第3話 黒崎雅也、本音を隠して死地へと歩く


 樹里は椅子の上で体育座りをして、自分の両脚をぎゅっと抱きしめていた。雅也が話しかけても、頬を膨らませてそっぽを向くだけだった。


「機嫌直せよ」雅也は樹里の頬を軽くつまみ、無理やり口角を上げさせて笑みをかたちづくった。


「ひふぉいウィンティキれしたよ! ホンホ!」

「本当?」

「ふぉんふぉー」

「自由?」

「ふぉんぽー」

「鳩」

「ふぉっぽー」

「国木田」

「どっぽー」


 まるでとりとめのない会話と、滑舌が悪い樹里の声がおかしく思え、雅也はふと吹き出してしまった。それにつられるように、樹里も笑った。雅也が手を離し、樹里の頬をそっと撫でると、彼女はくすぐったそうに顔をほころばせた。


「樹里は、こんな頭悪い会話が楽しい?」


 樹里のブラウスの襟が折れているのを丁寧な手つきで直しながら、雅也が言った。樹里は両手で雅也の右手首をそっと包み、ほんのり頬を赤くして目を細め、その手の甲に頬ずりした。


「ええ、幸せですよー」

「……そう。それなら茶番にも価値があるね」


 雅也は樹里の顔を眺めながら、静かに思索を巡らせた。


**********************


 ――さて、今のところ分かっている情報をまとめてみる。


 まず、日名子は外出中である。俺と樹里がこの部屋の鍵を突破して侵入したのは午前7時ごろ、そろそろ4時間近くたつ。


 日名子の外出先は職場ではない。日名子の不在に対する風間の狼狽ぶりから察するに、こうした無断欠勤はめったにあることではないようだ。おそらく、普段の日名子は真面目で責任感があり、よほどのことがない限り、無断欠勤するようなことはないのだろう。逆に言えば、よほどのことが日名子に起きたのだ。


 日名子は新人スタッフやアルバイトではない。だとすれば、店の電話番号くらい覚えているはずだし、その気になれば電話を借りるなり公衆電話を使うなりして連絡できるはず。日名子は今、それができない状況下にあるようだ。


 電話で風間に聞いたところによると、日名子は昨日出勤している。おそらく、売場の鍵を預かったのも昨日だろう。つまり昨日の時点では、日名子は今日ちゃんと出勤して売場を開ける心づもりでいた。昨日の時点では想定していなかった不測の事態に見舞われたがため、出勤できなくなったわけだ。


 日名子は、財布もパスケースも置いて外出している。免許証も部屋の中だ。そうなると、車や電車で遠出しているとは思えない。不測の事態――例えば、親の危篤や身内の不幸――のために出かけて帰れなくなった、というわけではなさそうだ。大体、そうした状況なら、いつでも連絡がつくようにスマホは絶対手放さない。日名子には遠出する意思はなく――夜のジョギングか何か――徒歩で済ませる用事で出かけ、そこで「家に帰れなくなる原因」に出くわしたと考えるべきだろう。


 家に戻れなくなった原因は病気だろうか? いや、もし日名子に持病があるなら、風間は犯罪に巻き込まれた可能性よりも先にそっちを懸念したはずだ。事故だろうか? 仮に日名子が事故に遭って、連絡不可能になるほどの重傷を負ったとする――それほどの大事故なら、4時間もたてばもうニュースサイトに上がっていてもおかしくないが――


**********************


「……なるほどな」


 雅也はブラウザを閉じ、イヤホンをぐるぐる巻いてまとめ、スマホを腰に巻いたシザーバッグに放り込む。


 そのとき、ピンポーンと気の抜けた音が響いた。樹里がビクッと肩を震わせ、雅也は玄関を鋭く睨んだ。


「あれ、日名子の姉さん帰ってきました?」樹里が言った。

「家主がインターフォン鳴らすかよ」雅也はアーミーナイフを取り出すと、ドライバーをその内部に収納し、刃渡り5センチほどのナイフに切り替えた。


 雅也は手の中でナイフを回してもてあそび、しばらくもの思いに耽った後、いつでも瞬時に取り出せるよう、柄を覗かせる形でシザーバッグのサイドポケットに刃を差し込んだ。


「どうしました? 雅也の兄さん、怖い顔して」

「何でもないよ……それより、ちょっと玄関の様子を見てくる。まあ、宅配便か何かだろうから、受け取っておいてあげよう」

「何でまた?」

「ひょっとしたら、この来客をうまく処理すれば、日名子の助けになるかもしれないだろ? まだ、アイス泥棒の罪滅ぼしもしてないしな」


 雅也は、腰にすえたナイフの柄を人差し指で軽く弾いた――このタイミング――訪問客は日名子が「家に帰れなくなる原因」と関係のある人物。


「なるほど。再配達頼むのって、地味に面倒ですもんね!」樹里は、屈託のない笑みを浮かべた。雅也は彼女の髪をそっと撫でた。


 ピロンと、日名子のスマホの通知音が鳴った。ロック画面に通知されたメッセージを見て、雅也は苦笑した。


「どうしました? 雅也の兄さん?」

「……風間の奴、実は俺をどっかから見てるんじゃないだろうな?」


 ロック画面に表示された文面は、さっき見たものとさほど大差ないものだった。


『送信者:ネチネチ風間  

 件名:心配しています  

 何か事件に巻き込まれてはいないかと、気が気でなく……』


 雅也は日名子のスマホを胸ポケットにしまいこんだ。椅子にかけた上着をつかみ、袖を通しながら、玄関に向けて歩き出した。

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