家に帰ると妻が必ず人間のふりをしています。

「こないだうちの両親が家に来たんだけどさ」

 と同僚は言う。

「嫁がものすごく頑張って和食を作ったんだよ。板前かよ、って感じの。とかわざわざ鰹節削るところからやりだしてさ。いまどき日本人でもなんて顆粒で済ましてるし、おれの親もそういうのは大丈夫だって言ってるのに」

「いい奥さんじゃんか」

 ぼくが答えると、彼はちょっとだけ嬉しそうな顔をする。

「いいんだけど、心配なんだよ。過剰に『日本人の妻』であろうとするところがさ。もっと自然にやっていいのに」

「向こうの感覚ならそれが自然なんじゃないのか? ほら、インドにはカレー粉がなくて、それぞれの家庭で独自のスパイスを調合してるとか言うじゃん」

「うちの嫁はタイ人だぞ」

「いや、つまりそういう文化の人なんじゃないかって事」

 ぼくは言うと、どうだったかな、と彼は考えこむ。

 彼がタイ人と結婚した時はちょっと驚いたけど、奥さんは日本語もうまいし、わざわざ日本人に似せた化粧をしているので、言われなければタイ人だとわからない程だ。

「やっぱ嫁がどうこうってよりも、孫が半分タイ人ってのが、うちの両親的には気になるのかもしれん」

「そりゃ、どうしようもないだろ」

「まあ、どうしようもないんだけどな」

 と同僚。彼の娘はいま三歳で、ぼくは写真で見ただけだが、母の血をついで東南アジア系らしい彫りの深い顔をしている。

「お前んとこは子供は?」

「まだ」

「つくるつもりはあるのか」

「欲しいっちゃ欲しいけど、どう考えても産むほうの負担が大きいわけだし、あまりこっちの意見を押し付けたくはないな」

「まあ、そりゃそうだよな。男がどうこう言うべきじゃない」

 そうなのだ。男がどうこう言うべきではない。


 仕事を終えてアパートに帰る。外から見える自分の部屋のカーテンは閉められていて、明かりもついていない。

 エレベーターで5階まで上がり、

「ただいま。遅くなってごめん」

 とドアを開ける。中は真っ暗だったけど、玄関までコンソメの香りが漂ってくる。

「おかえりなさい。もうご飯できるよ」

 と妻の声が聞こえる。ダイニングキッチンに入ると、妻は両手鍋で何かを煮込んでいるところだった。アパート備え付けのIH調理器で、火力を示すランプだけが見える。

「ねえ、料理するときは電気つけた方がいいよ」

 とぼくはキッチンの電灯をつけた。両手鍋に入っているのはホワイトシチューのようだった。

「え?」

「暗いと手元が見えないから、包丁で指を切っちゃう。それに誰もいないと思われて、泥棒が来るかもしれない。危ないよ」

「……そうだったね。ごめん、忘れちゃった」

 と妻は申し訳無さそうな顔をして、リビングの方にちょっと指を向けた。パチっと電気の音がして、それだけでリビングの蛍光灯がついた。どうやら妻は、電灯をつける時はスイッチに触る必要があることを忘れているらしい。


 妻が包丁で指を切ってしまったのは、ひと月前のことだった。

 スーパーで買った1本58円のニンジンを切っている時に、具材を押さえていた人差し指を、まるでニンジンの一部と勘違いしたように、躊躇なくスパッと切ってしまったのだ。

 切れた指先はソーセージみたいにまな板の上に「ころん」と転がった。血はまったく出ておらず、断面まできれいな肌色だった。

 妻はキッチンペーパーで切れた指をくるんで、可燃ゴミの箱に野菜の切れ端みたいに捨てた。それからぼくの方をちらりと見た。ぼくはダイニングテーブルに置いたパソコンを見ながら、視界の端で一部始終を見ていたのだけど、何も言わずに仕事のフリを続けた。

 そのニンジンを胡麻和えにして、ふたりで食べている間、妻はずっと左手をテーブルの下に伏せて、右手だけでご飯を食べた。ちょっと行儀が悪い気がするけどぼくは何も言わなかった。

 翌朝目を覚ますと、妻の左手にはきちんと5本の指がそろっていた。

 いつもどおりパジャマのままで朝ごはんを食べ終わったあと、ぼくは立ち上がって、

「今日木曜だよね。ゴミ出してくるよ」

 と可燃ゴミのフタを開くと、箱は空っぽになっていた。

「さっき捨ててきちゃった」

「そうか。ありがと」

 と言って、ぼくは戸棚から市指定可燃ごみ袋を取り出して、プラスチックのゴミ箱に仕込んだ。ふたりともまだパジャマを着たままだったので、妻が外のゴミ捨て場に行ったはずがない。

 ぼくたちはパジャマのまま朝飯を食べる程度にはズボラな夫婦だが、さすがにその格好でゴミ出しに行くのは、少々常識に欠けている。いや、その程度ならいいけど、もしかしたら、

「ゴミ出しに行くには、ゴミ袋を持って外に出ないといけない」

 という知識が欠けているのかもしれない。

 妻は彼女なりに人間らしくあろうとしているのだけど、時々そういうところが欠けているのだ。たぶん、あまりに当たり前すぎてぼくの意識にのぼらないような事を、妻は認識できないのだと思う。


 ぼくが言うのもなんだけど、妻は美人だ。

 そこらへんの芸能人よりもよほど綺麗だと思う。一介のサラリーマンの妻がこんなに美人であっていいのか、とさえ思う。

 ただ結婚した頃は、こんな過剰な美人ではなかったはずだ。

 ずっと暮らしているとよく分からないが、たまに Facebook とかで結婚式の写真を見ると、ずいぶん顔が違うように感じる。雰囲気がどうこうというよりも、骨格の部分から変わっているような気さえする。

 もちろん、家に来る友人たちはその変化に気づく。

「お前の奥さん、前会った時より綺麗になってないか?」

 とか言う。ぼくもそれがとても不安なのだが、彼らは

「夫婦生活がうまくいってるんだな」

 とニヤニヤ笑って背中を叩いたりする。ぼくが不安なのは、普段家で見てるテレビドラマに出てくる女優を平均したような顔になっている気がするからだ。

「あんな美人の嫁さんがいたら苦労するんじゃないか?」

 というやつもいる。

「街でナンパされたりとか、スカウトとかさ。そういう事ないのか?」

「いや。あるんだけど」

 とぼくは適当に言葉を濁す。

 あれはたぶんナンパだったんだと思う。イオンモールのフードコートで、やたらと派手な髪の色をした3人の男にからまれていたのだ。ぼくが書店で買い物を済ませて戻ってきたとき、柱の向こうからそれが見えたのだけど、妻が男たちに手のひらを向けると、3人はまるで記憶を操作されたような顔をして、妻に興味をなくして、それぞれ別の方向に去っていったのだった。


 シチューを皿に盛りつけてダイニングに並べる。ブロッコリ、ニンジン、玉ねぎ、ソーセージ、しめじ、と、二人の夕飯には過剰と思えるくらい豊かな具材が並んでいる。フランスパンを何枚か切って、冷蔵庫からバターを出して食卓のまん中に置く。

「いただきます」

 とふたりで両手を合わせる。妻が何であったとしても、こうも甲斐甲斐しく人間であろうとしている彼女を、無碍に否定する気にはなれない。

 ただ、ぼくが一番不安なのは、彼女とどうやって出会って、どういう経緯で結婚したのかを、これっぽっちも思い出せない事だ。


「あ、そうだ」

 と、妻がシチューを食べる手をとめて言う。

「子供ができたの。来週生まれるんだって」

 とそっけなく言って、またスプーンを動かしはじめる。妻のお腹はちっとも膨らんでいない。むしろ結婚した頃よりも少し痩せているように感じる。これはたぶん、テレビや雑誌に出てくる女性がのきなみ痩せているせいだ。

「ええと……」

 とぼくは少し迷ったあと、

「名前はどうしよう。男の子かな、女の子かな」

 と言った。できるかぎり平静な顔で。

「まだ生まれてもいないから分かるわけないでしょ」

 と妻は笑った。

「そうだったね」

 とぼくも笑った。男の子でも女の子でもいいけど、できればぼくに理解できる範囲の存在であってほしいとは思う。

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