第40話

 今、雑誌やテレビでしかお目にかかったこともないようなプールサイドに、水着姿の太田先生とリョーコがいる。そしてなんとなく場違いのようだが俺も。匂坂部長と中之森先輩は、なぜかわからないがロッカールームから出てこない。何をモタモタしてるんだか。

 リョーコはセパレートタイプの水着を着ている。セパレートといってもビキニではなく、上は丈の短いシャツで下はホットパンツのようなデザインだ。リョーコが着ると引き締まった腹筋と合わさり陸上競技のユニフォームのようにしか見えない。

 リョーコと俺は、少し離れた所でデッキチェアに腰掛けている太田先生を眺めていた。俺たち2人と違いすっかりホテルの高級感にけ込んでいる太田先生は、白いビキニ姿そのものがゴージャスだった。ロッカールームを出た先生がプールサイドに入る前にシャワーを浴びた時、白い水着が透けないか少しだけ期待してしまった事を告白します。誰だ白い水着は透けるなんてデマ流したヤツは。

 ちなみに俺のスマホは、防水パックに入れて準備万端だったのだが、先ほどリョーコに取り上げられてしまった。

 2人して太田先生を眺めているのは、決してボディに見惚みほれているからではなく、いやもちろんそれもあるのだが、先生の表情がずっと曇っているためだ。ホテルに着く前からずっと憂鬱な顔をしている。いろいろ気がかりな事があるのは分かっているつもりだが、先生には今回は気晴らしをして欲しい。


 それにしても、あの2人遅いな。何やってるんだ?


 先にプールに入っちゃおうかと考えたが、物憂げな先生を放ってそれはできない。どうしようかとリョーコと相談して、ガーデンカフェの存在に気づいた。待ってる間に何か飲み物頼んでおこう。俺たち2人も頼めば先生も何か頼むだろう。


 俺とリョーコは先生のデッキチェアに近づいた。先生は俺たちに気づかないかのようで、相変わらず物憂げな表情のままだ。シャワーで濡れた身体を、片膝を立てながらデッキチェアに沈めている様は、そのままグラビアから浮き出たかのようだ。

「あの、先生……?」

 俺は慎重に声をかけた。唾を飲み込む音が聞こえてしまうのではないかと恐れながら。

 ゆっくりとこちらを振り向く先生。するとサイドテーブルに置かれた先生のスマホがいきなり震えだした。なんというタイミングの悪さ!

 先生は真顔になりスマホに出る。こちらに背を向けながら、なんだか緊張したやり取りだ。緊急事態発生か? リョーコを見ると悲しそうな顔をしていた。クソ! なんてこった、せっかく先生の気分転換の機会なのに!

 通話が終わった後も、先生は背を向けたままで黙っている。通話の内容を確認するのが怖い。しかし確認しなくてはならない。俺は両の拳を握りしめ、覚悟を決めた。


 途端に先生がデッキチェアから跳ね起きる。振り向いた先生の顔は、上気して瞳がうるんで光り、まるで少女のようだった。そしてこちらが驚くより先に、先生は歓喜の感情を爆発させて俺に抱きついた!

「やったー!」と叫びながら子どものように何度も飛び跳ね、先生は豪華な重みを俺に押しつけてきた。俺は頭が空白になった。リョーコはどんな顔をしているんだろう、という一点だけが脳の片隅で点滅していた。


 時間にして10秒も無かったとは思うが、頭と身体が凍りついてしまっていたのでよく分からない。

 すぐに先生は我に返り、軽く咳払いを1つしてから「匂坂たち遅いな。何やってるんだ全く。確認しなくてはならんな」と、わざとらしくつぶやいてロッカールームに向かった。足どりが次第に早くなりスキップするようになっていったのは、嬉しいからか恥ずかしいからか分からない。


 先生の揺れる水着姿を見送りながら、俺の脳みそは半分が停止状態で、残り半分はいくつもの人格に分裂していた。


停止中50%

「…………………………………………………………………………」


分裂中50%

「何だったんだ今のは」「しかしいい尻してるな」「しまった! どこでもいいからんだりつかんだりすればよかった!」「今からでも遅くないから追いかけろ!」「先輩たち遅いな」「電話どこからだったんだろう?」「今の感触を忘れないうちにトイレ行って……」


「コーチン、ちょっと……」

 聞き慣れた音声信号を耳にして、分裂中の人格が生命の危機を感じ一瞬のうちに統合された!

「は、は、は、はいなんれちょなんでしょう」

 首だけやっとの思いでリョーコの方に向け、苦労して笑顔を作る。お世辞にも成功したとは言えなかった。

「なに硬くなってんのよ」

 俺は慌てて自分の水着を見下ろした

「バカァ! それじゃない!」

 殺気のこもった中段回し蹴りが飛んできた!

 咄嗟とっさに内受けで止めたが、直前まで首を下に向けていたためバランスを崩した。半身にもなりきれていなかったので蹴りの勢いを殺せず、数歩よろけて下がってプールに落ちる。


 プールに落下しながら思った


 リョーコの奴、相手が俺だからいいようなものの、普通なら傷害罪だぞ。そういえば、リョーコはいつからこんなに凶暴になったんだっけ?


 盛大に水しぶきを上げてプールに落ちながら、俺は気がついた。

 昔のリョーコは、気が強かったが、今みたいにすぐに攻撃はしてこなかった。

 ひょっとしてリョーコは、あの日恐怖で身体が動かなかった自分自身が許せないのではないのか。

 事実、リョーコが怒る時は、いつも性的な事がきっかけだ。

 ゆっくりとプールの底に沈み込みながら、俺は理解していった。

 それほど勉強が得意でなかったリョーコが、楠木高校に合格できるほど勉強したのはいつからか。

 リョーコが俺を化学部に誘ったのは、リョーコ自身が太田先生に憧れていただけではなく、空手から逃げてばかりいる俺を、なるべく空手に近い環境に置いておきたかったのではないか。

 そして、リョーコは単純にキレて攻撃してくるのではなく、俺に空手の技で防御するよう、ショック療法のように故意に技を出してきているのではないか。


 プールの底に背中が当たり、そしてゆっくりと水面に浮上していった。俺は自分の考えに驚きながら、そのまま水面に仰向けに浮かんでいた。


 俺は、今まで何を見ていたんだ。

 自分の痛みばかり気に取られ、リョーコの事を見ていなかった。


「ゴメンね、大丈夫? プールの底に頭打たなかった?」

 気がつくと、リョーコもプールに入っていた。水面が揺れ、俺の身体も緩やかに上下する。

 リョーコは、浮かんでいる俺の顔を心配そうにのぞき込む。俺の頭がリョーコの胸の辺りを上下している。リョーコの顔が近い。リョーコの顔に殺気はもうない。


 大丈夫、そう言って足を沈めてプールに立った。濡れた髪から水が顔に流れる。髪を手でげて目の前のリョーコを見直す。

 俺は、今まで何を見ていたのだ。

 俺が空手から逃げているのを見て、リョーコはどれだけ胸を痛めていたのだろう?

 受験勉強に逃げた俺を追いかけるのに、リョーコはどれだけ苦労したのだろう?

 俺はいつ、リョーコより背が高くなったのだろう?


(逃げるわけにもいかないか)

 太田先生の声が、突然頭の中によみがえる。

 すみません先生、逃げていたのは俺の方です。


「コーチン? どうしたの? 大丈夫?」

 心配そうなリョーコの声で我に返る。

 俺は、ほとんど無意識に手を伸ばし、リョーコを抱き寄せ、耳元にささやいた。

「大丈夫。俺はもう大丈夫だから……」

 リョーコの身体が驚きで硬くなり、次に柔らかく崩れていくのを、俺は両腕で感じた。

「ちょっ、ちょっとゴメンねコーチン」

 そう言ってリョーコは顔を伏せたままプールの中に潜りしゃがみ込んだ。そうだな、俺もリョーコのそんな顔は見たくない。

 少し心配になるくらいってから、リョーコが勢いよく立ち上がってきた。頭から顔に流れる水を手でこすりながら笑顔で言った。

「ゴメンねコーチン。でもビックリしちゃった」

 そう言ったリョーコの眼は、少しだけ赤くなっていた。

「コーチンもさっきビックリした?」

「ああ、かなりね」

 俺たちはどちらともなく笑った。

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