第32話 すきなんだ

その年は、テストに追われて、あわただしく過ぎ去っていき、次の年を迎えた。

ほぼ毎日、学校では、簡単な暗記テストをしていたように思う。カオルはともかく、頭の悪い私と黒井は、合格できずに、成績を下げてしまうこともあった。だが、二人とも、それを気にすることはなかった。

あの日、カラオケに行ってからは、カオルが私を再び、遊びに誘うことはしなかった。勉強会も開かなかったのが残念だった。

彼が悩みを打ち明けるそぶりを見せないまま、冬が過ぎ去ろうとしていた。

黒井とは、月に一回のペースで、町へ買い物に出かけることがあった。そのたびに、おこづかいを使い果たしてしまうので、親にいつも怒られた。

これが、三月までの三人の近況だった。

友人として、高校生活を満喫していたようにも思える。心残りは、カオルと会話ができなかったというくらいだった。

すでに、三人とも、進級テストは無事にパスしていたから、四月になれば、自動的に高校二年生となれるわけだ。

今、思えば、どうして、カオルと一緒に、進級祝いの旅行をしようと考えたのか。それを悔やんでも悔やみきれない。

私とカオルの二人は、旅の計画を練るために、私の家に集まった。ただし、そこに黒井はいなかった。

二人だけの旅行だった。

カオルが提案してきたのだ。

私は両親がいない間、私の部屋へカオルを招いた。

このうかつな行動を後悔したことは、今日に至るまで一度もない。一度もないが、もっとより良い方法がなかったのかと考えると、悲しくなる。

二人は学校帰りだったので、制服を着ていた。部屋へ座らずに、立ったままで話していたから、奇妙な感じがした。

私が用意したお菓子に手をつけずに、カオルは、二人きりで松島へもう一回行こうと言い出した。

私はいいねとしか言えなかった。

他に行きたいところもあったが、去年、もう一度松島へ行く約束をしたのを思い出して、反対ができなかったのだ。

カオルは笑顔ではなかった。

むしろ、最近は暗い表情をすることが多くなっていた。

私の部屋は締め切られていた。

したがって、悲鳴を出しても、外からは誰も聞こえない構造になっていた。

明日、旅に出ようと、カオルがせっぱつまった顔で言った。

「バカをいうな」と私は言った。「明日、学校なんだ。だから、行けるわけがないだろ」

次の瞬間だった。

カオルの手が、私の腕をむんずとつかむと、それを自分の方へ引っ張った。

私の体がらいだ。

バランスを失って、私は後ろへ倒れた。後ろにやわらかいソファがなければ、大ケガをしていただろう。

私が倒れこんだところへ、おおかさなるように、彼も飛び込んだ。

彼の胸が、私の胸を圧迫あっぱくした。

「僕のことが嫌いか?」とカオルが私の耳元でささやいた。

「痛いよ、離して」

その言葉は、私の拒絶きょぜつだった。私は続けた。「俺たち、男同士だろ?おかしいだろ?やめろ!」

はっと我に返ったかのように、カオルは私の手を離した。しかし、自分の体は、私の上に置いたままにした。

「僕は君が好きなんだ」

「痛いから、離れろ。この、この、大バカやろう」と私がにらんでも、彼は私の体から離れようとはしなかった。

彼の尋常じんじょうではない力に逆らえそうにないとさとった私は、近くにあった自分のスマホに手を伸ばした。

スマホの電源が入った。

私は「緊急連絡」と表示されたディスプレイをタッチした。それを見たカオルは、一瞬ひるんだ。

すかさず、すきを見て、私はスマホをつかんで、私よりも倍以上ある大きな彼の体を押し返した。「俺は男なんだ。男なんだよ。男であるお前に興味はないんだ。お前とは……」

彼は泣いていた。

目に涙を浮かべていた。

どうすればよいのか。

静かに、だが、力をこめて、私は強調した。「俺は男だ。お前は男だ。俺たちは親友だろ?友人をこんな目にあわせていいと思うのか?」

そのときのカオルは、まるで、おあずけをされた犬のようだった。顔はゆがんで、しわができていた。

部屋の真ん中で、ひょろひょろと、彼は座り込んだ。そして、自分の手で、髪と顔を、さらに、しわくちゃになるように、かきむしった。

それを見ていた私は怖くなって、ドアを開けた。怒鳴った。

「出ていけ!」

「どうしても、と言うなら、出て行くよ」

「早く、出ていけ!」

彼は無言になった。

何も言わないまま、部屋のドアの取っ手をつかんで、亡霊のような青い顔で出ていった。

なぜ?

どうして?

カオルが帰ってから、若い私は、世界中のありとあらゆる理不尽りふじんが、自分におそいかかってきた気持ちになっていた。

それと格闘かくとうしながら、冷静になろうとした。

これは夢ではなかった。

カオルは私を好きだと言った。バカなことを宣言した。私というおろかな存在を受け入れてくれる人間が、今さっきまで、目の前に立っていた。ただし、それは私の愛する人ではなかった。

私の友人だった。

よりによって、私の大切な親友が、私を恋愛対象と見ていた。

その事実が、私を幸福にしてくれるとは思えなかったのだ。だから、さっき、拒否した。

彼の愛を拒んだのだ。

その結論は、私にとって、途方とほうもない罪をもたらした。

しばらく呆然ぼうぜんとしていると、私の母親が帰ってきた。母が玄関から呼んだ。「ねーえ、今、お客さんいるの?」

「いや、いないよ!」と私はとっさに叫んだ。

とうとう、その日、両親にこの事件を話すことはしなかった。

もちろん、誰かに相談するつもりではいた。カウンセラーがいいかもしれなかったし、中学のときの同級生でもいい。あるいは、黒井でもよかった。

だが、その機会はこなかった。

翌日、もっと、はるかに、これをしのぐ大事件が起きたのだから。

一夜明けて、普段どおり、私は登校した。

教室に着いて、隣の席を見ても、カオルはいなかった。

今日は欠席らしかった。

もし出席していたら、カオルに、ひとこと言いたかった。

バカなマネをしたな。

そうこっそり告げて、せせら笑ってやるつもりだった。

この日、何をしていたかを正確に思い出すことは、今となってはできない。できなかったが、それでも、あの瞬間だけは、はっきりと覚えている。

ちょうど、数学の授業が終わる直前だった。

その先生の名前は、吉田といった。

吉田先生が、宿題の範囲をおっしゃっていた。黒板に、「P.40からP.」と言う文字が書かれていた。

「おっと、今回の範囲はもっと広いんだった」と吉田先生が、黒板の数字を消したのだ。「そんでな、宿題はーー」

緊急地震速報を知らせる校内放送が、教室の上に据え付けられたスピーカーから流れた。

生徒たちが何事かと顔を見合わせた。

最初は、小さな音だった。

机が小刻こきざみに揺れる音。窓がびりびりと震える音。

すべてが合唱だった。申し合わせたかのように、いっせいに鳴り始めた。

だんだんとそれが大きくなった。信じられないほど、大きくなって、そのために、教室が崩壊ほうかいするのではないかと思った。

生徒の二、三人が教室から飛び出した。それを吉田先生が引きとめた。

私は自分の机の下にもぐりこんだ。

避難訓練でやったように。

床が波打っていた。いや、頑丈がんじょうな鉄筋コンクリートの床だから、波打つはずがないのだが、そのときは、恐ろしさのあまり、そう見えたのだ。それほどまでに、地震の大きさがすさまじかった。女性の悲鳴があたりへ響き渡った。なのに、誰もそちらへ顔を向けようとはしなかった。自分も叫んでいて当然の状況だったからだった。

教室のスピーカーから、男性の落ち着いた声が流れてきたので、先生も生徒たちも、ほっと安心した。

「みなさん、落ち着いて行動してください。大きな地震が発生中。校舎内にいる、全校生徒は、グラウンドまで集合して、先生の指示に従って整列してください」

地震がしばらく続いたが、それが終わったかと思うと、吉田先生が「よし、放送を聞いたな。おめぇたち、グラウンドに出るぞ。窓が割れているかもしれないから、足元に気をつけろよ」と声をかけてくださった。

私は席を立って、近くの柱につかまった。

まだ、地面がれているような気分だった。

これから、どうなるのだろう。

私たちは、心配になりながらも、グラウンドを目指した。

学校のグラウンドに、大勢おおぜいの生徒たちが集まった。

集まって話をする先生たちの姿もあった。これから、どう対応するのか話しているのだろう。

過去にも大きな地震が宮城県を襲ったことはあったし、地震はこれが初めてではない。にもかかわらず、誰もが不安と恐怖の色を顔に浮かべていた。

というのは、日本史上、百年に一度起きるか起きないかという、後に「東日本大震災」と呼ばれた、最大級の地震だったのだから。

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