大学院生、熊と戦う

「キャンパス内で熊が目撃されました。全身が真っ黒で体長は2メートルほど、場所は○○館の北部。周辺の方は注意し、決して単独で行動しないで下さい」


 そんなアラートが研究室内メーリスに転送されていた。日付は3日前とある。

 大学に熊が出るなんておかしな話だ、と思うかもしれないが、熊の立場からすればこんな山の中に大学がある方がおかしいし、客観的に見て熊の言い分が正しいように思う。

 大学というものはとにかく場所を取るので、キャンパスは学部ごとにあちこちに散らばっているか、地価の安い山中にどかんと置かれている事が多い。うちの大学は実にまったくその両方で、山の中にあちこちに散らばっているものだから、ここに入学したものは「山に住む」か「毎日登山する」の二択を迫られることになる。

 進学のために福島の田舎から出てきた僕は「山に住むなんて嫌だ、せっかくS市に来たんだから都会生活を満喫したい」と思ってふもとの市街地のほうに住み、自転車をきこきこと走らせて毎日登山していた。

 でも結局通うのが面倒になって、院生の頃にはもう研究室に住み込むようになってしまった。研究室の冷暖房を使えば電気代が節約できるし、体育会のシャワー施設も使えたので、洗濯のために週に1回か2回だけ帰ればよかった。

 そんな生活をしていれば、当然昼夜のリズムもおかしくなってくる。気がついたら夜に起きて朝に寝るような事になっていた。


 深夜だった。僕は研究室のベッドで読みかけの論文(冒頭3行読んだだけでと言っていいのかは判断が分かれる)を伏せて、寝そべって携帯ゲームをやっていた。当時流行していた、山の中でモンスターを狩るネットゲームだ。

「牛魔王」と書かれたモンスターを火炎魔法で倒して、ジューシーに焼けていくその姿を見ていると急に肉が食べたくなった。

 大方の人は理解してくれると思うが、「お腹が空いた」と「肉が食いたい」は全く別の感覚だ。胃袋の中はまあまあ満たされているが、そこに肉を投入しないと本来あるべき調和が取れない感触と言えばまあ通じるだろう。牛肉でなくてもいい、ブタや鶏でも構わない。

 当然ながら研究室に肉の備蓄なんてものはなく、冷蔵庫(わざわざ「食品用」と明記されている)の中にはビールとサトーのご飯しか入っていなかった。その頃の僕は研究室のぬしみたいなポジションだったので、冷蔵庫の中なんてのは開けなくても分かるのだ。

 時計を見ると午前2時。当然ながら学食も生協も開いてない。24時間営業のコンビニはここから歩いて20分ほどの場所にあった。のそのそと立ち上がって廊下に出て靴に足を入れた。不規則な生活をしているとよくある事だが、手足が思うどおりに動かなくなる。靴紐を結ぶのに2分くらいかかった。

 外に出るとずいぶん肌寒かった。ちょうど昼夜の寒暖差の激しい季節で、昼間は半袖でも過ごせるくらい暑いのでまったく油断していた。コートを取りに戻ろうかと少し思ったけど、また靴を履くのも面倒だった。そのままコンビニに向かうことにした。

 コンビニまでは徒歩20分かかるが、これは道路が山を避けて大きく迂回しているせいだ。山を突っ切ればたぶん10分くらいで着くだろう。斜面が急なのでそんな事をする人はまずいないが、こう寒いなら少し運動した方がいい。側溝をまたいで山の土に脚をかけた。

 木の幹を掴みながら斜面をざっくざっくと登った。ズボンが汚れるが、もともと汚れてるので別に気にしなかった。


 で、案の定というか、迷った。

 15分ほど歩いてもいっこうにコンビニが見えてこない。どころか、周辺の道から漏れてくるはずの明かりもほとんど見えなくなってしまった。

 ゲームと違って現実の山をまっすぐ進むというのは案外むずかしい。人間は重力にしたがって動くので、斜面が曲がっているとそれに沿って曲がってしまう。その頃GPSつきのスマートフォンなんてものは無かったが、おそらくその時は、三方を道路で囲われた山の唯一道のない方、つまり山の本体のほうに向かってしまったらしい。

 月は出ていたのだが山の木がどんどん鬱蒼になっていって、足元がまったく見えなくなった。携帯ゲーム機を起動して、そのバックライトで道を照らそうと思ったが、液晶のバックライトというのは画面全体が白くないと照明として役に立たない。パソコンならともかくゲームでそんな画面はまず無い。すぐに足を踏み外して、「うわっ」と声をあげて滑り落ちるように斜面を駆け降りた。真正面にある太い木に腕をひっかけてどうにか止まった。

 どうやら山の谷間のようだった。

 足元の地面は柔らかく、踏むと靴紐のあたりまでが土に埋もれた。おそらく雨が降るとちょっとした小川になるのだろう。

 ゲーム機は滑る途中で落としてしまったらしく、周囲を見渡してもそれらしい光はまったく見えなかった。

 木と木の間を、ばさばさっ、と何かが飛び交う音が聞こえる。こんな夜中に鳥がいるとも思えないので、コウモリか何かだろうか。

 そのとき、背後からのそっ、のそっと、重い足音が忍び寄って来るのが聞こえた。

 さーっと血の気がひくのを感じた。昨日回っていた「熊が出没しました」というメーリスを思い出した。ただでさえ寒い空気がよけいに冷たく感じた。

 僕は音を立てないように慎重に振り向いた。

 体長2メートルほどの真っ黒な影が、まっすぐこちらに向かってきている。

 のそっ、のそっと、巨体で柔らかい地面を踏み込む音をたてながら。


「あれ、湯川じゃないか」

 と、熊は巨体に似合わぬひょうきんな声で言った。

 驚いた。このへんの熊は喋るのか。と思ったがそんな訳がなかった。ようやく暗闇に目が慣れてくると、それは熊ではなく人間だった。というか知り合いだった。

「……熊谷くまがいさんじゃないですか」

 と僕は答えた。近くで見ると彼が着ていたのはひどく汚れた柔道着で、汚れすぎてほとんど黒くなっていた。顔は伸びっぱなしのヒゲと髪で真っ黒、歯まで黒ずんでいる。帯だけはもとから黒いようだった。2リットルのペットボトルを2本脇に抱えている。ラベルは付いていない。

 熊谷さんは研究室の先輩である。

 いや、正確に言えば元先輩か。彼は半年前に行方不明になっていたのだ。

 体育会の柔道部ではその巨体を活かした技で国体候補とまで言われたのだが、練習中の事故によって引退を余儀なくされた。研究室では面倒見のいい先輩として僕ら後輩からの印象も良かったのだが、修士2年の夏ごろから徐々に顔色が悪くなっていき、筋肉で引き締まった身体は不健康に痩せていった。

 ある日、目撃者の話によると、キャンパス内の道路で「こんな社会はもう嫌だ」と叫んでそのまま巨体を活かしたダッシュで山の中に猪突猛進し、そのまま消息を絶っていたのだった。

「久しぶりだなあ。まだ卒業してなかったのか? よかったら鍋でも食うか」

 と先輩は快活に笑った。夜闇のせいでよく見えないが、消息を断つ直前の彼からは想像もできないような元気な笑顔だった。

「……肉は、肉はありますか」

「あるぞ。ついてこい」

 そう言って先輩は山道をざっざっと歩いて行く。体格の違いのせいか、あるいはよほど長く山に暮らしているせいか、あまりに歩くのが早い。僕は半ば走るようにしてついていった。

 彼はどうやら山の中の洞窟に住んでいるようだった。外見はまさに熊の巣穴といった感じだが、すぐそばに火を炊いていている事からかろうじて人の住処である事がわかる。

「ちょうど具材が多すぎて困ってたんだ」

 といって先輩は古びた茶碗を僕に渡した。学食で使われているプラスチック製のもので、中には山菜やキノコ、そして大量の肉が入っていた。僕はまっさきに肉にかぶりついた。さらさらしてクセのないさっぱりした味だった。味付けは塩だけのようで、素材の味がよく出ている。

「おれはずっと柔道をアイデンティティに生きてきた。だが肩を壊して試合に出られなくなると、もう自分が何のために生きているのか分からなくなってしまったんだ。就活をしてもそんな人間が採用されるわけがない。

 だがこうして山で暮らしていると、おれは自分が何者なのか、なんてことに悩む必要はない。ただ生きる算段を立てて暮らしていけばいい。そう考えるとすごくラクになった。気のせいか、このところずっと肩の調子もいいんだ」

 先輩が楽しそうなので僕も少し嬉しかった。それから大学内で熊が目撃されている話をすると、

「ん? それはもしかして、こいつの事じゃないかな」

 と言って鍋の中の肉を指した。

「仕留めるにはかなり苦労したぞ。さすがにおれも素手で熊には勝てないからな。山の中にあるもので罠を作ってな、ああ、ちょっとだけ大学の工作室から道具を拝借したりもしたが……」

 と彼は熊と戦うための仕掛けについて嬉しそうに説明した。学内で目撃された熊がこの肉なのか、それとも先輩なのか、僕にはちょっと判断しかねる。


 それから一年後、僕はきちんと大学院を卒業し、山のふもとにある会社に勤める事になった。研究室に住み込んで夜中にゲームばかりやっていたのに、就活のときはその事実を「寝食を忘れて学業に打ち込む学生の鑑」という具合にでっち上げて書類と体裁を作ると、あっさりと就職先は見つかった。

 僕のように何にも真剣に打ち込んだことがなければ、耳障りの良い「何かに打ち込んだ自分」を気兼ねなく捏造することが出来る。こういう人間がろくでもない社会を作っていくのだろう、と思う。

 最近になって地下鉄が新たに開通し、山の中のキャンパスまで電車で通えるようになった。それにともなって山が切り開かれて、熊谷さんの巣穴と思われる場所はコンクリートで固められていた。その後の彼の消息を知るものはいないが、山形県の月山がっさんで「柔道着を着た熊が歩いていた」という噂を聞くことがある。

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