ゲームと現実の区別がつかなくなる病気

 会社の課長をスレッジハンマーで殴り飛ばして、今月三枚目の始末書を書くことになった。

「一度医者に診てもらったほうがいいよ」

 と同僚が言う。

「いやいや、あんなやつ殴りたくならない方が病気だ」

 と先輩は言う。もっともな意見だが、実際に殴るとなれば問題だ。病院を探すことにした。


 最初は単なる疲労だと思っていた。「寝てりゃ治る」「土日しっかり休めば治る」「酒でも飲んでりゃ治る」と適当にごまかし続けてるうちに一ヶ月が過ぎて、状況はいっこうに改善せずにむしろ悪化していき、とうとう会社でも症状が出るようになった。さすがにこれはまずいと思って「精神科 心療内科 違い」などとネット検索して、家から三駅くらいのところにある「溝口メンタルクリニック」へ行った。

 ひととおりの心理テストやらセッションやらを終えると、溝口医師は

「ゲームと現実の区別がつかなくなる病気ですね」

 と言った。

「それが病名ですか」

「正式には、柏木・クロイツフェルト型認識境界解離症と言います」

「柏木・クロイツフェルト型認識…?」

「覚えなくてもいいですよ。『いわゆるゲームと現実の区別がつかなくなる病気』で学会でも通じますし」

「でも僕、それほどゲームはやりませんよ」

「ゲームのプレイ時間とはあまり相関性が無いようですね。遺伝要因と、あと仕事のストレス等で発症リスクが高まると報告されています。不規則な生活や睡眠不足、食事の偏りなども関連しているようですね」

 遺伝は知らないが、あとの要素はどれも心当たりがあった。社会人になって一人暮らしをはじめた時のやる気はどこへやら、今や寝るだけの家にはカップ麺やコンビニのパンの袋が積まれて、長いことゴミも出していない。

「ストレスによる現実逃避の延長、ということですかね」

「現実逃避とは違うんですよ。現実とゲームの区別がつかなくなるんです。『正しい現実』と『間違ったゲーム妄想』があるのではなく、そのふたつの境界が曖昧になる病気なんです」

 はあ、とおれは曖昧にうなずいた。この医者の説明は何度聞いてもピンと来ない。

「根絶するのは難しいのですが、薬でかなり症状は抑えられますよ。症状が出て一ヶ月くらいという事ですから、一回押さえ込めば、そうそう再発はしませんし。お薬、二週間分出しておきますんで、毎食後に飲んでください。無くなったらまた来てくださいね」

 受付で処方箋を受け取りクリニックを出た。すぐそばにある薬局に行こうとしたら財布に金がほとんど無かった。仕方ないのでそのへんで稼ぐことにした。薬代をまかなうだけなら通行人の二、三人でいいだろう。

 人通りの多い駅のほうへ向かうと、四十歳前後のサラリーマン風の、頭の薄くて幸せも薄そうなおっさんが道をたずねてきた。

「すいませんねぇ〜、ちょっと伺いたいんですけど〜、この近くにコンビニはありませんかねぇ〜」

 やたら語尾を伸ばす不快な喋り方だし、全体的になんだか加齢臭ともカレー臭とも言いがたい臭いがする。「ありませんかねぇ」の「ぇ」の形になっているおっさんの口に正拳を食らわせてやると、おっさんはグワァっと牛のような呻き声をあげて五メートルほど後ろに飛んで街路樹にあたって倒れた。おっさんはすぐに立ち上がってまた「すいませんねぇ〜」と言いながら硬そうなカバンを振り下ろしてきた。おれはカバンを避けてカウンターで蹴りを叩き込んでやると、おっさんは今度は血を二リットルくらい吹いて倒れた。自分の吐いた血の水たまりのなかでビクンビクンと痙攣するように震えていたが、やがて動かなくなった。それで1200円を得た。

 二人目は金髪の長髪で金属製のアクセサリをちゃらちゃらさせた痩せた男だった。携帯を見ながら歩いてるので、正面から向かって来るおれにほとんど注意を払っていなかった。こういう男はナイフを持ってる場合があるので、長引かせずに出会い頭に一撃で倒すのがセオリーだ。おあつらえ向きに歩道の縁石のそばに木製のトンファーが置いてあったので、それを拾ってすれ違いざまに金色の頭に全力で振り下ろした。ベコッと頭蓋骨が陥没する音がして、それで終わった。でも所持金が420円しか増えなかったのでナイフを持ってない方なのだろう。残念。

 振り向くと、さっきの頭の薄いおっさんの死体はもう消えていた。ふたりとも雑魚っぽいから、明日になればまた現れるだろう。警察沙汰にもなるまい。

 もう少し効率よく稼げないものかと思っていたら、今度は上半身裸で筋骨隆々で顔にホータイ巻いてて片目と口だけ出してて鎖付き鉄球を振り回してる身長二メートルほどの巨漢に出くわした。

「ぐるるるるる」

 と獣のような声を出しながら口から唾液をたらしていて、デカイくせにやたら機敏な動作で鉄球を振り回してきた。おれの右腕のトンファーは一撃で粉砕され、ついでに右腕も一緒に破壊された。明らかに関節でないところが下にぶらんと曲がって血もダラダラ出てきた。さすがに手に負えないので逃げることにした。

 鉄球男は「がああああ」と叫びながら鉄球を振り回して追いかけてくる。この病気になってから色々と変な連中が街をうろつくようになったけど、さすがにこのレベルは初めてだ。あれはいわゆるランダムエンカウントするボスキャラなのだろうか。倒したら相当な金と経験値になりそうなんだが、ボスキャラなら復活しないだろうし、そういう場合はおれは暴行殺人罪になるんだろうか。でもこれだけ殴られてるならさすがに正当防衛だろうか。

 裏路地に入り込んで、敵の視界から外れたところでジャンプした。「ぽよよよ〜ん」といまひとつ緊張感に欠ける音を立てて隣のマンションの三階のベランダに着地した。鉄球男も数秒遅れて裏路地に入り込んだが、幸いおれを見つけることはなく、そのままもといた大通りに戻っていった。

 部屋の中では、暇そうな中年主婦がテレビで昼ドラを見ていた。おれは靴を脱いで部屋に入り、手早く部屋の端からタンスを開けていった。ボールペン、電卓、爪切り、そういった日用品ばかりで、とくに役立ちそうなものは無い。ガサガサと漁っていると中年主婦がおれのほうを見て

「今日は午後から雨が降るそうよ」

 と言った。おれは無視してタンスやら机の引き出しやらをあさりつづけたが現金はみつからなかった。かわりに冷蔵庫で栄養ドリンクを六本見つけたので四本飲んで、それでどうにか右腕の骨折は治った。残る二本をカバンに入れて靴を履いた。

「今日は午後から雨が降るそうよ」

 と中年主婦はもう一度言った。おそらくそういう役割なのだろう。部屋を出た。

 あんな鉄球男とエンカウントするのはもう御免被りたいので、電車で家まで戻ることにした。電車内でひとり、最寄り駅を出たところでもう一人倒して十分に金が溜まったので、そのまま家の近くにある薬局に行った。

 薬局に入るなり、カウンターにいた若い薬剤師がギョッとした目でこっちを見た。

「え、その腕どうしたんですか?」

 右腕を見ると、袖のさっき鉄球男にやられた部分がべっとりと血で染まったままだった。

「ああ、これは大丈夫です。腕自体はもう治ってるんで」

 おれは処方箋を出しつつ事情を説明した。処方箋を見るなり、ああ、あれですか、と薬剤師は納得の顔を見せた。

「最近はこの病気になる人が多いんですよ。オンラインゲームにはまりすぎた人が、『こっちが現実だ』と思い込む事があるでしょう。これはその逆で、現実に対して『これはゲームだ』と思い込む病気、と言えば分かるでしょうか」

「垂直飛びで三階のベランダに登れるようになったのも『思い込み』の力なんですかね。火事場の馬鹿力、とかそういう。以前の僕は、まさに貧弱な男の見本だったわけですが」

「あなたが登ったと認識したのなら、登ったのでしょう。もしあなたが鉄球で『痛い』と感じたら、その感覚に現実も錯覚もないんですよ。『痛み』は『痛み』なんです」

「つまり僕が『三階のベランダに登った』と思えば『三階のベランダに登った』と。物理法則とかも関係なしに」

「そういうことですね。物理法則というのはあくまで、人間が世界を見聞きした結果を数学的にまとめたものですから。この病気ではその認識のほうが変わっちゃうから、物理法則がそれに追従して変わるわけですよ」

 自分ひとりの病気でいちいち物理法則が書き換わってたらやってられないと思うんだが。


 薬局を出て、時刻を見るともう十二時半だった。今日は半休しか取っていないので、一時までには会社に戻らなければないといけない。また課長に嫌味を言われる。ぽつぽつ雨も降り始めていたのでタクシーを拾った。

「へい、どちらまで」

 会社の名前を告げた。運転手はおれの右腕を怪訝そうに見た。

「えっその腕大丈夫ですか?シーツ汚さんといてくださいよ」

「大丈夫ですよ。血ならもう乾いてますし」

 後部座席に座ると、どっと全身から疲れが噴き出してきた。考えてみれば朝飯も昼飯も食べずに動き回りすぎたし、栄養ドリンクで回復したとはいえ血もかなり失っていたのだ。

 タクシーが走り出すと同時に雨が激しくなり、しばらくして遠くで救急車のサイレンが聞こえてきた。かなりの渋滞になっていた。

「いやお客さん、国道これ全然あかん。事故があったみたいですわ」

「一時までには着かなそうですか」

「厳しいですねぇ、ちょっと裏道にしましょか」

「それでお願いします」

 そう言うなり運転手はビルの脇の、ほとんどすれ違いも出来なさそうな裏道に入り込み、ナビもついてないタクシーだったが、細い道をぐいぐいと進んでいった。かなりこのあたりの地理を知り尽くしているようだった。急いでる時にありがたい。

「ところでお客さん、違ったらすんまへんけど、ゲームと現実の区別がつかん人でしょ」

「分かるもんですかね」

「私もなったことあるんですわ。十年くらいまえですけど」

「そうですか。僕はいましがた診断されたところですね」

「いやあいつはホンマに、水虫と一緒で、一度かかってまうとこれがしつこいんですわ。私ん時は本当、三年はかかりましたね」

 運転手はべらべらと喋り続けた。疲れていたので適当に「はあ」「そうですね」「まあ」と相槌を続けた。

「わたしゃテレビゲームなんてほとんどやらないもんだから、ルールも分からんし、そりゃ慣れるまでは大変でしたわ。なんかあるたびに息子の世話になったもんですよ」

「はぁ」

「しかし全く困ったもんですな、ゲームなんてものは。最近、子供が人殺したとかえらいニュース多いでしょ。ああいうのもゲームの影響だと思うんですわ」

「そうですね」

「ああいうのは国が規制すべきだと思うんですわ。わたしらが子供の頃はもっと山やら川を走り回って遊んだもんですわ。最近の子供は」

「はい」

「世の中がそんなんだから、こんな病気も流行ってまうわけでしょ。私らまでええ迷惑ですわ」

「まあ、そうかもしれませんね」

「そんで、実はまだ完治したわけでないんですわ、えろうすんまへんけど…」

 その時、右側から何やら青くて大きなものが突っ込んできた。F1カーだ。どうやらバナナの皮で滑って突っ込んできたらしい。

 おれの乗ったタクシーはそのまま左側のブロック壁に突っ込んで止まった。おれは後部座席の中をスーパーボールのように跳ね回って、血液やら内臓やら脳漿やらその他色々なものをぶちまけた。車体は無傷で、運転手もなんともないようだった。確かにレースゲームではどれだけ体当たりをくらおうと車体が壊れたり運転手が怪我をしたりはしない。おれだけが運転手にとってのゲーム外だったらしい。おれは死んだ。

 やれやれ、これでクリニックの前のセーブポイントからやり直しだ。また所持金も半分になってしまう。溝口医師の説明もこれで四回目だ。柏木・クロイツフェルト型認識境界乖離症、だったかな。


(おわり)

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