3章(現在編) 2015年11月10日 京都

第9話 篠原斗真は死者を理由に使えない

2013年8月10日(2年前) 東京/ブックカフェ


 須崎奏は、いわゆる濫読家だった。


 流行りの文芸書や女性エッセイを手に取ることもあれば、歴史書や図鑑に手を伸ばすこともある。ワクワクした顔でライトノベルを食い入るように読むかと思えば、穏やかに微笑んで児童書をパラパラめくっていることもあった。美しく丁寧な装丁のムックを衝動買いすることも多く、時間のある週末に、図書館で新聞にまとめて目を通してもいた。彼女は常に新しい知識との出会いを求め、活字の海に身を委ねていた。


 その日、篠原は奏を連れてブックカフェにおもむいていた。奏はハードカバーの医学入門書に目を通し、篠原はそのむかいで、新刊のミステリー文庫を読んでいた。


「……何でだろうなあ」


 苦々しげな顔で篠原がうなった。奏が、長いまつげに包まれた目を上げた。


「どうしたのです?」

「いや、この話、犯人の動機が復讐だったんだけど……。探偵が『復讐なんてしても君の大切な人は喜ばないぞ』って言って説得して、お涙頂戴な展開があって、犯人が投降して……それを読んで、何だかものすごくイラついた」

「ああ、気持ちはわからなくもないです」

「でもこの台詞、何でこんなにもイラっとくるのかなあ。綺麗ごとだから?」

「うーん、そんなに単純でもないように思います……」


 奏は医学入門書を閉じ、うっすらと目を閉じた。少し猫背になって、両手で本を持ち上げ、背表紙をあごにそっとつけて考え込んだ。


「あー、そんな真剣に構えなくていいよ? そもそもこの小説、アリバイトリックに真髄があって、登場人物の内面とかはテンプレでいい加減に済ませてるから」

「いいえ、せっかくですから」


 奏が首を横に振ると、栗色のふわふわと丸まった髪が揺れた。


 彼女は数分の間じっと目を閉じていた。篠原は急かすことなく、無言でその顔を眺めて待った。ゆっくりと目を開けながら、奏が口を開いた


「……分かりました。『君の大切な人は復讐なんて望んでいない』……この台詞が、何故こんなにも神経を逆なでるのか。 『綺麗ごとだから』ではありません。むしろその逆です」

「逆?」

「おそろしく、からです」


* * *


2015年11月10日(現在) 京都/とある分譲マンション


 篠原は懐から護身用のナイフを取り出した。フェンシングの基本姿勢よろしく、ナイフを持った右手を高く掲げ、心臓を隠すように身を捻らせ、右半身を少年に向けて突き出した。


 ――喧嘩で勝とうとするな。急所への一撃を避けて即死を免れるだけでいい。ほんの1秒でも長く話ができる状況を作るんだ――交渉の材料を探すことだけ考えろ。


「……日名子麻美の情報がほしくはないですか?」

「ん?」

「……あなたの素性は知りません。ですがこの部屋を訪れたということは、彼女に何か用があるのではないですか? いま彼女が何処にいるか、知りたくはないですか?」

「んー、まあ、用があると言えばあるね。


 少年はナイフの峰を顎に当て、首を傾いで眉をハの字にさせて笑った。困ったようなその顔を見て、篠原は顔を曇らせた。


 ――悪いことをした? どういうことだ? 


 ――この子は、罪悪感を覚えている? 2人、いや、3人もの人間を平然と殺しておきながら? 彼は日名子麻美に何をした? どんな事情がある? それは交渉に仕えるファクターか?


 頭の中で思索を巡らせ、あらゆる可能性を想定しながら、篠原は交渉の言葉を紡いでいく。


「罪滅ぼしに協力してあげましょうか?」

「ん?」

「日名子麻美は『M&Dグループ』という人身売買業のシンジゲートに拉致されました。監禁場所は私も知っています。脱出の手引きもできるでしょう。彼女について気に病む事情があるのなら、彼女を救い出して名誉挽回してみては?」

「んー、救出作戦は悪くないけど……」

「何かご不満が?」

「お兄さん、本当はあの人の居場所なんて知らないんでしょ?」


 篠原は、心中の動揺をおくびにも出さずに姿勢を正した。


「……知っていますよ、当然、簡単に口を割るわけにはいきませんがね。こちらとしてもその情報が切り札ですから」


 うさぎ強盗の少年は、ひどく申し訳なさそうにかぶりを振った。


「初心者のブラフは通じないよ。お兄さんは、駆け引きの相手が悪すぎるのを分かってない」


 篠原は突然、見えない腕に胸倉をつかまれたように、体を前方に引き寄せられた。決して大きな力ではなかったが、不意をつかれたこともあり、前のめりによろめいてしまう。


 ――何だ?


 少年が音もなく飛びかかり、篠原の頭に踵落としを喰らわせた。篠原はうつ伏せに叩きつけられた。床に手をつき寝返りをうったところで少年に胸を踏みつけられ、肺から空気を吐き出した。


 思わず胸を押さえようとしたとき、異変に気づく。


 ――動かない?


 まるで見えない重しに押さえつけられたように、両腕が動かせなかった。篠原は左右に目を走らせ、その後静かに息をついた。


「……何か、手品を仕掛けたようですね」

「うん。駄目だよ、敵はしっかり見張ってないと」

「……ありがたい教訓をどうも。次があれば、生かしますかね……」


 少年が片膝をつき、篠原の肩の真上にナイフを突き立て、首にめがけて刃を傾がせた。首筋に刃が触れ、赤い水滴が膨らみ、やがて刃に沿って滴り落ちた。


「お兄さん、ちょっと質問いい?」無邪気な声で、少年が言った。

「断れば?」

「ナイフが90度傾いて、ギロチンコース」

「……何でもお答えいたしましょう」

?」


 篠原はちいさく唸った。


 ――ツキノワグマとハツカネズミに連れられ、ビルの屋上を去る直前のこと。ふと篠原が双眼鏡で日名子麻美の部屋を覗くと、この少年が、篠原にめがけて手招きし「そ・の・ふ・た・り・も・つ・れ・て・こ・い」と口を動かしていた。篠原は戸惑い悩んだあげく、あの2人にはあえて何も報告しないことにした。


「……あなたが何かしらの勝算があって待ち構えているのなら、ぶつけてみるのも一手だと考えました。あわよくば共倒れになってあの2人が始末されれば、M&Dから逃げだせるので」

「うわあ……思った以上の本音トークに正直ちょっと動揺してるよ」


 篠原は目を真横に動かした。濁った眼を半開きにしてうつ伏せになったハツカネズミの横顔が見える――まさか、ここまで一方的に殺されるとは思わなかったな。


「撤退して距離をとり、態勢を立て直すべきと判断しました。潜入して内部事情を探るのにも、無理を感じていましたから」

「ああ、確かに。川浪さんは多分、お兄さんがそこの死体と樹里を連れて行っても、お兄さんのこと処分するよね。人殺しを命じたのだって、ほとんど嫌がらせに近いと思うよ?」


 篠原は眉間に皺を寄せた。


「……何故、川浪の名前を」


 少年は年齢に似つかわしいどこか誇らしげな顔で、無線機にも似た黒い機器を取り出した。手のひらに収まるサイズで、長いアンテナと2つのつまみがついている。


「傍受した電波を会員制サイトにあげると、解析して音声データに直してくれる仕組みでね。前にヘイルムダルムって友達にもらったんだ」

「……どちら様ですか」

「1年前に俺のアカウントを襲撃した、中二病こじらせ気味のクラッカーだよ。すごいよ、あいつ。しらふで『世界を荒らして楽しみたい』『僕は女子供には手を出さない』とかぐちぐち言うんだ。あの生き様は、ちょっと真似できないね」

「……話がまったく見えません」

「うん、ごめんごめん、ちょっと話が逸れちゃってた」


 少年は片膝をつき、床に突き刺したナイフの柄を握りしめた。少年はその瞳に殺気を滲ませ、篠原の周囲の空気を凍りつかせた。


「川浪さんの言ってたことは本当? お兄さんは本当に、恋人を殺された復讐者なのかな?」

「……その質問に何の意味が」

「あなたが執念深い復讐者である確信――あなたはどんな状況下でもM&Dに刃向かうのだという保証が要るのさ。日名子さんの救出にあたり、正直なところ内通者はほしいけど……いざというときに寝返る手駒は要らないからね。ほら、ちょっと自己アピールしてみてよ」

「…………」

「あなたはどれだけ、須崎奏を愛してたの? 須崎奏はどれだけ熱く、あなたを復讐に駆り立てる?」


 篠原は、焦点の合わない目で天井を見上げた。


 ――私は、どれだけ奏を愛していただろうか?


 篠原の頭の中で、須崎奏への思いが駆け巡った。


 初めて会ったのは大学の図書館だった。検索方法が分からなくて苦労してる一年生の奏を助けたんだ。話が弾んで仲良くなって、2人で書店のバイトに応募して……。退勤後はいつも、色んな本を見て回ってたな。書店に置かれた販促用の映像につられ、映画化タイトルを見に行くたびに、「予告編で期待したほどじゃなかった」と二人で文句を言ったっけ。なのに何故か、また予告篇を見ると、今度こそ面白そうだと足を運び、結局、後悔して愚痴を言いあいながらとぼとぼ帰るんだ。クリスマス前、2人揃ってチラシの残骸に囲まれながら、ラッピングの特訓をしたっけか。奏の奴、事務能力は高い癖に、手先がおそろしく不器用で、カッターで何度も指先を切っていた――。


 めまぐるしく頭の中を駆け巡る無数のエピソードを掻き消すように、あの日、ブックカフェで奏が言った台詞が鮮明に蘇った。うさぎ強盗の声も、薄暗い廊下の光景、首筋にあたるナイフの冷たさも、全て篠原の前から消え去り、2年前の光景が篠原の目の前に広がった。


**********************


「『君の大切な人は復讐なんて望んでない』あれは、おそろしく汚い言葉です」


 そうだ――あの日、奏はそう言った。


「復讐者に向けてあの台詞を言い放つ人は、大抵、が復讐を認めたくないんです」


 あの台詞は魔法の言葉だ。「復讐を止めたい」という あなたの願望を、スマートかつ迅速に叶えてくれる。


「復讐を認めたくない……復讐をやめるべきという、自己の主張を正当化したい……その願望を叶えるため、死者の発言力を借りるのです」


 あなたがどれだけ死者の発言力を笠に着ても、死者はあなたに何も反論できない。死者は何も語れない。


「復讐を止める決断……これほど大きな決断を強要するなら、当然、それに伴う重い責任を負わなければなりません。でもこの台詞を放つ人は、その責任から逃れるつもりでいるのです」


 復讐を止めたがゆえに燻る怨念、後悔、自責の念……復讐者がその思いに押しつぶされてしまったなら? 復讐を止められたが故に、その人が壊れてしまったなら?  それは一体誰のせいだ? 大丈夫、まちがっても「復讐を止めたあなたのせい」にはならない。 魔法の言葉があなたを守り、復讐を止めた責任は全て死者に被せられる。その決断を強要したのは「大切な人」だということにしてしまおう。死者はあなたに文句を言えない。


「……篠原さんは優しい人です」


 奏はあのとき、はにかむように笑っていた。


「篠原さんは、きっと、自分を正当化するために、死者を盾にすることができないから。だからきっと、この台詞が肌に合わなかったんだと思います」


 ――違う。

 ――私は、そんな綺麗な人間じゃなかった。M&Dに調査報告し、何人もの人間を間接的に地獄に落とした。自分の潜入捜査のために、好き勝手に他人を利用したのだ。


 ――それなのに、私は身勝手な人間だから。

 ――散々他人を巻き込んでいて、それなのに。私は――。


**********************


「私は、復讐なんて考えていません」


 息も絶え絶えの様子ながら、篠原はきっぱりとした口調で言った。うさぎ強盗の少年は、心の底から不思議そうに首を傾げた。


「あれ? 奏さんとやらのために復讐しようってんじゃないの?」


 篠原は、力なく首を横に振った。


「私は、私の意思と責任をもってM&Dを抹殺しようと決めたんです。奏は関係ありません」


 ――他に答えようもない。

 ――私が世界を壊す動機に、死者を巻き込みたくない。


「あなたに語れることはありません。復讐なんて大袈裟で重い理由、私にはなかったんです」


 どこか諦観を漂わせる口調で、篠原は言った。少年は長いまつげで陰った眼を細くして、篠原をじっと見据えた。


「……そう。だったら、こうだね」


 うさぎ強盗の少年は、何でもないことのようにナイフを傾けていく。

 ブツッ、と何かが切れる音がした。

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