10章 (過去編) 2014年 10月15日 上海
第24話 物語は一番最初、樹里と雅也に戻ってくる
2014年10月15日
上海/海沿いの田舎町
石蛇たちがバンを走らせていたのは、安ホテルや農園が並ぶのどかな田舎町だった。外灘区と違い、夜中でも
運転席の石蛇がおもむろに口を開いた。
「お前結局、うさぎ強盗の愛の告白を受けるのか?」
「何でそんなこと訊くかな? やっぱ顔面に性的スラングを彫った人間はゲスいね」
「え? 何それ喧嘩売ってる? 大体この刺青は卑猥じゃねえから」
「あたしはあんたの写真を見た瞬間、それが性的に相手を貶めるスラングだと察したよ」
「読めんの?」
「読めないよ」
「勝手すぎるだろ」
「じゃあどんな意味?」
「知らねえよ。アラビア語だから読めなかった。字面が気に入ったから刺青師にそのまま頼んだんだ。空港で拾ったパルプフィクションに載ってた字だよ」
「パルプフィクション? じゃあ卑猥だよ、その入れ墨。この世のパルプフィクションには、スラングしか詰まってない」
「マジか。俺は宝物を拾っていたのか。それだけのためにアラブ語の辞書買う価値あるぞ」
ピクリとも口元を緩めない真顔のまま、2人は下世話な会話を続けていた。やがてバンは、町で最も豪奢な建物の前で停められた。
マフィアの牙城にはとても見えない、高収入のデザイナーが住んでそうな小洒落た邸宅だった。ただアサルトライフルを背負った門番のものものしい態度が、ここが堅気の敷地ではないことを主張している。
「俺の国の文化では、殴り込みの際は口上を述べるのが礼儀なのさ」
拳銃を手にバンを飛び降りた石蛇は、警告を発し銃を向けてくる門番に対し、気取った仕草で両手を広げた。
「
石蛇の口上を、鈴蘭のショットガンが遮った。3インチ半の散弾が銃口から数フィートで拡散をはじめ、12個の細かい粒子となって門番たちの脳を吹き飛ばした。
「あと3秒待ってほしかった!」
石蛇の抗議を聞くことなく、鈴蘭は鉄柵門を蹴りつけた。重量を感じさせる鋼鉄製の鉄柵門が、ウェスタンドアのように軽快に飛び跳ねる。
「石蛇は適当に騒ぎを起こしたあと、車を回して。あたしはうさぎを連れてくる」
***
屋敷の3階、月明かりを反射して光の網をかける海が見渡せる、窓のついた部屋。そこでうさぎ強盗の少年は、拷問にあっていた。
少年は大柄な男に組み伏せられ、床に転がされた。禿げ頭の男が少年の顔面に布を押しつけ、眼鏡の男がペットボトルの水をその布に注ぎ込む。
少年が窒息して失神する直前になると、男たちは布を外し、1300万ドルの在処を尋ねる。少年が拒否すると、再び彼の顔に布をあて、水攻めを再開する。その繰り返しが何十回と続けられた。
拷問人が加減を間違え、少年の意識が途切れる。わずか数秒の夢の中、少年の耳の中で、梟の遺言が再現される。
『鈴蘭だけは私に似て不器用でね、おそらく彼女は遅かれ早かれ、椿とうまくやれなくなる。鈴蘭に危機が迫るようなら、そのときは、君が……』
拷問人がきつけ薬を少年に嗅がせると、むせかえるような息苦しさとともに、少年の意識は無理やり現実に引き戻された。
ドアを蹴破る音とともに、返り血を大量に浴びた鈴蘭が部屋に飛び込んできた。コンマ数秒の間もなく部屋を駆け抜け、サバイバルナイフで禿げ頭の首筋を斬りつける。
「迎えに来たよ、ラビット」
血の海の中、まるで広場で待ち合わせしていたかのような気軽な調子で、鈴蘭は言った。うさぎの顔が一瞬無表情になり、やがて目じりがきっと上がった。
「何で来てんだ! ここが何処か分かってんの」
「もちろん承知。身にしみてね」
鈴蘭は左手を掲げる。手の甲を銃弾で抉られ、血があふれ出ている。右脚にも大きな切り傷が走っていて、黒のジーンズが、血液でわずかに色を濃くしている。少年は、やるせない気持ちを口から吐き出すように叫んだ。
「あんたがここに来る必要はなかったんだ! 兄貴から全部聞いてるだろ? 俺の素性も、俺があんたに惚れてたって話が、嘘だってことも!」
「うん、全部聞いたわ。梟の頼まれごとなんだって?」
「……そうだよ。梟が死んだのは俺のせいなんだ。俺がヘイルムダルムから借りた
「そうね。でも、あたしだって義理で来たわけじゃない」
鈴蘭は左腕を器用に回して少年を肩に抱きかかえる。同時に、監禁部屋に飛びこもうと先陣を切った黒服の眉間に、
「うさぎ強盗を口説くために、あたしはここに来たんだよ」
鈴蘭はガラス窓を蹴破り外に飛び出した。空中で身をひねらせ、上階から伸びた排水管にナイフを突き立てる。アルミ合金の排水管を引き裂きながら、鈴蘭たちは落下速度を減速させる。
彼らが落下した先は、バンの
「はめ込み式のサンルーフだ。通る想定なんてしてねえぞ」運転席の石蛇が不機嫌そうに振り返り、髪にかかったガラスの砕片を払った。
石蛇がアクセルを踏み込み、バンが急発進した。慌てて車に乗り込もうとする九龍新会の若衆たちを尻目に、鉄柵門を強引に突破して屋敷を脱する。
アクセルを全開にして人気のない海沿いの道路を走る。はるか後方に九龍新会の追手が放つヘッドライトが見えた。うさぎ強盗の少年が不安げに訊いた。
「撒けそう?」
「楽勝!」
快活に答えた石蛇の余裕の笑みは10秒ももたなかった。
雷を
「……鴉」
その機体を窓越しに睨みつけ、うさぎ強盗の少年が呟いた。少年は視線を運転席に向ける。
「撒けそう?」
「あれは無理!」
鴉の戦闘ヘリは銀城99のときよりも機敏な飛行性能を見せていた。以前よりも精巧なコンピューターを用意したのだろう。カメラ越しの操作にも関わらず、一定の距離を保ったまま張り付くように追跡し、マシンガンの掃射を浴びせてくる。
乱射された銃弾がバンの装甲を突き破り、リアウィンドウが粉々に砕けた。サイドミラーが根元からはじけ飛ぶ。
鴉は銃弾でじりじりとバンの装甲を削って威嚇してくるものの、マシンガン以上の重火器を用いてこない。鈴蘭は眉を顰めた――何だ、あくまで狙いはバンを停止させることで、中の人間を傷つけまいとしているような――。
「あいつ、随分ちまちました射撃してくるわね」
「……生け捕りにする気なんだと思う。まだ僕が、1300万ドルのチップの在処を吐いてないから……」
「なるほどね、じゃなきゃとっくに蜂の巣なわけか。褒めたげる」
鈴蘭がいとおしそうに少年を抱きしめ、髪をわしゃわしゃと掻いた。少年はくすぐったそうに眼を細め、甘えたがりの子供のように、鈴蘭に抱きついた。
「鈴蘭」
「何?」
「あのヘリ、撃ち落とそう」
「何言ってんのあんた? あたしらの最高火力ライフルだよ?」
「シルヴェスター・スタローンは弓でヘリを撃ち落とした」
「うん、それ『ランボー』だ」
うさぎ強盗の少年は、「何作目だっけ」と一瞬記憶を探るように首を傾げた。結局答えは出なかったらしく、気を取り直し、自分が頭の中で組み立てた作戦を説明し始める。
「AH32-Sは操作システムが完全に電子化されたヘリコプターで、そこには2つの命令系統がある。1つは操縦桿を握るパイロットの命令を電気信号に変換する手動操作。もう1つは、外部の端末からヘリを司るコンピュータに電気信号を送る遠隔操作。鴉は手動操作の命令系統を完全にオフにして……自分のPCから送った電気信号以外は受信しないようヘリのコンピュータを
「理屈は分かるけど、それってどうしたら切り替わるの?」
「簡単だよ。どのレバーでもどのスティックでも、何でもいいから動かせばいい。それだけでヘリはパイロットが操縦桿を握ったと認識し、手動操作主体の態勢に切り替わる。もともと、ラジコンの指示なんかよりパイロットの判断を優先させる設計になってるんだ」
うさぎ強盗がそこまで述べたとき、バンのルーフを突き抜けた弾丸が車内を跳ねた。少年と鈴蘭が身を縮ませる。
「なるほどな! 中に乗り込めさえすりゃ余裕だ! 翼でも生やすか?」運転席の石蛇が、ハンドルを回しながらも皮肉を挟んだ。少年は首を横に振った。
「別に乗り込む必要はないよ、銃弾で無理やりレバーを動かせば十分だ」
「それこそ無理でしょ。銃弾が通る装甲じゃない」
「あいつは俺を生け捕りにしようとする。銀城99のときと同じで、ハッチを開けて音響兵器を繰り出してくる。だからそこで、銃弾をヘリの内部に向けて送り込んで、跳弾させて、操縦桿にブチ当てる」
鈴蘭が呆然と口を開き、目をぱちくりと瞬いた。石蛇が苦笑いを浮かべた。
「正気か?」
「もちろん正気。一応AH32Sの構造も知ってる。弾の飛ばし方の計算もできる」
「当然のように西安工業のトップシークレットを知ってんのな。一応まだ開発中だぞ、あれ。それは置いといて、聞く意味があるかは知らんが、弟よ、お前射撃経験は?」
「あるはずないだろ。日本生まれだぞ」
「そりゃそうだ、コンディションは?」
「拷問の合間に右腕骨折」
「なるほど、まずまずだな」
AH32-Sのマシンガンがバンの後輪を撃ち抜いた。車がスピンしながら道路を滑り、海鮮料理のレストランの壁に側面から衝突した。衝撃で頭をくらくらさせながら、石蛇は拳を握り、八つ当たりにハンドルを殴った。
「どの道逃げられなくなったか、おい、ライフル回せや、片腕故障中コンビ。代わりに俺が……」
石蛇がそう言いながら振り向くと、2人の姿が車内から消えていた。
鈴蘭と少年はサンルーフをくぐってバンの上に躍り出た。鈴蘭は右手で銃把を掴み、トリガーに指をかけている。
AH-32Sのハッチが開き、円盤状の巨大な音響兵器が顔を出した。大地さえも震わせそうな轟音が、うさぎ強盗と鈴蘭を突き抜ける。少年は舌を強く噛み、血を滴らせながらも意識を保った。
鈴蘭は反射的に耳を抑えたくなる衝動をなんとか抑え、少年の耳を包み込むように抱きしめた。耳の奥が悲鳴を上げるのを、奥歯を強く噛んでこらえる。少年の耳を貫く音の圧力が、ほんの少しだけ緩くなる。少年は飛びかけていた意識を取り戻し、ぐらつく銃身を力強く支えた。ライフルの照準が、ある位置でぴったりと固定される。
「狙いは?」
「完璧」
銃身が跳ねあがる。銃弾はこちらに寄せてくる音の塊を真っ向から突き破り、ヘリのハッチを抜け、中に吸い込まれていく。
少年と鈴蘭はサンルーフをくぐって飛び降り、抱き合いながらシートの上に転がった。2人とも、脳みそをかき回されたようなおう吐感に苛まれ、ぐったりと動かない。2発目は無理そうだ。
一見すると、ヘリには何の変化も見られなかった。ローターは回転し続けている。
しかしある瞬間、地上でヘリを見ていた石蛇は、それが先ほどよりも巨大化したかのような錯覚に捕らわれた。ヘリが巨大化したのではなく、高度が下がっていたのだと気づいた頃には、ヘリはもう地上数メートルという距離まで近づいていた。
機体を大きく右向きに傾かせたヘリは、レストランの傍にそびえたつ電柱に寄り、そこから伸びた電線をローターに巻き込んだ。引きちぎられた電線を宙に躍らせ火花を散らし、ヘリの機体は暴れまわる。鋭く落雷を凝縮したような音とともに電柱と激突したブレードがへし折れ、機体がアスファルトを転がった。
「すげえな、おい! 本当に銃弾1発で沈めやがった!」
石蛇が手を叩いて喝采した。しかし、勝利の余韻に浸る暇は、彼らには与えられなかった。
車が8台、レストランの駐車場にぞろぞろと集まってきた。九龍新会の若衆たちが、拳銃やアサルトライフルを手に車から降りてくる。
「あーあ、ラスボス仕留めて万々歳だってのに。雑魚の包囲を抜けなきゃなんねえなんて、興ざめも
石蛇が後方の席に目を向けると、鈴蘭と少年がお互い抱き合ったまま、ぐっすりと眠っていた。2人とも年相応の、可愛らしい寝顔をしている。石蛇は困ったような、それでも嬉しさをこらえきれないような、複雑な顔をした。
「2分な! 2分だけそのまま寝てろ! そんあとは自力で逃げろよバカップル!」
石蛇が手榴弾を窓の外に放り投げた。轟音に乗じてドアを蹴破り、炎の渦に飛び込んだ。
「字は『石蛇』! 元黒崎一家赤松組若衆、黒崎銀之丞! 推して参る」
石蛇が日本語で口上を述べ上げながら、取り囲む黒服たちに弾丸の雨を浴びせた。黒服たちの銃弾が石蛇の肩を掠め、耳をピアスごと吹き飛ばした。しかしそれでも石蛇は怯むことなく掃射を浴びせ、数の不利をもろともせず、敵を車の陰に退かせていく。
少年と鈴蘭が目を覚まし、窓の外を眺め、お互いに顔を見合わせた。
「そこそこやるね、あいつ」
「鈴蘭さんほどじゃないけどね」
「あいつの弟ってことは、ファミリーネームは黒崎よね。ファーストネームは?」
「教えても良いけど、俺は養子だから、ギンノジョーみたいな御大層な名前はついてないよ」
「ありふれた日本名なのはあたしも一緒。変な期待は特にしないよ」
戦場に降り立つ直前、鈴蘭とうさぎ強盗の少年はお互いに名乗り合った。日本語の発音に慣れない鈴蘭は、何度も何度も少年の名前を口ずさみ、舌の上で転がした。
「逃げ切れるかな」
「さあ、そういえば、俺の知り合いの
「どんな?」
「『神様が僕に生きる価値を認めるなら、敵の弾は外れる』」
「奇遇ね。あたしの兄さんも同じこと言ってたわ。それ、正しいと思う?」
「真理だね。絶対正しい」
「その根拠は?」
「前に似非ロンドン橋の急流を、運任せで
「何それ?」
鈴蘭が笑った。少年の手を取り、バンを飛び降りる。
「あたしらの恋路が祝福されるか、弾幕
石蛇の投げた4つの煙幕弾が同時に破裂した。視界が白一色に染まり、一面にばら撒かれた鉛玉が煙の中を縦横無尽に乱れ飛ぶ。うさぎ強盗の少年――黒崎雅也は、天野樹里の手をぎゅっと握り、真っ白な闇の中を駆け抜けた。
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