エピローグ

エピローグ リズ・コレーヴィンは風間俊彦を旅路に巻き込む


 新幹線の自由席車両。黒シャツの上に紺のジャケットを着た細身の男が、脚を組み、ひじ掛けに頬杖をついて目を閉じていた。空いた手にはスマートフォンを軽く握っている。彼の隣の座席に置かれたビジネスバッグに、置き引きの手がそろそろと忍び寄っていた。

 その手がバッグに触れた瞬間、寝ていたはずの男は突然カッと目を開き、置き引きの手首を掴んで引っぱり寄せた。


 置き引きは驚愕に目を丸くしたが、それは男も同じだった。男のバッグに手を伸ばそうとした窃盗犯が、10歳そこらの異国の少女だったからだ。ストロベリーブロンドの髪を揺らし、翡翠色の澄んだ眼を何度も瞬いている。

 愛想笑いを浮かべ、少女は英語で言った。


「ねえ。ちょっと見逃してくれないかなあ?」

「……それは無理だ」

「あ、それじゃあ襲われたって叫んじゃおうかなー。『このロリコン!』って車両中に聞こえる声で叫んじゃおうかなあー」


 挑発的な笑みを浮かべながら、少女は妙に間延びした声で言った。男はまるで動じない。


「そういう脅し文句は、慎重に口にしたほうがいい」


 黒シャツの男は、スマートフォンの画面を見せた。「録音」の文字と赤丸のマークが表示されている。少女は何か言いたげに口をパクパクさせ、唇をわなわなと震わせたが、やがて小さくため息をついた。

 黒シャツは一瞬ためらったあと、少女の手を放した。少女は不思議そうに首を傾げた。


「いいの?」

「走る密室で逃げるほど馬鹿には見えない」

「……ふうん」


 少女は、さも当然のように、黒シャツの隣にちょこんと腰かけた。


「……もう一回聞くけど、見逃してくんない?」

「生憎、ちょっと機嫌が悪いんだ」

「あれ? なんか厄介ごと? 何? あたしの力でどうにかできるんなら解決するよ」

「職場に意中の人がいたんだ」

「あ、コイバナ? よっし、女の子に相談してみなさいな!」

「彼女が僕のメアドを『ネチネチ風間』で登録していたがために、ちょっとメンタルブレイクなんだ」


 黒シャツの男――風間俊彦は、眼には若干の涙を浮かべていた。顎を突き出す不遜な態度でさえ、涙を零さまいとこらえている虚勢に見える。少女はいたたまれない面持ちで目を伏せ、真横に目線を反らした。


「……ごめん、これはちょっとどうしようもない」

「そうか」


 淡白な声でそう言った風間の目から、ひと筋の涙が滴った。


「1週間前の無断欠勤をあげつらい、口論になったのが間違いだった」

「過去の過ちを掘り下げるのは良くないことだね。うん、過去の過ちはさっぱり水に流すべきだ」

「ああ、その通りだな。ただし2分前の置き引きまで過去にする気はないぞ」

「えー、ネチネチしてからに」


 その一言を聞いたとき、風間の顔がさっと青ざめる。風間は身体の芯を失ったように、がっくり項垂れてしまった。少女が励ますように、その肩をポンポンと叩いた。


「愚痴ぐらいなら聞くよ? お兄さん」

「……さっき君に傷をえぐられたような気がすることは忘れよう。それなら愚痴と引き換えで、駅員に突き出すのは勘弁してやる。ところで君は、どこで降りる?」

「え? 京都駅だけど?」

「同じか。ならちょうどいい。君の親と話して、きっちり叱ってもらうぞ」

「……送ってく気? やめておいた方が……」

「構わんよ。東京本社の研修の帰り道でね。今日はもう仕事がないんだ。責任もって保護者に送り届けてやるさ」


 風間に悪意はなかったものの、彼の発した「保護者」という単語は少女の心にちくりと針を刺した。

 ――これから向かう先にいる男は、あたしを保護する人間じゃない。

 ――あたしを金で買った、小児愛者の変態なのだ。


 ――だからおそらく、連れ添いとなったこのネチネチ風間と過ごす時間が、あたしにとって人間として扱われる最後になる。


***


 リズ・コレーヴィンは東欧の発展途上国から来た、現代の奴隷だった。


 彼女が9歳の誕生日を迎えた日、母に「新しい就職口を紹介してあげる」と声をかけられた。カーペット工場で住み込みで作業にあたり、空いた時間には文字書きの勉強もできると聞かされたリズは、これでもう過酷な農作業から解放されると、うきうきしながら運ばれた。運ばれた先は、異国の風俗パブ。リズぐらいの年齢の少年少女に欲情する、変わった性癖の好事家たちの吹き溜まりだった。


 フリルやレースがふんだんにあしらわれた下着に近い衣装を着せられ、ステージで拙い歌を歌わされた。幸い、1人ではなかった。黒人の子や黄色人種の子もいたし、男の子も何人か混じって、皆リズと同じ衣装を着ていた。さほど羞恥心は感じなかったことを覚えている。性的な羞恥心よりも、異様な雰囲気に飲まれ感覚が麻痺する方が早かったのだ。


 扇情的な服のずらし方を覚え、口移しで客の口に紅茶を注ぎ込むサービスに慣れた頃、店が火事で焼失した。幾分か損害を埋めるために、リズは商品として売りに出され、様々な仲介業者を回されたあと、日本の人身売買組織の輸入品になった。そして今日、リズは新幹線に乗り、彼女を買った新しいご主人様のもとに向かうことになったのだ。


 そしてつい数分前、リズの目に、頬杖をついて眠りこけていると思しき黒シャツ男の姿が映った――今ここで男のビジネスバッグを盗んで逃亡資金にすれば、しばらく逃げられるかもしれない――そんな淡く無計画な思いがリズの脳裏をよぎった。冷静に考えれば、自分を買った好事家から逃げられるはずなどないと、分かるはずだったのだ。それでも何か運命が変わる気がして、衝動的に手を伸ばしていた。


 かくして、今に至る。リズが売り飛ばされる運命は、結局何も変わらなかった。


***


2015年11月18日(事件の1週間後)

京都/左京区岡崎の高級マンション


 久本銀行襲撃後、意気投合した外国人の4人組は、共同出資で買い取った高級マンションで生活していた。今日は来客があるため、4人はリビングの大型テレビの前の床に座り込み、だらだらとおしゃべりしながら待っていた。いつしかのバンと同じく、スナック菓子やジュースを並べ、パンクロックをBGMに流している。


 そして彼らから少し距離を置き、壁際のソファに異様な風体の2人の男が並んで腰かけていた。首から上に余すことなく人体改造を施した男と、銀髪に髪を染め上げたヘッドフォンの男――黒崎銀之丞と一ノ瀬譲である。2人はソファの両端で『ニンジャスレイヤー』を読みふけり、軽い世間話で時間を潰していた。


「なあ黒崎の兄貴、容態はどない?」

「しばらくは筋トレは禁止。なあヘムヘム、療養中暇だから、なんか『阪神ローン』のときみたいな暗号寄越せよ」

「ええでええで。いやあギーク精神昂っとるなあ。あ、そういや兄貴はさ、ボクの暗号のデータ、どこで手に入れたん? 阪神ローン? セキュリティ会社?」

「あー、あれか。雅也が『面白い暗号拾ったんだ』とかいって渡してきたんだ。どっちの方が早く解けるか勝負だって。結局俺は『命、宇宙、万物に対する普遍的な問いへの答え』が分からんくて躓いて、雅也に教えてもらわなきゃ解けなかったな……」

「ググれや。つうかそれ、雅也の兄さんも当初知らんかったうてたで」

「……マジか、あいつ滅茶苦茶どや顔してたぞ。え、じゃあ雅也はどうやって解いたんだ?」

「樹里が『銀河ヒッチハイクガイド』読んでたんよ」

「ああ? あいつ本なんか読む脳みそしてねえだろ」

「お前それは失礼すぎやろ。樹里は『銀河ヒッチハイクガイド』が愛読書とかうてたな。ガイドブックの帯についてる文句がお気に入りとかなんとか」

「なんて文句だ?」


 一ノ瀬は目線を宙に上げ、「あー」とか「えー」意味のない声を出し、結局、渋い顔で『ニンジャスレイヤー』に視線を戻した。


「……忘れた……? ? 大体そんな感じだった気がする」


 インターホンの音が部屋に鳴り響き、4人組も銀之丞たちも、水をかけられたように静かになった。一ノ瀬がカメラから訪問者を確認し、ボタンを押して解錠する。来客がドア鈴を鳴らし、部屋に入ってきた。


「お呼びいただき光栄です、M&D京都支部長様」


 銀之丞が茶化すように言うと、篠原は照れたように笑い、脱いだコートを腕にかけた。


「丁寧な挨拶痛み入ります、


 M&Dの京都支部で荒事に携わっていた人員は、今回の騒動でほとんど失われ、組織は事実上解体を待つだけになっている。この壊滅的状況の中、若き支部長篠原がM&D京都支社に引き入れたのが、ここに居る6人だ。


「なあ、篠原さん。俺はともかく、一ノ瀬やあの4人組は人殺しや人攫いの経験はないし、やらないぞ? こんな奴らを人身売買業に引き入れてどうすんの?」

「ええ、今日はそのことについてお話に来ました。これから我々が着手するのは人身売買業ではありません」


 4人組と一ノ瀬と黒崎がそれぞれテーブルにつくと、篠原はこれからM&D京都支社が行う新しいビジネスの草案を語った。


 それはある種の狂気を孕んだ謀略だった。篠原の持つピカロ管理権限を濫用してブラックマーケットを掻き乱し、M&D京都支社のコネクションを使い潰して人身売買の流通ルートに大騒乱を巻き起こす、悪魔的なビジネスプラン――実行すればピカロ管理人やM&D京都支部長の肩書を失う捨て身の策だが、うまくことが運べば、莫大な収益を叩き出し、現状をはるかに凌ぐ絶大な権力を握ることになる。

 

 4人組も一ノ瀬も、黒崎までもが、冷や汗を流しながら口元を引くつかせていた。6人は、お互いに苦笑いした顔を見合わせた。


「……理屈は、分かるけどさあ」

「鴉でもしねえぞ、こんなピカロの使い方……」

「これやればさすがに梶さんもブチ切れるんと違う?」

「やっぱ篠原の旦那はイカレてる。常人の発想じゃねえぞこの計画」

「発想のぶっ飛び具合もリスクも、時限機雷ツァイトラ・ミーネのときの比じゃねえや。この国で一番おっかない奴を敵に回すことになるんじゃねえの?」

「ウェーイ」


 篠原は、ほんの少し稚気の混じった、邪悪な笑みを浮かべた。新しい部下たちを見る眼差しは真っ暗な闇の中に澄んでいた。


「怖気づきましたか?」


 篠原のこの一言に、6人は、まるで示し合わせたようにニッと笑った。篠原は満足そうな顔で目を閉じて、新しい部下たちに言い放った。


「覚悟を決めておいてください。私たちはこれから、悪鬼蔓延はびこる戦場の中心になる」


 そこから先はミーティングの時間だった。各自の役割の確認、利益の出し方、支援者を確保するあて、支払われる報酬――様々な話題について話し合い、ある程度それがキリの良い段階まで進むと、篠原は席を立った。


「とりあえず今日はここまでです」

「あれ、篠原の兄さんどっかいくの?」

「これからちょっと約束があって」

「約束って?」

「人身売買です」

 

 まったく後ろ暗い空気を感じさせない、爽やかな笑みを浮かべてそう告げると、篠原はマンションをあとにした。


***


 京都駅の新幹線乗り場の改札を、リズ・コレーヴィンと風間俊彦は通り抜けた。人込みの中、意気投合した2人は、まるで兄弟のように親しげに話を弾ませながら、並んで歩いている。


「最後にお話しできたのが、風間で良かった」


 物憂げに目を伏せながら、リズは笑った。風間は不思議そうに首を傾げた。


「なんだ、今生の別れみたいに。君の保護者は京都民なのだろう? だったら近々、青山スーツカンパニー京都駅前店に遊びに来るといい。残念ながら、子供服の取り扱いはないがね」

「……これからあたしを迎えにくる里親は厳しい人だから。多分、一日中

「……そうか、縛られてしまうのか。それは残念だな」


 風間は少し、気の毒そうな眼でリズを見た。彼の脳裏では、リズは学習塾とピアノの稽古に身を縛られ、うんざりとした顔をしている。


「リズの新しい里親はどんな人なんだ?」

「分かんない。あたしも電話で1度話しただけだから。ただ、変な人だってことは分かったけど」

「変な人? 何を言ったんだ?」

「さあ?」


 リズはそこで会話を切って、歩くペースを少し早めた。

 ――本当に、今回あたしを買った小児愛者は、変な男だ。

 ――M&Dの電話で話した彼の第一声は「忘れてた」だった。それから「私が5億円で落札した扱いなのか……まさか所有権が回ってくるとは思わなかったな」と意味の分からないことをぶつぶつ続けた。穏やかで明るくありつつも、電話の向こうの苦笑いがイメージできる、困ったような声だった。


 ――あの店で色んな好事家と会ってきたけど。

 ――『良かったら遊びにおいで』なんて言われたの、初めてだ。


 駅前のショッピングモールに至る横断歩道の前に立ったとき、忙しく駆け抜ける車の向こうで、若い男が手を振っているのが見えた。白黒映画に登場するマフィアを思わせる黒いコートに、神経質そうな顔立ち。男のたたずまいはインテリの悪党といった感じなのに、何故か妙に、優しげな眼差しを向けてくる。リズはたじろいだ。


 ――あんな眼に騙されるな。あれだって闇の世界の住人なんだ。考えろ。風間を悪党に巻き込まないようにするにはどうすればいい?


 腹を空かせて荒れた野良猫のような眼で、リズは若い男をじっと見据えた――そうだ。最初は穏やかな表情で近づいてきて、後々豹変する変態共は大勢いた。油断ならない。


 ピリピリとした空気をまとって警戒するリズの背中を、風間が軽く叩いた。半ば強引に体の中で張りつめていたものを解され、リズは恨みがましい眼で肩越しに風間を見た。


「……何さ?」

「そう身構えることでもないと思ってな。事情は知らんが、君は君が想定するほど不幸にはならない」

「……そんなわけない」

「保証しよう、『ネチネチ風間』の名にかけて」

「あ、ネタにできるぐらいには回復したんだ」

「ピアノのレッスンはせいぜい週2だ。不安がることはない」

「何の話だよ……あたしにはもう、不幸な未来しか見えないよ?」

「そうか? 僕は何故か根拠ない自信が湧いてきてるぞ? 複雑な運命が巡りに巡って、僕らの知らないところで、世界が好転してるような予感がするのさ」

「……何それ」

「僕は『勘のいい奴』として有名でね。先日も同僚から『メールの文面が的確すぎてキモい』と気味悪がられて泣いたばかりだ」

「どこまでも不憫」

「信じろ、リズ。あの男は君を悪いようにしない」

「……本当かなあ」


 リズは不安そうな顔で、上着の袖口を軽く口元にあてた。信号が青になる。風間がぐずるリズの手をひいて、篠原に向けて歩き出した。

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