異世界に来たと思ったら三重県だった (Long Version)

近鉄名古屋駅のホームからオレンジ色の電車に乗り込んだ。時刻はもう9時を回っている。そういえば夕飯も食べてない、と思い出してチッと舌を打った。


本社から残業時間を減らすように指令があったため、「残業を減らすにはどうするか」というゴミのような会議が夜遅くまで続いたのだ。シートに座るなり眼鏡を外して目を瞑った。


名古屋に転勤になって数ヶ月が過ぎた。関東育ちのおれにとって近鉄というとかつてパ・リーグに存在していた球団という印象しかなく、まさか自分の通勤電車になるとは思ってもいなかった。


といっても関西にも縁はなく、おれにとっての近鉄は愛知県内の自宅と会社を通勤するための路線である。「名古屋線」と名乗るこの線の反対側がどこにつながっているのかなんて、深く考えた事はなかった。仕事の疲れでそんな暇もなかった。


少年の頃は実家の前にあるぶっとい国道を見て、この道は一体どこまで続いてるんだろうなんて考えたり、実際に自転車で漕ぎ出したりしたものだが、いつから精神が老いてしまったのだろうか。そんな事を考えながら、スーッと眠りに落ちる。


「お降りのお客様はお忘れ物のないよう……」

車内アナウンスが流れ、人の出る気配で目を覚ました。見慣れぬ周囲の景色に、社宅のある蟹江駅を通り過ぎてしまったのを気配で察した。どこだここは。


視力0.2の目で駅名の看板を見るも、

『?』

としか書かれていない。ふざけるな。おれは慌てて通勤鞄にしまった眼鏡を取り出すが、その間にドアは閉まり、電車は動き出してしまう。ようやく視界に捉えた駅名表示には、

『つ』

とだけ書かれていた。『つ』? そんな駅があるわけがない。


おれは咄嗟に昔ネットで見た怪談を思い出した。「この先○○km」とかいう道路の看板が「巨頭オ」という謎の文字になっていて……その先は忘れたが、とにかく薄気味悪い話だったことだけは覚えている。


さらに電車は進み、「津新町」なる駅で停まる。その下には地名が表記されている。

『三重県津市』

さんじゅう県……? 聞いたことのない県だ。だが冷静に考えてみよう。おれの知らない間に都道府県の再編が起きたとは考えにくい。政治に無関心な日本の若者とはいえ、その程度のニュースは把握している。


つまり三重県とは地名ではない。文字どおり県が三重になった量子重ね合わせ状態的なアレだと考えるべきだろう。それは観測によって愛知県になったり岐阜県になったり滋賀県になったりする感じのアレだ。


慌ててスマートフョンで三重さんじゅう県についての情報を調べると

・東日本でもあり西日本でもある

・東海でもあり近畿でもある

・日本であるがスペイン村がある

・忍者がいる

といった具合で混沌に満ちている。どうやら自分が眠っている間に、この近鉄列車は時間・空間の整合性を失った異世界に迷い込んでしまったらしい。


そうこうしているうちにスマートフョンのバッテリーが切れる。無駄な会議中にゲームをしていたせいだ。急に車内の空気が冷えていくように感じた。この情報社会において見知らぬ土地でスマートフョンを失うというのは、裸で山の中に放り出されるも同然だ。


手持ち無沙汰で周囲をちらちら見ると、他の乗客もおれの方をちらちら見ているような気がしてくる。なぜ現世の人間がここにいるのだ? といったような目で。やめろ、そんな目でおれを見るな。


次々と電車が「三重県」の駅に停車して、そのたびに乗客が降りていくが、おれは電車を降りる勇気はなかった。今降りたら二度と現世(名古屋)に戻れない、そんな気がしたからだ。あの「つ駅」を見た瞬間に、おれは異世界に迷い込んでしまったのだ。そうこうしているうちに、とうとう電車は終着駅に辿り着く。


「本日も近鉄をご利用いただきありがとうございました」


といって乗客たちが列車を降り、おれはその駅を見て愕然とする。

「なんてこった……ここは伊勢かい」

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