第7話 死にたがりは蕎麦が好き

 勇希は、夢を見た。


「勇希」


 夢の中で、勇希を呼ぶ声がした。


「勇希」


 また、声がした。聞いたことの無い声──のはずだ。

 でも、なんでこんなにも懐かしく感じるのだろう?


「アンタ、誰だよ?」


 勇希が尋ねると、声の主が姿を現した──


********************


「……き」

「うう……」

「……いい加減起きなさい、勇希!」

「うわっ!」


 突如聞こえた母親の怒声に、勇希は飛び起きる。


「朝ご飯冷めるわよ!」

「あ……悪い、母さん」

「全く、着替えもしないで寝ちゃうなんて。だらしない」


──あの声は、母さんの声だったのか?


「ちょっと、まだ寝ぼけてるの?」

「い、いや……」

「じゃ、さっさと顔洗ってきなさい」


 母親はそれだけ言って、部屋から出ていった。


──夢の中で聞こえた声。あれは、絶対に母さんの声じゃない。

 あの声は、男の声だった。


「まさか、な」


 勇希の頭によぎる、兄の顔。それを振り払うように、勇希はブンブンと首を横に振る。


「……顔、洗ってこよう」


 勇希は部屋を出て、一階の洗面所へ向かった。




 勇希が身支度を終えて、朝食を食べようと食卓の席に座った時。


──ピンポーン。


 玄関から、誰かがインターホンを鳴らす音がした。


「勇希、ちょっと出てくれない?」


 キッチンで食器を洗っている母親が、勇希に言った。


「へーい」


──誰だよ、こんな朝早い時間に。

 勇希は心の中で悪態をつく。現在時刻は七時半を回ったところ。いくら何でも人の家に来るには早すぎるだろう。


 その間にも、家のインターホンは何度もけたたましく鳴った。どうやら、来訪者がボタンを連打しているようだ。


「はいはい。今開けますよ……と」


 眠い目をこすりながら、勇希は玄関の扉を開けた。


「ゆうちゃん!」


 扉の向こうから、青いエプロン姿の女性が飛び込んできた。


「……出雲いずも? どうした、こんな朝早くに」

「ゆ、ゆうちゃん、大変なの!」


 息を切らしながら、深刻な顔で勇希に話しかけてくる女性──芹沢出雲せりざわ いずもは、勇希の家の斜め向かいに住む幼なじみだ。


「いつも通り七時から朝営業やってたんだけど、知らない男の人が一番乗りで入ってきて、そ、それから……」

「待て待て、ちょっと落ち着けって。出雲ん家の蕎麦屋で何かあったってことか?」

「そ、そうそう」


 出雲が何度も頷く度に、短めのポニーテールが揺れる。彼女は、ずいぶんと慌てているようだった。


「とりあえず、深呼吸しろよ」

「ヒッ、ヒッ、フー。ヒッ、ヒッ、フー」

「いや、なんでラマーズ法?」


 少し落ち着きを取り戻した出雲が、勇希に事の次第を説明する。


「──つまり、蕎麦を食いまくる男を止めて欲しい、と?」


 出雲は申し訳なさそうに頷いた。


「う、うん」


 出雲の家は、蕎麦屋を経営している。脱サラした彼女の父親が家を改装して始めたのだが、朝七時から営業しているおかげなのか、近所の人達に大人気だ。


「でもさ、そんなに食べてくれるなら良い客じゃないか?」

「うちは一日で出せる数に限界があるんだよ。このままだと今日の分、全部食べられちゃう!」

「だからって、止めて欲しいって俺に言われても……」


 勇希はポリポリと頬をかく。


「ゆうちゃん、空手習ってたよね? それで男の人を吹っ飛ばしてよ!」

「物騒なこと言うなよ……それに、習ってたって言っても小学生の時に一年間だけだし」

「一年も習ってたら充分だよ!」

「それに、相手が強かったらどうすんだよ? 俺が刺激しちゃって店の中で暴れられでもしたら……」


 勇希の態度にしびれを切らしたのか、出雲が頬を膨らませる。


「もう! いいから来てよ!」

「お、おい! 俺まだ飯食ってな」

「そんなの後で良いでしょ!」


 出雲に左腕をがっちりホールドされ、勇希はそのまま蕎麦屋まで連行された。




 程なくして、勇希達は「蕎麦処せりざわ」と書かれた暖簾を潜り、店の中に入った。


「お父さん、ただいまー」


 返事が無い。勇希が入り口からカウンター内を覗き込むと、出雲の両親が忙しなく動いているのが見えた。


「ほら、あそこに座ってる人」


 出雲が指差した先には、入り口から一番離れたカウンター席に座る男の姿があった。男の横には、大量の蕎麦丼そばどんぶりが積まれている。


「……ん?」


 男は物凄い勢いでざる蕎麦を食べているため、顔を見ることが出来ない。 しかし、勇希はどことなくその男に見覚えがある気がした。


「ゆうちゃん、どうかした?」

「いや……あの男の人、どっかで見たことがあるような気がするなって」

「え、知り合いなの!?」

「んー……」


 勇希はもっと良く見ようと、足を一歩、店に踏み入れる。その時、蕎麦を食べ終えた男が顔を上げ、勇希達の方に視線を向けた。


「……あ」


 勇希が、声を漏らした。

──見覚えがあるも何も、つい昨日出会ったばかりじゃないか。


「あれ? 勇希君じゃん」

「ソ、ソバ!?」


 出雲の店で蕎麦を食い尽くそうとしていた男は、ソバだった。


「やあやあ、奇遇だね。勇希君もよくここに来るの?」

「たまに来るくらいだけど……じゃなくて、なんでソバがここに?」

「なんでって、朝ご飯を食べに来ただけだよ」


 そう言った後、ソバはカウンター内にいる出雲の父親に替え玉を頼んだ。


「ちょ、ちょっと! 早くあの人止めてよ」


 出雲に左袖を引っ張られて、勇希はハッとする。


「な、なあ、ソバさん?」

「ふぁに《なに》?」


 替え玉がきた瞬間、ソバは口いっぱいに蕎麦を頬張っていた。


「言いにくいんだけど……そろそろ、蕎麦食うの止めてくれないか?」

「ふぉうひて《どうして》?」

「今日の分の蕎麦、無くなりそうなんだってよ」


 ソバは驚いたように目をぱちくりさせる。


「それ、本当ですか?」


 ソバは口の中の蕎麦を飲み込むと、カウンター越しに見える出雲の父親に向かって聞いた。


「あー……ごめんね、お兄さん」


 申し訳なさそうに、出雲の父親は頭を下げた。


「いえ……こちらこそすいません。余りに美味しくて、こんなに食べてるなんて全然気づきませんでした」


 ソバも、深々と頭を下げる。


「これを食べ切ったら帰ります」


 ソバは豪快に蕎麦をすすり始める。その様子を横目で見ながら、勇希はソバに尋ねた。


「ソバは、蕎麦が好きなのか?」

「俺はナルシストじゃないよ?」

「……そういう意味じゃねーよ。麺の蕎麦が好きなのかって聞いてるんだ」


 ソバは箸を止め、勇希の質問に答えた。


「うん、大好きだよ。毎日三食全部蕎麦でも構わないくらい」

「そ、そうか」

「勇希君も食べる?」


 ソバは勇希にお盆に乗った食べかけの蕎麦を差し出した。


「食べかけとかいらねーよ。てか、俺は蕎麦あんまり好きじゃないから」


 勇希の言葉に、ソバはまた驚いたように目を見開く。


「勇希君は蕎麦が嫌いなの?」

「嫌いっていうか……苦手、というか」


 そう言った勇希のことを、ソバは哀れむような目で見る。


「可哀想に。蕎麦が苦手なんて、人生十割損してるよ」

「……それ、俺の人生損しかしてないことになるんだけど」

「蕎麦アレルギーならともかく、苦手なだけで食べないなんて絶対損してるから」


 ソバは再び蕎麦をすする。ざるの上に乗っている蕎麦は、もう既に三分の一までに減っていた。


「ありがとう、ゆうちゃん。迷惑かけてごめんね」


 こそっと、出雲が勇希に耳打ちする。勇希も、小声で返事をした。


「別に、気にすんなって」

「本当にありがとう。ゆうちゃんがあの人と知り合いじゃなかったら、今頃全部食べ尽くされてたよ」


 そう言って、出雲は苦笑いする。


「あ、ところでさ。ゆうちゃんとあの人の関係って何なの?」

「あー、それは……」


「友達だよ、勇希君とは」


「いや、そんな関係じゃ……て、うわぁ!?」


 勇希と出雲はほぼ同時に驚き、後ずさりする。いつの間に食べ終えていたのか、ソバが口の周りを拭きながら勇希達のところまで近づいていた。


「お、驚かせるんじゃねーよ」

「勝手に驚いたのはそっちでしょ。ところで、そちらのお嬢さんと勇希君の関係は?」


 ソバに指差された出雲は、驚いた表情のまま頭を下げた。


「は、初めまして。ゆうちゃ……勇希君の幼なじみの、芹沢出雲といいます」

「へぇ、幼なじみなんだ」


 ソバはなぜか勇希の方を見て、ニヤニヤしていた。


「なんだよ?」

「……幼なじみをそんな目で見てたなんて、勇希君はやっぱり卑猥だね」

「んな!? あ、あれは間違えて買っただけだって!」

「ふーん……」

「?」


 ニヤニヤ笑うソバと顔を真っ赤にしている勇希を交互に見ながら、出雲はキョトンとしていた。


「おーい、お兄さん。お勘定忘れてるぞ!」

「あ、すいません」


 出雲の父親に呼ばれ、ソバは会計の場所まで移動する。その間に、出雲が勇希に小声で聞いてきた。


「ねえ、何の話してたの?」

「……出雲には関係ねーよ」

「えー、私にも教えてよ!」


 勇希が出雲からの質問をなんとか切り抜けていると、会計を終えたソバが戻ってきた。


「お待たせ、勇希君。そろそろ行こうか」

「え、行くってどこに?」

「決まってるでしょ。勇希君の家だよ」


 勇希はソバの顔を見た。ソバは昨日と同じ、真剣な表情をしている。


「……わかった。でも、俺まだ朝ご飯食べてないんだけど」

「あ、そうだったの?」


 勇希はソバと一緒に店を出ようとした。しかし、入り口に出雲が立ち塞がる。


「ちょっと、まだ二人で何の話をしてたのか聞いてないんだけど!」

「もういい加減、諦めてくれない!?」


 それから十分後。勇希はなんとか出雲をなだめ、ようやく店を出た。

 そして、「味噌汁冷めてそうだな……」と思いつつ、ソバと共に自宅へと向かった。

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