覆水と盆

「覆水盆に返らず」といいますが、水じゃなかったらどうでしょう。

 たとえばミカンだとしましょう。真冬の寒い部屋にコタツがひとつ、お盆の上にはミカンが10個。その脇には猫が一匹。この猫が落ち着きのないやつで、盆を蹴ってコタツから落としてしまい、10個のミカンがばらばらと床にこぼれてしまいます。

 あなたはこれを元に戻せるでしょうか? まあ、あなたの場合はコタツから出ないといけないので大変ですが、10秒もあれば可能ですね。

 では、これがミカン10個ではなく、大豆200粒だったら? 節分のあとの苦労を思い出しますね。茹でてない大豆だと転がっちゃいますし、5分くらいはかかりそうです。ちょっと汚れてるかもしれませんが、洗えば問題ないですね。

 塩や砂糖ならどうでしょう。500グラムの塩を床にこぼしてしまった場合は? まあ、普通は諦めますね。まあ仮に自分勝手な神様に「どうしても必要だ」と言われて、1日くらい頑張って回収したとしましょう。

 おっと、あなたは唯物論者でしたね。では「神様」はやめて「王様」にしましょう。同じようなものです。

 でも、いったん床にこぼした塩を回収しても、それを食べろと言われるとちょっと抵抗がありますよね。床の汚れとかが付いちゃいそうです。大豆と違って、塩を洗うわけにもいきません。

 それだったら、塩なんてこぼした分だけそのへんのスーパーで買ってくればいい。要するに NaCl がお盆の上にきちんと500グラム載ってることが重要なんですから。岩塩とか海水塩とかでちょっと成分が違うかもしれませんが、そんなのほとんどの人は区別つきません。王様も大目に見てくれるでしょう。

 この話を究極的に突き詰めたのが「水」になります。床にこぼした水を回収するのは、まず量として不可能です。回収している間にどんどん床に吸い込まれたり、蒸発したりするでしょう。それにスポイトで回収したとしても、およそ飲料として使えるものではありません。

 この話のポイントは、ある種の不可能性は量によってもたらされるという事です。ミカンも水も、何らかの粒である事には違いがありません。でも10個なら可能なことが、6000000000000000000個では不可能ということがあるのです。

 だから、盆に返らないのは覆水なのです。覆ミカンではなく。

 よろしいですか。

 ここまでは理解しましたか。

 以上を踏まえたうえでもう一度説明します。

 唯物論的に申し上げれば、今あなたが両手に抱えている遺体は、たしかに生きていたときの状態とほとんど差はありません。遺体を構成する物質というのは、その組成においても配置においても、生体とほぼ一緒です。ただある種の物質的な流れの秩序が失われているだけです。

 しかしながら、それを取り戻すことは不可能なのです。なぜなら、そこに介在する流れの数があまりにも多いからです。それはミカンの問題ではなく、水の問題なのです。

 確かに私は神ですが、なにしろ八百万くらいいる神様の中でだいぶランクが下のほうですし、上のほうにいるイザナギさんでさえ、奥さんを生き返らせようとしてひどい目にあっているのですから。

 そうそう、あの人たちが決めた事なんです。1日に1000人が死んで、1500人が生まれるとかいう事を。私程度のランクでは到底覆せる話ではないんです。

 いくら自分の主義を曲げて神に祈っても、駄目なものは駄目です。

 私から見れば人間の個人個人の違いというのはごく僅かなもので、そのうえ沢山生まれて沢山死ぬわけですから、こう個々人の違いにこだわる理由がよく分からないのですが。少なくともあなたよりもずっと長く生きている私の経験上、人間というのは過ぎていくものをあっさりと忘れてしまうものなのです。

 ええ、分かります。あなたは人間ですから、人間の違いというものについて私よりもずっと敏感なのでしょう。

 それではこういう事にしましょう。

 毎年の夏に、その方の霊が現世に戻ってくるようにします。はい。唯物論者のあなたは霊というものを理解しないのでしょうが、これは物質の配置とは別に、その流れの部分だけを抽出した概念だと思って下さい。そういう日をつくります。

 これをお盆と呼ぶことにします。

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