第10話 天野樹里は死体に冷たい視線を向ける
2015年5月12日(半年前)大阪のとあるマンション
その日樹里と雅也が忍びこんでいたのは、セキュリティ会社に勤めるシステム・エンジニアの部屋だった。
書斎に足を踏み入れると、床はまるで絨毯をしいたかのように、A4のコピー用紙で白一色に埋め尽くされていた。黒く塗られたオーク素材のデスクには、持ち主のこだわりが感じられるPC機器が並んでいた。トリプルモニターや10台ものHDDを収納するタワーケースが堂々と構え、4つもの高品質スピーカーに加えウーファまで佇んでいる。雅也は紙を1枚拾い上げ、そこに書き殴られた記号式を見て興味深げにうなずいた。
雅也はパソコンデスクにつかつかと歩み寄り、小さな四角いリュックサックからノートパソコンを取り出した。手元にあったA4用紙は、肩越しに背後へと投げ捨てた。
「木村さんとやら、随分面白いものと格闘してる」
ヒラヒラと羽毛のように宙を泳いでいたA4用紙を、樹里は人差し指と中指で挟み込んでキャッチする。コピー紙をめぐる記号式やプログラミング言語――「%」や「&」や「$」と英語が混じりあった不思議な単語や、意味の分からない数字・記号式の羅列――を前にして、苦いものでも吐き出すかのように舌を出した。
「……絶対面白くないですよ、こんなの」
雅也はキャスターつきのアームチェアに腰かけた。シザーバッグからコードを取り出し、自身のノートパソコンと木村のデスクトップパソコンを繋いでいく。樹里が不思議そうに首を傾げた。
「何するんです?」
「人様のパソコンにログインできる魔法をしかける」
「……悪い人だ」
パスワードを解析して木村のパソコンにログインすると、雅也は木村の業務用メールアカウントの着信履歴を漁った。樹里は雅也の傍に膝をつき、両手を重ねてデスクの縁に置き、その上に顎を乗せてディスプレイをぼんやり眺めた。
「状況はつかめました?」
「大体ね。木村さんは今、『阪神ローン』にウィルスを仕掛けたハッカーに挑発されてる」
「挑発?」
「そのハッカーは、ウィルスを駆除できるソフトを送りつけてきたみたい。スパコンでもそうそう破れないような厳重なロックをかけてね」
「仕掛けたウィルスの弱点を鍵つきで送ってきたんですか? 何のために……」
「ロックを外すパスワードを、暗号にして一緒に送ってきてるらしい。金融会社やセキュリティ会社の人たちを煽って、この暗号に挑戦させようとしてるみたいだ」
「自作の暗号を解こうとしてほしいから、こんな真似を? 何の利益にもならないのに?」
「『Cicada 3301』って知ってるか? CIAのテストとか何とか言われてるけど、あれは多分、利益を求めてつくられたものじゃない。趣味なんだよ。優秀な技術屋の中には、誰にも解けないような難問をふっかけて遊びたい
「……いじわるクイズを出して悩ませて、さも『難問を出した自分頭いい』とばかりにほくそ笑む、そのくせ相手がスルーしようとすると暴れてしまう構ってちゃん?」
「的確。さすがは樹里だ」
雅也は樹里の頭を撫でた。樹里は心地良さそうに目を細めた。雅也は顔をそっと近づけ、樹里と目線を合わせて言った。
「なあ、樹里。木村さんが帰ってくるまでに、この問題を解いてやろうよ。2時間で終わらせるからさ」
「え? 金目のものを漁りには行かないんです?」
「あとでいいさ、そんなの」
* * *
ピアニストのように長い雅也の指は、縦横無尽にキーボード上を駆けめぐっていた。大きく開いた雅也の眼に、暗号の記号式が入れ替わり立ち代わり映り込むのを、樹里は無言で眺めていた。
――阪神ローンって関西最大手の金融会社なんだけど――そのファイア・ウォールを突破したクラッカーの暗号を、2時間で解く?
――雅也の兄さんならやりかねないなあ。
樹里は机の上で腕を組み、その中に顔を埋めた。しばらくじっとそうしていたが、10分ほどで立ち上がり、雅也に向けて横からヒラヒラと手を振った。雅也がディスプレイから目を離そうしないのを見ると、手持ち無沙汰に部屋の中を歩き回った。本棚にはプログラミング言語のテキストとビジネス書しかなく、どれも樹里の興味を惹かなかった。いじけたように口を尖らせ、樹里はデスクの前に戻ってしゃがみこみ、また机の上に組んだ腕の中でぐりぐりと顔を埋めた。
「あたしがパソコンだったらよかったのになー。雅也の兄さんが今、何を話してるのか分かるのになー。でもあたし、中国語と英語は話せても、パソコンの言葉は分かんないもんなー」
寂しい気持ちを隠そうともしない、すねた口調で樹里は言った。わずかに顔を上げ、チラリと雅也の様子を盗み見る。雅也がまったく動ずることなく作業を続けているのを見て、樹里は不機嫌そうに口をすぼめた。
「雅也の兄さん」
「今ダミーコードの相手で、手と目が動かせない。用があるならそのまま話して」
雅也は画面から1ミリも目を逸らさずに言った。樹里は真剣な表情で、胸に手をあてて言った。
「私にも、構ってください!」
「お前は何を言っているんだ」
「何でも良いのです! 絡んでくれるなら何でも良いのです! 嫌がらせのごとく髪の毛ワシャワシャする感じでも良いのです!」
「口は空いてるから、お喋りならしてやれるよ。同時にいくつものことをするのは得意だからさ」
3つのディスプレイを通して目から入る情報を高速で処理し、コンマ1秒も手を休めることなくキーボードを弾きながら雅也は言った。樹里はむすっとした顔でそっぽを向いた。
「……兄さんの難しいこと平然と言うところ、実はたまにドン引きしてます」
「……ええ、特に知りたくもない事実……大体、それって俺が悪いわけじゃないような……」
「とにかく、なんでもいいから、手でもほっぺでも握ってください!」
「いや、だから手は動かせないって」
「お肌のぬくもりがほしいのです。エロティックでない感じのスキンシップがほしいのです!」
「樹里はさっきから脊髄反射で会話してないか? 脳を通してるとは思えないんだけど」
樹里は雅也の背後に回り、雅也の首に巻きつくように手を回した。彼の頭に自分の顎を静かに乗せた。
「妥協案!」
「……樹里が満足ならそれでいいよ」
雅也は手を動かしながら、自分が今どういう暗号をどういう手段で解いているか、できるだけていねいに噛み砕いて樹里に教えた。樹里は雅也の説明に対し「あ、この記号、顔文字で見たことあります」といい加減な感想を添えていた。
「さて、暗号も残りわずか……あと数字2桁だ」
ディスプレイに、最後の暗号が表示されていた。
「ZKDWLVWKHDQVZHUWRWKHXOWLPDWHTXHVWLRQRIOLIHWKHXQLYHUVHDQGHYHUBWKLQ」
樹里は目を丸くした。
「今までのと違って数式っぽくないですね。これ、数字2桁の答えが出るんですか?」
「……さあ。これ多分、オーソドックスなカエサル暗号だな。アルファベットを3列上にずらすだけで解けるやつだ」
「あらら、ラストに手を抜いたんですかね。えーと、3文字戻すから 、Y、X……一文字目はWですね。えっと次は……」
「『What is the answer to the Ultimate Question of Life, the Universe, and Everything』?」
何でもないことのように、雅也はすらすらと読み上げた。樹里は半分閉じた目で、雅也の顔を反射する黒いディスプレイを見下ろした。
「……はい来ました! 本日2度目のドン引き来ました!」
「……『命、宇宙、万物に対する普遍的な問いへの答えは何か?』ね」
雅也の顔が曇った。
――命、宇宙、その他万物に対する普遍的な問いへの答え? 何だそれ? このセンテンス自体、何かの暗号なのか?
樹里が雅也の頭に顎を乗せた姿勢のまま、手を伸ばし「4」と「2」のキーを人差し指で順々に押していく。タイピングに不慣れな人に特有の、たどたどしい手つきだ。樹里がエンターキーを押すと、唐突に画面が真っ暗になった。
「あ」樹里が声を上げた。
「…………」雅也は目を画面にくぎ付けにし、静かに震えた。
「あー……」
樹里は冷や汗をかき、おずおずと後ずさった。雅也は無言で立ち上がり、見開いた目で樹里を見つめた。樹里はまるで悪戯がばれた子供のように縮こまり、あちこちに目を泳がせた。
「これ、ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくる問いかけなんですよ。全宇宙で2番目に高性能なコンピュータ、ディープ・ソートが、750万年かけて、『42』って答えを出すんです」
溢れ出す感情を堪えるように肩を震わせ、無言を貫く雅也を見て、樹里は慌てた。
「そ、それでですね! もちろん皆、その答えに納得しなくて……心理を追及するためにディープ・ソートは、『全宇宙で1番優れたコンピュータ』を生み出すんです……宇宙一のコンピュータって、どんなだったと思います? びっくりしますよ? その正体は、兄さんも……いえ、人類誰しもご存じの、アー……」
樹里がそこまで言ったとき雅也が力強く抱きついてきた。樹里は恐怖のあまり口を震わせ、目をギュッと閉じた。
その瞬間、ミルク色の渦を巻く星雲や銀粉をぶちまけたような恒星の群れが、黒い画面に浮き上がった。空間の歪みをイメージさせるオーロラのうねりが生じ、闇の幕を突き破るように、青白いマッコウクジラが躍りでる。樹里にはすぐに、それがクラッカーが用意した『銀河ヒッチハイク・ガイド』のイメージ動画だと理解できた。
マッコウクジラが潜水するように画面下へとフェードアウトする。それと同時に、この繊細かつ写実的な映像に場違いな、90年代のアーケードゲームを思わせる安っぽいフォントで〝YOU WIN!″の文字が表示された。
「解けたよ! 大成功だ!」
雅也が、普段の物言いからは想像もつかないほど弾んだ声で言った。樹里の頬にキスを浴びせ、ポンポンと頭を撫でた。
「やっぱり樹里はすごい人だ」
樹里は緊張した顔で、ゆるゆると首を振った。
「あたし、たまたま、小説読んでただけで」
樹里の口を人差し指でそっと閉じて、雅也は屈託のない笑みを浮かべて言った。
「樹里がパソコンじゃなくてよかったよ」
そう言って、雅也は樹里のことを抱き寄せた。樹里は半ば雅也を押し倒す形で、革張りのアームチェアへと飛び込んだ。雅也の胸の中に顔を埋め、樹里は先ほどの雅也の台詞を心の中で反芻した。
――樹里がパソコンじゃなくてよかった。
樹里はまるで、心臓の周りの血液だけがわずかに温度をあげたかのような、じんわりとした温もりを胸に感じた。
* * *
2015年11月10日(現在)京都
樹里がリビングから廊下に出ると、ハツカネズミに似た顔立ちの男の死体に出くわした。玄関へと続く廊下の奥に目を向けると、ツキノワグマに似た顔の大柄な男がドアの傍で横たわっている。靴箱の傍には、腰にシザーバッグを巻いた若い男――自分にとって兄弟子にあたる男の死体があった。
男の死体をしばらく遠目で観察したあと、樹里は生きている2人の男に視線を写した。うさぎの耳がついたパーカーを着た少年が、こちらに背を向けている。少年と話をしているのは、黒い背広を着た、神経の細そうな若い男だ。若い男――篠原は、仰向けに倒れた姿勢であるためか、こちらにはまだ気づいていない。
「……インビジブル・スレッドでしたっけ? 手品で使われる見えない糸……武器として使うところなんて初めて見ました」
ほんの少し呆れた様子で、篠原が言った。うさぎ強盗はゆっくりと首を横に振った。
「ケブラーは防刃チョッキにも使われるほど頑丈な素材なんだよ。戦闘に使えない理由があるかい?」
「……そういうものですか……。あ、手を縛りつけてるのも切ってくれますか?」
「待ってよ。頑丈って言ったじゃん。けっこう切りにくいんだからさ」
篠原の手首あたりの空間に、うさぎ強盗は真っ直ぐにナイフを振り下ろした。篠原は拘束を解かれ、体が軽くなるのを感じた。自由になった手で胸元をまさぐって、苦々しそうに顔をしかめた。
「かえしのついたガラス針……いつこんなものを引っかけたんですか?」
「あのツキノワグマみたいなのに投擲ナイフ投げたとき、ついでにね。気づけなかったでしょ? 透明人間に胸ぐらつかまれたとでも思った?」
「……ええ、まあ」
会話を続けながら、少年は、篠原の四肢を拘束する糸を順々に切って回った。篠原は起き上がり、手首を交互に軽く揉んだ。
「……私を、生かすつもりですか?」
「うん。篠原さんには覚悟があるように見えたし……」
「何を根拠に?」
「ブラフだったらすぐ分かる。鋭すぎるほどに感覚が鋭いからね」
うさぎ強盗は樹里と目が合うと、親しげに微笑みかけた。つられて篠原も顔を上げ、少し不安そうな眼で樹里を見つめた。
「随分死体が増えましたね」
おそろしく冷たい声で樹里が言った。少年がビクリと肩を震わせた。
「樹里、なんか怖い」
「あたしはいつもこんな感じです」
うさぎ強盗の少年は、困ったように頭をかき、篠原に小声で「普段はもっといい人なんだけどね」と耳打ちした。篠原は2人の関係性を計りかね、ただただ目を丸くするだけだった。
「しかし3体かあ……これはちょっと処理に手間がかかるかもね。あ、そういえば樹里。あれは君の兄貴分でしょ? どうする、丁寧に弔っても良いよ?」
うさぎ強盗はナイフの先で、玄関でうなだれている若い男の死体を指し示した。樹里は、うんざりとした様子でかぶりを振った。
「良いですよ、別に。長い付き合いでしたけど、特に感慨ないですし、適当に捨てましょう」
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