのは、一人で帰宅する姿を見て理解しているつもりだった。

では、どうすれば、会話を続けられるか。

堂々巡りの考えの先に、私は答えを持ち合わせていなかった。

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