第8話 待つことの残酷さ
勇希が玄関の扉を開けると、靴が一足増えていることに気づいた。
「女性の靴だね」
ひょいと、勇希の後ろからソバが顔を覗かせて言った。
「この靴……」
勇希は慌てて靴を脱ぎ、リビングの扉の前で聞き耳を立てた。
中からは、母親の声ともう一人、女性の声が聞こえてくる。
「いつもありがとう、
「いえ、今日は朝早くに来てしまってすみません。この後、親戚の結婚式に行かないといけないので……」
勇希の横では、ソバも同じように聞き耳を立てて中の声を聞いていた。
「……風華ちゃん。もう、優のことは忘れて、あなたも良い人を他に見つけて……」
「お母さん」
突然、女性の力強い声が部屋中を響き渡る。外にいた勇希は思わず、扉から耳を離した。
「私は優君と約束したんです。彼は約束を破るような人じゃありません。だから、私も破るわけにはいかないんです」
「でも、もう優は……」
母親が鼻をすする音がする。
二人が話している場所は、恐らく仏壇の前だ。兄の写真が置かれている、仏壇の前。
「……お母さん。私は、優君はまだ生きていると思っています」
「風華ちゃん……」
「私は待ちます。彼が帰ってくるまで」
誰かが扉の方に歩いてくる音がして、勇希は急いで扉から離れた。
そして、開かれた扉から、スラッと背の高い女性が現れた。
「あ、勇希君」
勇希を見つけた女性が、長い黒髪を揺らしながら微笑んだ。
「……ご無沙汰してます、風華さん」
彼女の名前は、
「また、兄さんに会いに来てくれたんですか?」
──勇希の兄、盛岡優の恋人だった女性だ。
「優君に会いに来たというより、お母さんに会いに来たんだよ。だって、優君はまだ帰ってきてないでしょう?」
風華は、当然のようにそう言った。優が生きて帰ってくると、まだ信じているのだ。
「……そう、ですね」
家族ですら、既に諦めているというのに。
「勇希君も、優君──お兄さんは、もう帰ってこないと思ってるよね?」
「……」
勇希は返答に困り、目線を逸らす。その様子を見て、風華は「ごめんね」と謝った。
「でもね、私は生きてると思ってる。だって、私はあの日、お兄さんと約束したの」
風華が、悲しげに微笑む。
「『また明日会おうね』って」
そう言った瞬間、風華の目に涙が浮かんだ。それを白く細い指で
「こんな約束とも言えないようなことで待ち続けてるなんて、馬鹿らしいと思うかもしれない。でも、これは誰が何と言おうと、私が彼とした約束だから」
勇希が何も言えずにただ黙っていると、風華は左腕に付けた時計を見た。
「あ……ごめんね、勇希君。私、そろそろ行かないと」
風華が玄関で靴を履き始める。その背中に勇希は声をかけようとするが、やはり言葉が出てこなかった。
「じゃあ、また来るね」
そう言い残し、彼女は笑顔で去っていった。
「風華さん……」
──いつまで待つつもりですか。もう二度と、戻ってこない人を。
その言葉を飲み込み、勇希は両手を握りしめる。自分が“盛岡優”では無いことを、呪わんばかりに。
「勇希君」
不意に、後ろから声をかけられた。
「……ソバ。お前、どこかに隠れてたのか?」
「まあね」
ソバは目を細めて、勇希を見ていた。
「──『自分が死んでれば良かったのに』」
「……え?」
「今、そう思ってたでしょう?」
ソバは、人間味の無い顔を勇希に向けている。
「……別に、そんなこと思ってねーよ」
「そうかな? 俺にはそう思ってるように見えたけど」
感情の起伏を感じられないソバの言葉。
勇希の中で、何かが切れる音がした。
「……がないだろ」
「うん?」
勇希は、ギロリとソバを睨みつける。
「しょうがないだろ! 兄さんが帰ってくるまで、風華さんには明日が来ないんだよ!」
勇希は両手を握りしめ、声を荒らげた。
「風華さんの時間はあの日から進んでないんだよ! 兄さんに会わないと、風華さんは時が止まったままなんだよ!」
次第に
「あんなに素敵な人なのに、あんなに一途な人なのに、幸せになれないなんてひどすぎるだろ!」
一粒。また一粒。勇希の目から雫がこぼれ落ちる。
「兄さんじゃなくて俺が! 俺がいなくなっていれば、風華さんは……!」
──今、幸せに暮らしていたはずなのに。
その言葉を、
肩を震わせ、
「……勇希君は、あの人のことが好きなの?」
勇希の涙が収まってきた頃、ようやくソバが口を開いた。
「……ああ、好きだったよ。小学校までは」
勇希は涙を拭いながら答える。
「でも、他人が入る隙間なんて無いくらい、風華さんの心の中は兄さんで埋め尽くされてる。それに気づいた瞬間から、風華さんへの恋愛感情は捨てたよ」
口ではそう言ったが、勇希は「もしかするとまだ残っていたのかもしれない」と思った。
そうでなければ、あそこまで感情を爆発させることは無いだろう。
「……そう」
顔を下に向けたままの勇希に、ソバは語りかける。
「だったら
その声に抑揚は無く、機械音声のような無機質さがあった。
「真実を伝えても、風華さんは信じないぞ」
「勇希君が実際に目で見て確認した真実なら、あの人も信じてくれると思うけど」
勇希は顔を上げて、ソバの顔を見た。ソバは、能面のような顔をしていた。
「……お前に何がわかる」
勇希の中でフツフツと、怒りが湧き上がってくる。
「感情が無いお前に、一体風華さんの何がわかるっていうんだよ!」
叫ぶようにそう言った直後。
「──勇希? どうしたの、大声出して」
リビングの扉が開き、母親が姿を見せた。
「か、母さん……」
──もしかして、さっきの会話を聞かれてたんじゃ……。
「あら、ソバさんもいらっしゃってたの?」
しかし、母親の様子に目立った変化は無い。どうやら聞こえていなかったようだ。
勇希はホッと、胸を撫で下ろす。
「おはようございます、勇希君のお母さん」
ソバは昨日と同じように、営業スマイルで母親に挨拶する。
「おはよう。もしかして、二人でお仕事の話をしていたの?」
「え?」
ギョッとして、勇希は母親を見た。
「ソバさんにお仕事を紹介されたんでしょう? 昨日、ソバさんが帰り際に教えてくれたの」
横目でソバを見ると、彼は笑顔のまま
「勇希がその仕事をやりたいなら、お母さん達は応援するわ。でも、無理はしないでね」
そう言って、母親が笑った。赤く腫れた目を細めながら。
「母さん……」
勇希は唇を噛みしめる。
──やっぱり、俺がいなくなれば良かったのかもしれない。そうすれば、風華さんも母さんもこんなに悲しむことは……。
「勇希」
母親は、勇希の手を握った。
「私もお父さんも、あなたの元気な姿を見ていたいの」
勇希は目を大きく見開いた。母親は、より一層笑みを深くする。
「遠くから見守ってるわ。頑張ってきてね、勇希」
──母さん、気づいてたんだ。
溢れ出そうになる涙を堪え、勇希は笑った。
「俺、まだやるとは言ってないんだけど」
「あら、そうだったの?」
「うん。……でも、今決めた」
勇希はソバの方を振り向く。
「ソバ。俺、やるよ」
勇希は、決意に満ちた顔している。それを見たソバは営業スマイルを崩さずに言った。
「……わかった。勇希君が入ること、対策局に連絡する」
そして、「詳細はまた後日、伝えに来る」と告げて、ソバは玄関から出ていった。
その姿を見送った後、「そういえば」と、母親が勇希に話しかけてくる。
「勇希、朝ごはん食べてなかったでしょう?」
「……あ」
その時、勇希の腹が盛大に鳴った。
お腹を押さえて恥ずかしそうにする勇希の姿に、母親がクスクスと笑う。
「まったく、しょうがない子ね。お味噌汁温め直すから、ちょっと待ってなさい」
「ごめん、母さん」
二人は幸せそうに笑いながら、食堂へと向かった。
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勇希の家から出たソバは、扉に背を向けて立ち止まっていた。
「感情が無い、か……」
初夏の冷たい風が、ソバの頬を撫でる。
「──本当にそうだったら、どれだけ良かっただろうね」
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