田舎のバスでよくある事
もうすぐ夏休みである。
この大不況時代に幸運にもちゃんと夏休みのとれる仕事についているが、こう暑いと一日中エアコンの効いた部屋にこもって小説を書くくらいしかやる事がない。
ところで、こんな僕でも学生時代の夏休みは外で遊んでいた。泳げないから海には行かないけど、18きっぷ旅行とか、サイクリングとか、あと山登りが好きだった。異性にモテないのは当時も今も一緒なので、一人旅か、男友達とあちこち行っていた。
富士山? いやいや、あんな俗な山はゴメンだね。登山道にずらーっと人が並んでて、渋谷のセンター街と大して変わらない。僕たちが行くのは日本アルプスのやたらアクセスの悪い山だ。3人以上ならレンタカーを使うことも多い。2人以下だと公共交通機関のほうが安上がりだけどね。
そういうわけで、その日は友達と山に登って、テントで一泊して登山口まで降りてきたところだった。日はもう沈んでいて、東の空に一番星が見えていた。
まともな登山者なら日没後に歩いたりしないんだけど、そこは大学生の男2人。若さゆえの何とやらという事で、舐めきったプランで下山途中で天気が急変して、避難小屋でかなり長時間雨宿りして結局止まず、汗と泥でぐちゃぐちゃになって降りてきた、というところだった。
登山口のまわりはいわゆる田んぼしかない田舎だ。それでもアスファルトの道路は疲れた足にはありがたい。建設省ばんざい。
で、そこから駅まで30分歩く予定だったんだけど、ちょうどよくバス停があった。ど田舎によくある1日4本の路線バスなのに、なんと15分後に駅行きのバスがあるっていうじゃないか。ラッキー、と思って僕たちはバスの待合室に荷物を下ろした。その瞬間に友人は言った。
「ゴメン、トイレ行きたくなったからちょっと荷物見てて」
って。彼はドロドロに汚れたザックを床におろして、100メートル向こうにある公衆トイレの方に走っていった。よほど我慢してたんだろう。
実をいうと僕もちょっと行きたかったんだけど、こういう田舎の公衆トイレってすごく汚いんだよね。彼はそういうのが平気なタイプなんだけど、僕は駅まで我慢することにした。
トタン屋根に木のベンチが取り付けられたバス停だった。もう日が沈んで蛍光灯が灯っていて、羽虫の死骸が山のようにまとわりついているのが見えた。
当時はまだ携帯電話なんて無かったから、僕はザックから文庫本を取り出したんだけど、袋のなかまで雨水が染み込んじゃってて、とても読めるものじゃなかった。あー、まだ半分しか読んでないのに。古本屋で100円だったから別にいいんだけどさ。
そのまま10分くらいぼーっと待った。月のない夜だった。空はどんどん暗くなっていき、田んぼでカエルの声がガァガァと鳴いている。友人はまだ戻ってこない。
その時、道路の向こうから自動車のライトが見えた。バスだった。都会にあるような大型バスではなく、ホテルや旅館の送迎に使われる30人乗りくらいのやつだ。つい最近購入したのか、車の塗装はずいぶん綺麗だった。白地に赤のストライプで、今思い出してみるとレトロなデザインだけど、当時としてはまあまあモダンなものだ。
僕は思わず腕時計を見た。まだ時刻表に書かれた時間まで2分ほどある。
バスが停まってドアが開いた。ギーッとドアが開いて、よく冷えた空気が外に漏れ出した。今なら当たり前だけど、当時はまだ冷房つきのバスなんてほとんど無かった。といってもこっちは雨で身体が冷えてるので、嬉しくはなかったけど。
運転手がこっちを見た。きちんとした紺色の制服と制帽を着込んだ男だった。年齢はよくわからないけど、肌が白くて端正な顔つきで目がやたらギョロギョロしている。
僕は彼に向かって、
「すみませーん、友達がトイレ行ってるんでちょっと待っててもらえませんか? そこのトイレなんで、すぐ戻ると思います」
と僕は頼んだ。田舎のバスってのはそういう融通が効くところが多いし、大体、時刻表に書かれた時間にはまだあるのだから、待つのが道理というものだろう。
しかし運転手は僕の全身を舐め回すように見たあと、
「申し訳ありませんが」
と、低音でひどくゆっくりした喋り方で言った。
「お客様はこのバスにはご乗車になれません」
「え? 何でですか?」
ところが、運転手はスイッチを押してドアを閉め、バスはそのまま走り出した。
「え、あ、ちょっと」
と僕が叫ぶ間もなく、すーっと走り去ってしまった。
まさかの乗車拒否だった。
いくら汚れてるからって、そこまでするのか。こんな田舎なら、農作業で汚れた老人なんていくらでもいるだろうに。いや、そういう人は地元のバスには乗らないのだろうか。
走り去るバスの窓を見ると、客の姿は結構多かった。やはり年寄りが多い、というかほとんど老人だった。車内が暗いのでよくわからないけど、みんな白い服を着ているようだった。
もしかしたら地元の老人会のイベントか何かなのかな? と一瞬思ったけど、後部座席にひとり、あきらかに登山客らしい若い女の姿があった。ザックを脇に置いて、カーキ色のサファリハットを被っている。たぶん近くの山に登って、別の登山口から降りてきたんだろう。
彼女は身体を前に向けたまま、よく首がそんなに曲がるなー、ってくらい振り返って後ろを見ていた。僕たちと同程度に、服が泥みたいなもので黒く汚れている。
彼女は僕の顔を見ているようでもあるし、そうでない何かを見ているようでもあった。そのままバスが見えなくなるまで、ずっと後ろを見ていた。
まもなく友人が戻ってきた。
「ゴメンゴメン。遅くなった。あのトイレ、中の電球が全部切れてたんだよ。流すやつが全然見つからなくて、しかもめっちゃ汚いし。外でした方がマシだった」
と彼は笑った。
「おい、バスもう行っちまったぞ。歩くぞ」
と僕がザックをかつぎながら言うと、
「え? まだ時間じゃなくね?」
「知らん。田舎だしいい加減なんだろ」
「でも、あ、ほら、来たじゃん? あれバスじゃね?」
と彼が指した先にあったのは、最初はただの自家用車かと思ったが、ちゃんと業務用のプレートが据え付けられており、フロントガラスには「○○交通 7番 ○○駅行き」という系統表示がある。14人乗りの古いワゴン車だった。僕たちの姿を認めてバス停の前に乱暴にギギッと停まると、
「乗りますかぁー」
と、窓越しに中年の運転手が鼻声で言った。日焼けした顔に白い半袖ワイシャツを着て、胸にネームプレートを雑につけている。
「あ、はい、お願いします」
と友人は言い、床に置かれたザックを拾ってドアを開いて乗り込んだ。
「すみません、こんな格好で」
と僕は汚れたザックを持ち込む。運転席の背後には「大人250円 子供130円」と書かれたA4用紙と、その下には「内科・胃腸科 ○○クリニック」と書かれた紙が吊るされている。どちらもひどく色あせている。
友人がドアを閉めるとバスはぐっとアクセルを踏んで走り出す。サスペンションの出来が悪いのか車内がやたらと揺れて、疲れた身体に響く。
「学生さん?」
と運転手は尋ねる。
「はい。大学生です」
「A山かい?」
「いえ、B岳のほうです」
「ふーん。A山じゃなくて良かったねえ」
「え?」
「つい昨日、A山で滑落事故があったんだよ。ニュースで見なかった?」
「いえ、昨日はテント泊してたもので」
バスが駅についた。東京行きの特急列車を待つまでの間、僕は待合室に積まれている新聞を見た。地方紙の夕刊だった。
「A山で滑落事故 女性1人遺体で発見」
という見出しの下に、
「死亡した○○さん(21歳・大阪府)」
と書かれた写真には、顔にボカシを入れられた友人と一緒に満面の笑みを浮かべていた。そのカーキ色のサファリハットは、あのバスの後部座席に座っていた女のものだった。
田舎のバスではよくある事だ。
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