幕間

幕間2 黒崎雅也の昔話

2014年6月18日

上海外灘区のマンションの一室


「君のおかげで、私は、生まれて初めて賭けに勝った」


 後に誰もが認める世界最高の賭博師となる少年は、夢の中、何度も何度も梟の台詞を耳の奥にこだまさせた。このころの彼はまだ、ごく普通の、12歳の少年だった。


***


 黒崎雅也が目を覚ましたのは、見知らぬベッドの上だった。鉄パイプを組み合わせた台に布団を置いただけの簡素なベッドを除き、部屋には小さな机と回転椅子しかない――その上に、血色の悪い青年が体育座りの姿勢で乗っていた。


「……シアラー?」


 うわ言のようにそう呟きながら、雅也は上体を起こした。蛇に睨まれた野兎のうさぎのように、青年は肩をビクッと震わせ、回転椅子から転げ落ちた。


「……ルイス・シアラーだよね、ロンドン王立音楽院の」


 雅也が確認するように言った。眼窩が落ちくぼみ頬が削げ、少し人相が変わっているものの、青年の顔は、雅也がかつて音楽雑誌で目にしたものに相違なかった――14歳で失踪した、天才ジャズピアニスト。


「……驚いた、本名、知ってる子が、いるなんて。でも、そのことは内緒で、うん、鳶って呼んで。あ、中国語で大丈夫? 僕、一応、日本語話せるよ?」


 ブツブツと歯切れ悪く、つっかえながら青年が言った。何か神経に障害があるのだろうか、すらすらと言葉を話すことができないようだった。


「あ、そうだ」


 鳶はこげ茶色のレザー生地のシザーバッグを上着のポケットから取り出し、両手で掲げて見せた。病み上がりで青くなっていた雅也の顔が、ぱあっと輝いた。


「ありがとう。大切なものだったんだ……」

「そっか、良かった。大変だったけど」

「大変って?」

「え? うん、えっと……」


 鳶はポツポツと話し始めた。彼によると、馬の賭博場に残された雅也の荷物を、梟が持ち帰ってくれたらしい。ただ、梟の弟子の鴉という男が、このシザーバッグを気に入ってしまい、少し話がややこしくなった。少年がまだ床にせているのをいいことに、鴉はバッグを取り上げてしまおうとしたのだ。結局鳶が抗議したおかげで、鴉はしぶしぶ、同じメーカーのシザーバッグを自分用に買いつけたのだという。


 鳶の説明は要領を得ず、たどたどしく、雅也の方で彼が話し忘れた文脈を補完しなければならないことも多かった。鳶は自分の手柄について深く言及したがる性格ではなかったし、まったく見返りを求めていなかったが、それでも雅也は、丁寧にお礼を言った。鳶は誰かに感謝されることに慣れていないらしく、終始どぎまぎと手遊びしていた。


「起きたなら、紹介、する。鈴蘭って子が、今ちょっと、海外任務に、出て、いないけど、他は皆、むこうの部屋にいる」


 寝室のドアを開けると廊下で野獣のような風貌の大男と鉢合わせした。大男が少年に手を差し出そうとしたとき、鳶がまるで自分の身を盾にするかのように割り込んできた。


「……燕の顔、子供に、悪い」

「……酷すぎませんか? それはそうと、今日は言語機能の調子が悪いようですね、鳶。まあ、幻覚症状がなりを潜めている分、普段よりはマシですが……」


 雅也がリビングに出ると、3人の男女がテーブル上のノートPCの画面をのぞき込み、議論を交わしていた。パンクファッションに身を包んだ男女2人組と、いかにもずる賢そうな顔立ちの、細面の男だ。


「だから鴉の兄貴、ここはレイズだ。レイズしかない」

「……夜鷹は何なの? さっきからコールとレイズしか言ってないよ?」

「チェックだな」

「うわ、鴉の兄貴のチキン!」


 パンクファッションの男――夜鷹が細面の男の後頭部を平手で殴った。その真後ろに、野獣のような男がぬっと歩み寄る。


「鴉の兄様を侮辱するようなら殺しますよ、夜鷹」

「ああ? なんだ、喧嘩なら買うぞ木偶の坊」


 夜鷹が、拳を手のひらにぶつけて乾いた音を鳴らした。しかし次の瞬間、夜鷹は、燕の巨大な体躯の裏に隠れていた雅也の存在に気がついた。先ほどまでの険悪な顔つきが嘘のように、快活に笑って手を振った。


「いよう、じゃねえか! よかった、起きたんか! あ、そうだ、梟の親父から聞いてるぜ! お前賭け事超強いんだって?」


 夜鷹は軽快な足取りで燕の傍をすり抜け、雅也の背中を強く叩いた。雅也はよろめきながらも、つまづくことなくテーブルに歩み寄った。


「なあ鴉の兄貴、せっかくここに天才賭博師がいるんだ。こいつに負け分取り返させようぜ!」


 雅也はきょとんとした顔でノートPCの画面をのぞき込んだ。二枚の手札が画面の左隅に表示され、中央には共通カードが並んでいる。右には4つの選択肢だ――レイズ、コール、チェック、フォールド。


「お前、テキサス・ホールデムのルールは知ってるか?」


 煙草の煙をくゆらせながら、細面の男――鴉が言った。にやにやとした笑みを浮かべている。雅也は顔を歪めた。鴉の視線はいやらしく、ただその視線を受け止めているだけで、濡れた髪が体にまとわりつくような嫌悪感をもよおすからだ。

 雅也は少し怯えた様子で、首を横に振る。


「じゃあ喜べ、新しい弟よ、お前は今日俺の手で、世界で最も品のいい賭博の世界を知る」 


 鴉はテキサス・ホールデムのルールをざっと説明した。鴉の話ぶりは鳶とは比べものにならないほど分かりやすかったが、何処か冷たい印象を受けた。人から説明を受けている心地がしないのだ――まるで、コンピューターが作成した精巧かつ理想的なマニュアル本を、機械音声が読み上げているかのように思える。

 一通りの説明を語り終えると、鴉はノートPCに向き直った。


「アカウント作成するぞ。最初の軍資金は夜鷹もちで」


 鴉は目にも止まらぬ速さでキーボードを叩いた。黒い画面に、英語と数式が混じりあったような不思議な白文字がずらずらと並んでいく。

 雅也にはそれが、日本語も中国語も知らないPCが、自分の言葉で、必死にこちらに向けて何かを話しかけてこようとしているように感じた。同時に、自分がその言葉を読み取れないことを歯がゆく思えた。このときの雅也はまだ、プログラミング言語に対する知識など欠片も持ち合わせていなかったのだ。


「つうか鴉の兄貴よ、『ジャック・ピストルズ』のシステムってけっこう堅牢だって聞いたぜ? 認証を誤魔化すの大変だって」夜鷹が口を挟むと、鴉は眼を画面から離さないまま鼻で笑った。


「俺にかかれば造作もねえよ、ほら」


 一通りの認証を乗り越え、残すところアカウントネームの登録のみになった画面を表示させると、鴉は雅也をノートPCの前に座らせる。雅也は途方に暮れた。これから何をすればいいのか、見当もつかない。まごまごしているうちに、しびれを切らしたようにパンクファッションの女――牡丹がキーボードに手を伸ばした。


「……代わりに可愛い名前つけたげる」


 牡丹が勝手にアカウントネームを打ち込み、確定ボタンを押そうとしたところで、夜鷹が牡丹の手を叩いて跳ねのけた。


「なにファンシーな名前つけようとしてんだ。いいか、カジノってのは戦場なんだ。『金を奪っていくぜ』って感じのアグレッシブな名前にしねえと。例えばこんな感じにだな……」


 牡丹が先走ったのを諫めるような口調で割り込みつつも、夜鷹は夜鷹で勝手に文字を打ち込みはじめる。


「……夜鷹センスない」

「ああ? お前もテキトーに可愛いもんブチこでりゃどうにかなるってその思考回路捨てて……」


 夜鷹と牡丹の2人が口論をしているのを無視して、雅也が、すり抜けるようにPCに手を伸ばし確定ボタンをクリックした。


「「「「「あ」」」」」


 鴉や燕や鳶も含め、その場にいた若者たち全員がぴったりと声を合わせた。5人は顔を見合わせ、やがて同時に雅也に向き直った。


「良かったのか?」淡白な口調で、鴉が訊いた。


「いい、この名前、気に入ったから」少年は頬をほんのりと赤くさせた。


 こうして黒崎雅也は、電脳カジノ「ジャック・ピストルズ」において『うさぎ強盗』の名前で登録することになった。

 

***


 これは樹里と雅也が日名子麻美の部屋に忍び込むよりも前、篠原がM&Dに調査員として潜入するよりも前、殺し屋梟が殺され、鈴蘭がうさぎ強盗を憎悪するよりも前、「ジャック・ピストルズ」で大暴れしたうさぎ強盗が九龍新会をブチ切れさせるよりも前――ずっとずっと前のエピソード――梟が馬の賭博場で12歳の黒崎雅也と会った日から、3日後のこと。殺し屋鈴蘭が海外任務に出ていた際に起きた出来事だった。


 結局、梟にとって最後の弟子は、殺し屋稼業が肌に合わなかったらしく、椿の紹介を受ける間もなく数日で家を出た。その後すぐ、雅也は徐匯ジョワイ区の新興麻薬組織を巡る騒動に巻き込まれ、その最中、5年前に家出した黒崎一家の御曹司と再会するが、それはまた別の物語である。


 そして、雅也が鈴蘭と会したのは――。

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