第19話 殺し屋鳶はピカデリー・サーカスを夢に見る
2015年11月11日
京都三条河原町の歓楽街
/ホテルに偽装されたM&Dの監禁施設
殺し屋
鳶は小柄で、酷く野暮ったい容姿をした若者だった。首元がヨレヨレに伸びきったTシャツにだぼだぼのジーンズ、裾の擦れたベージュのコート――ゴミ漁りと言っても通用しそうだ。しかしM&Dの社員たちも、単に貧乏臭いというだけで、鳶を冷たくあしらったわけではない。
絶えず執拗に瞬きし、焦点が定まらずキョロキョロする眼、血色の悪い肌、骨が浮き出そうなほど落ちくぼんだ眼、だらしなく開いた口、そしてなにより、有機溶剤で溶かされシャチのように尖った歯――鳶は、典型的な
「そうなんです。僕は、あなたみたいな人になりたかった」
黒い箱型のギターケースに抱きつきながら、鳶はロビーのソファに座り込み、コクコクとうなずいていた。聞き上手らしく、一定の区切りどころを自分なりに見計らい、
2人の黒服は遠巻きにひそひそと囁き合った。
「どう扱えってんだよ、あれ。たまに言葉が通じたと思ったら『フランス人に会わせてくれ』の一点張りで、会話成立しねえし。もう蹴り出そうぜ?」
「社長の紹介だ、そうもいかん」
「こいつ、本当にあの梟の弟子なのか?」
「そうらしい。今の椿の手駒の中で、最も腕の立つ殺し屋だそうだ。並の兵隊20人分の働きをするってよ」
聞きかじりの噂を口にしつつ、その黒服も自信なさげに目を伏せていた。一方で、鳶は呑気に会話を続けている。
「僕はいつも、自分みたいなのが存在していいのか、不安になるんです。僕は、薬漬けで、汚れてるから」
鳶は存在しない聞き手に対し、勝手に本音をぶちまけていく。
「うん、だから僕は、いつもいつも試すつもりで引き金を引くんです。僕はいつも、こう考える。神様に僕を生かすつもりがないなら、弾は外れて僕は敵に殺される……だったら逆に、銃弾が相手の頭を弾く限り、僕は生きるに値する。そう考えることにしたんです」
ホテルマンの制服を着たM&Dの社員が、上階から降りてきた。連絡がつかない部下がいるから、様子を見てきてほしいという。下で待機していた黒服の男たちは、フロントデスクの裏に隠された拳銃を取り出し、鳶を呼んだ。鳶は反応しなかった。
「でも1年前のあの日から、僕の哲学は揺れてるんです。あなたについてだけは、きっと何かの間違いだったって。神様があなたよりも僕に生きる価値を見るなんて、あるはずない」
黒服が乱暴な手つきで鳶の腕をつかみ上げた。鳶はブツブツと何もない空間に向かって喋るだけで、微動だにしない。ホテルマン風の男が黒服の肩に手を置き、無言で首を横に振る。黒服が舌打ちした。
「あなたに弾が当たって以来、僕は神様を信用できないんですよ、梟さん」
もうそこには存在しない、かつての師にむけて鳶は言った――そうだ、死ぬべきは、梟ではなかった。死ぬべきだったのは僕と――そしてあの人だった。
ふと、夢から覚めた鳶は、自分の周囲に誰もいないことに気がついた。
「あれ?」
ホテルのロビーはがらんとしていて、照明も落とされていた。上階から銃声が聞こえる――戦闘? 監禁されていた誰かが、鉄の扉をぶち破って暴れてる? 皆は先に行っちゃった? 呼んでくれればいいのに。
階段を上った先で、鳶の目の前に広がったのは、彼にとって馴染み深いピカデリーの
鳶ははしゃいで不思議なステップを踏み、何もないところで脚をもつれさせ、よろめいた。その頭上を、銃弾が掠った。鳶の目つきが変わった。
完全に寝惚けていた鳶の脳が、急に熱を帯びた。掠った弾の感触から、鳶は弾道を推定し、狙撃手の位置、身長、体勢、銃と弾丸の種類を導き出した。そして鳶は敵の狙撃手の心中を読み、2発目の銃弾が放たれるタイミングを察した。鳶がさっとしゃがみ込むと、その頭上を銃弾が貫いた。
鳶は未だに
鳶はケースからライフル狙撃銃――使い古されたスプリングフィールドM1903を抜き出すと、ギターケースを蹴り上げる。鳶の眉間を狙った3発目の弾丸が、跳ねあがったギターケースのど真ん中にのめり込む。
慣れ親しんだ
鳶が視界を取り戻し、今更ながらホテルの廊下にいることを知る。10メートルほど先がT字路になっていて、どうやら襲撃者は、その角に隠れてしまったらしい。先ほどまでロビーにいた、ホテルマン風の男や黒服の2人組が、床に倒れている――スティレットかアイスピックかは分からないが、心臓を貫かれ、既にこと切れている。銃がない。襲撃者に奪われたのだろう。
鳶は耳を澄ませ、相手の位置を推し量る。
「シュトラウス2世の『狩り』を聴くか?」
鳶は頭の中で計算式を組み立て上げ、T字の正面に設えられた窓を撃った。弾丸はステンレスの窓枠にぶちあたり、跳弾し、T字路の右側に消えていく。鳶は耳を澄ます――敵も悪運が強い。弾は壁に当たったらしい。
「
人間離れした鳶の空間把握能力は、かつてないほどにフル稼働し、正確無比の跳弾を量産した。鳶が立て続けに発砲した弾は、ひとつ残らず窓枠の角に同じ角度から命中し、まるで飛ぶ方向を命令されたかのだと言わんばかりに、襲撃者が隠れる右側の通路に向けて反射される。
一方的な弾丸の雨に炙り出され、いっそ正面からの銃撃戦に持ち込もうとしたのだろう。襲撃者が、赤く長い髪をたなびかせながら飛び出した。鳶の口の端が上がった――あ、やっぱり。依頼主が言っていた、フランス人のデザイナーの偽物だ。
「『ジャイアント・ステップス』って知ってる? 一度弾いたことがあるけど、とってもとってもめまぐるしいんだ」
鳶が銃弾を再装填する音が鳴る。それを合図に、赤毛の白人が鳶に向けて駆け出した。直線的な突進ではない、歩幅を変えてフェイントをかけ、時にスピンし、時にターンし、踊るように鳶の射線を翻弄しながら、ジグザグに距離を詰めてくる。
鳶は2度にわたり発砲した。相手を仕留めるための銃弾ではない。相手のフットワークの選択肢を狭め、鳶にとって有利なコースに誘導するための
2人の距離が残り2メートルまで縮まった瞬間、鳶はついに、赤毛の女の脳天を捉えた。トリガーを引く。反動で銃身が跳ねる。――勝った。これはもう、足さばきじゃ避けられない。
赤毛の女はタクティカルペンを額に掲げ、正面から弾丸を受け、叩き落とし、なおも鳶に突進してきた。
鳶は目を剥いた――待て待て待て。今何した? 文房具で弾を床に叩き伏せた? この距離でぶっ放された30口径の鉛玉を? 力技すぎるだろ。
「イカれてる」
赤毛の女が横に一閃、タクティカルペンを振った。鳶は上半身を大きくのけ反らせて躱したが、その隙に脚を払われ、床に仰向けに倒れこんだ。
鳶が狙撃銃を取りこぼした瞬間、研ぎ澄まされた感覚機能が失われ、鳶の視界にピカデリーの
「お久しぶりです、鳶の
鳶にとって、彼女の日本語を聞くのは初めてだった――中国語で話すときと大分印象が違う。舌足らずで、なんだか子供みたいだ――なんというか――。
「最後に会ったときより可愛いね、鈴蘭」
彼女はかぶりを振った。
「今のあたしは、鈴蘭じゃないんです。しがない泥棒の天野樹里。雅也の
鳶の幻想の中、天野樹里は照れたように微笑んで「でも、お褒めいただき光栄です」と日本語で言った。樹里はその笑顔を崩さないまま、鳶の心臓をタクティカルペンで貫いた。
死の直前、鳶の頭をあらゆる思考が駆け巡った。
――1年前、あの人が梟さんを殺すのに手を貸してから、薬物依存は悪化の一途をたどっていた――もう2度と
「昇る直前になったけど、僕はもうちょっとだけ、神様を信用できそうだ」
鳶は険もなく穏やかに眼を細めた。
「ゆっくりおやすみ。
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