第36話

 俺たち化学部のメンバーは、そのまま中之森先輩の家に行く事になった。タクシーを手配しようとした先生を制して、中之森先輩がスマホで自分の運転手に連絡をとる。全員が乗れる車を用意してくれるらしい。車の到着まで少し時間があるため、俺たちは校舎中庭の木陰で休んでいた。


 リョーコが俺のそでつかんでつぶやく。

「コーチン、コーチンが自分から空手を使うの……久しぶりだね」

 そうだな。ましてや空手のアドバイスを自分から言い出すなんて、ちょっと前なら無理だったろう。自分でもその変わり様にビックリしている。今までは、リョーコの攻撃に反応しかける身体を、心理的ブレーキがいつも邪魔をしていたというのに。

 そういえば親父もうれしそうだったな。

 弾着の仕掛けやアクションのコツを説明する時の親父は、本当に楽しそうだった。実際の映画だと、正確な空手の動きはむしろ見栄えが悪くなるらしい。親父もスタントマン時代はそれで苦労したとか。アマチュア作品なら違いを気にせず、他の人にケガさせないよう注意して、とにかく思いっきりやれとも言ってた。

 親父とこんなふうに会話したのも、考えてみれば久しぶりかもしれない。あの一件で空手をやめて以来、親父との会話は、軽口に対する反発だけだったかも。

 いつか親父に、そんなに好きなスタントマンの仕事を、どうして辞めたのか訊いてみよう。いろいろあったんだと思うし。そう考えながら自分の拳を見つめる。空手の動きにはブレーキは外れたみたいたが、でも攻撃はどうかな。

 ふいに、拳頭から手首にかけてのインパクトと、湿った打撃音を思い出し顔をしかめる。まだ人を殴ることには心理的抵抗があるか。ま、殴らないで済むのが一番いい。


 あ、そうだ、1つ面倒な事が残ってたのを思い出した。

 あらためてリョーコを見ると、なんだかうれしそうな顔をしている。よし、今ならリョーコも機嫌よさそうだし……。

「リョーコ、貸して欲しい物があるんだが」

 俺はリョーコに耳打ちして頼み事を話した。

「は?! バカじゃないの!」

 途端にリョーコの顔色が変わり右上段突きが飛んできた。至近距離だが動きは読んでいたので左上げ受けでね上げ、そのまま体ごとリョーコを背後の樹に押しつけた。俺はリョーコに顔を近づけて言った。

「悪いけど、冗談とかじゃない。話を聞いてくれ」


 リョーコの顔から怒りの表情が急速に消える。なんだ? 今日は物分りがいいな? 跳ね上げた腕からも力が抜けている。

「おいお前たち! いくら仲がよくても、そういった事は教師の前でするもんじゃないぞ!」

 え? あ、この姿勢? ヤバイ、壁ドンだ! 違います違います! 慌ててリョーコを突き飛ばす。樹にリョーコの後頭部が当たってゴツンて音が聞こえた。

「痛いわねッ!」バネをかせてリョーコがつかみかかってくる。

「悪い! 謝る! とにかくちょっと説明させてくれ」

 不満でふくれた顔のリョーコをなんとかいなして、再度耳打ちする。話を聞いてリョーコの顔が真っ赤になり「信じられない」という眼で俺を見る。

「いいけど……他に方法無いの?」

「無い」

「先生には、先に話しておいた方がいいかも……」

 そうだな、早い方がいいだろう。

「先生、ちょっと……」


 顔を真っ赤にさせた太田先生を真近で見る光栄にあずかることとなった。

「堀川、この事を知っているのは?」

「リョーコだけです」

「これが知れたら今度こそ活動停止かもしれないぞ」

「でも、先輩たちには話しておかないと……」


「車、来たって!」

 正門の方から匂坂部長が呼んでいる。さて、正念場だな。

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