第35話 空港
震災から半年が経ったにもかかわらず、ネットやテレビでは、その関連情報を流していた。
ところが、黒井は、そういった情報に、もはや、耳を傾けようとしなくなっていた。
別に心配事があるのだ。
そう私が考えるようになったのは、彼女の態度に変化が見られたからだった。
たとえば、オカルト雑誌に載っていた
心にショックを受けた
または、私自身に落ち度があるとは思えなかった。
ならばと、私は黒井を試すように聞いてみた。「アン、お前、前世はまだ、信じているのか?」
「うーん、半信半疑ってとこ」と微妙なニュアンスで、彼女は答えた。
彼女はオカルトを信じなくなったわけではなかった。疑いつつも、それを
カオルがいなくなって、初めて、黒井という人間性があらわになってきた。今までは、カオルという光に隠れていたのだ。
私はある仮説をたてて、改めて、今までのことを考えてみた。
カオルは私と親友だった。黒井は私と友達になった。いつも、カオルのかたわらには、黒井がいた。それは、黒井が人見知りで、カオルが幼なじみの彼女を放っておかなかったから。つまり、カオルは世話を焼く役だったのだ。
いや、違う。
全てがおかしかった。思い出せ。何かが違う。
私と黒井の会話のきっかけを作ったのは、誰だ?
カオルだった。
でも、その前に、カオルにきっかけを作るように頼んだのは黒井だった。カオルの意思ではなかった。
他にも奇妙なことがあった。
勉強会に私を誘ったのは、カオルと黒井だった。バスケットの試合を応援するのに乗り気だったのは、黒井ではないか。去年の松島旅行もまた黒井のアイデアだった。映画もそうだ。あのチケットは黒井が彼に渡したものなのだ。体育館の裏に、私とカオルを呼んだのも、黒井だ。
黒井、黒井。私とカオルをつなぐ線上に、いつも、黒井は立っていた。まるで、カオルは黒井の操り人形のようだった。二人の行動を、黒井が手のひらで転がすように、影から操作している。
なぜ、そんなことをする必要があったかまでは明らかではない。その理由が分かれば、彼女の行動にも、すべて、一貫した理由付けができるのだという考えに、私は至った。
黒井が何を考えているか判明したのは、秋に入って、いろいろな学校のイベントが始まる直前のことだった。
黒井が学校を欠席した。
彼女と同じクラスになっていた元学級委員長の上野に、欠席の理由を問うと、彼は驚いた様子でこう答えた。「知らなかったのかい?あいつ、外国に留学するんだ」
あっけに取られた私は、急いで、スマホで彼女にメッセージを送ったが、反応が返ってこなかった。
屋上に上がって、彼女のスマホに電話をかけた。だが、電源が切られているのか、応答がなかった。残された頼みの
彼の携帯へ電話をかけると、すぐ、つながった。
「あ、黒井の兄貴、じゃなかった、お兄さん、いま、話してもよろしいですか?」
ーーよろしくってよ
公彦の妙にうれしそうな声が、受話器から聞こえた。
「アンが外国へ行くって本当ですか?今、初めて知ったんです!」
ーーあら、あの子、話していなかったのかしら?やあねえ、今日、仙台空港から出発する日だっていうのに。今から、二時間後に出発予定の飛行機に乗るのよ
「どうしてですか?」
公彦は、黒井が両親の元で暮らすのだと答えた。震災が起き、日本がこの状況になって、海外の親が心配したらしかった。そこで、娘と相談して、黒井が日本を離れることを決めたのだった。
寝耳に水とは、このことだった。
カオルだけではなく、黒井もまた、私のもとから去ろうとしていた。
そんな、あんまりだ。
「いま、お兄さんはどこにいるんですか?」
ーーあなたの後ろよ
「うわ!!」
後ろを振り返ると、そこにはダークスーツを着た大男が立っていた。長髪をヒモで束<たば>ねて、顔はファンデーションを塗りたくり、真っ赤な口紅をつけ、ちょびヒゲを生やした大木を思わせる大きな男。
それはまぎれもなく、公彦だった。
「そんなに驚かないで。私よ、わ、た、し」
彼だったから、驚いているのだ。校舎の屋上に人の気配はなかったし、誰かが階段から上がってくる様子はなかった。
しかし、そんなささいな超常現象はどうでも良かった。
せき込むように、私は彼に頼んだ。「アンと会わせてください。話をするだけでもいいんです」
「ふうん」と彼は何かを察したかのように、私を見て、にやりと笑うと、「じゃあ、きみひこぉー、今から、妹を見送りに、空港へ行くんだけど、斉藤クン、あなたも、どう?」
「いいんですか?」
「行きがけの
私は、地上4階建ての建物の上から、飛び降りる根性はなかった。それを断った。「せめて、人間らしく、階段と車を使って、空港へ行きます」
私たちは、校庭にとめてあったフィアットの小型車に乗った。彼の愛用車の一つだった。
「今日はね、学校の先生がたに、お世話になったお礼を言いに来たのよ」と公彦はエンジンをかけながら、言った。「校庭から、屋上にあなたがいたのが見えたのよ。そしたら、あなたから電話があるじゃない?うれしくなって、つい、飛んじゃったの」
4階建てといったら、15メートル以上はあるのだ。それは人間がジャンプできるような高さではなかった。
「ねえ、斉藤クン、車で行くよりも、足で走ったほうが速くない?」
私は公彦の規格外の発言を無視することにした。「ところで、お兄さんは、なんで、俺のために、こんなことをしてくれるんですか?」
「そりゃ、あなた。あなたが妹のことを好きでいてくれたからよ」
規格外だ。何もかもが。
公彦は楽しそうに言う。「ほら、あの子って、人見知りで、陰険で、自分勝手な
お兄様のことを、
今は、
「そうです。俺はあの子が好きなんです」と私は言った。私の口の中はからからに乾いていた。「お兄さんは知らないだけなんです。あの子が笑ったら、どれだけチャーミングなのかを」
彼女に関する、すべてのマイナスが、そのプラスにはかなわなかった。
公彦は、気持ちを告白したのかどうかを私に聞いてきた。私は一度もないと答えた。友達のままでよい。これからも告白する予定はないと言うと、彼が口をとがらせた。「それはダメよ。ぜひ、愛の告白をするべきだわ。青春ね」
「いままで、何度もそうしよう、そうしようと思ってきたんです。でも、不安で」
「それはウソね」と公彦がカーブを曲がるときに、ハンドルを急に切った。「ウソだわ。不安とかじゃなくて、ただ、
何もかも投げ出して、自分の世界に引きこもれば幸せになれた。
三輪車の持ち主がどうなったのかを考えずにいられたし、失恋してふられる未来の、みじめな自分を知らずに済んだ。
車は前へ進んだ。
私は後ろを見ることしかできなかった。
「あなたには恋をする資格があるのよ。たとえ、世界中の人間、何百億人が、あなたの恋愛をあざけり笑ったとしても」
私は公彦の言葉をどう解釈していいものかと迷った。単なる
私は告白することを決心した。
「俺は、今日、アンに好きだと言いたい。いつ、会えるか分からないから」
「そうよ、その調子よ。ほら、見えてきたわ。アンちゃんのいる空港よ」
車の目の前で、航空機が
仙台空港だった。ここは、かつて、津波の被害を受けて、すぐには復旧できなかったものの、今では、普通に国際便が行きかうようになっていた。
車を降りて、二人は黒井の待つ出発ロビーへ向かった。そこには彼女はいなかった。彼女の携帯電話にかけてみたが、やはり、つながらなかったので、公彦と私は、
十分後、私は黒井アンを見つけた。
彼女は女子トイレの中にいた。
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